去りゆく日々の足音に

11.

 静かに映画が終わって、客電が戻る。
 深く息を一つついてから、綱吉は獄寺を振り返った。
「行こっか」
「はい」
 綱吉の頬にも瞳にも、先程の涙の痕跡は微塵もなかった。いつの間にぬぐわれ、乾いてしまったのか分からないまま、獄寺は彼の後に立って狭い上映室を出る。
 外に出ると、真昼の陽射しが眩しかった。
「まだちょっとお昼には早いかな」
「今から駅前まで戻れば、多分、いい頃合になりますよ」
「そうだね。バス、すぐに来るといいけど」
「確か28分にありましたよ。その後も大体、15分間隔です」
「そっか。ありがとう、獄寺君」
「いえ、これくらい当然です」
 そう言うと、綱吉は小さな笑みだけを獄寺に向けて、前方へとまなざしを戻した。
 そのまま何を言うでもなく、日曜日の商店街を肩を並べて歩く。
 駅前から少し遠いこの商店街は、客筋は近所の人に限られているのだろう。少しばかり寂れた印象で、閉店したのか単に定休日なのか、シャッターが下りている店も所々に見える。
 それでも通りの入り口にバス停があるせいか、人通りはそれほど少なくはなかった。
「映画、退屈じゃなかった?」
 何となく通り過ぎる人々に意識を向けていたせいだろう、不意の問いかけに反応が一瞬遅れる。
 その一瞬の間を誤解されなければいいが、と思いながら獄寺は答えた。
「いえ。俺はどっちかっていうと、派手なハリウッド映画よりヨーロッパ映画の方が好きっていうか、見慣れてますから。いい話でしたよね?」
「うん。風景が綺麗だった。あの一面の菜の花畑とか。見渡す限り黄色だったよね」
「あっちにはああいう風景、結構ありますよ」
「そうなんだ? イタリアにもある?」
「菜の花は見たことないですけど、一面の小麦畑とか、ヒマワリ畑とか、葡萄畑とか、オレンジやレモンの果樹園とかなら。春先のアーモンドの花が満開になったところも綺麗っスよ」
「アーモンドはシチリアの名産だよね。桜みたいな花だったっけ」
「ええ。よく似てます」
「きっと綺麗なんだろうな」
 きっと十代目の気に入りますよ、と言いかけて、獄寺はやめる。
 代わりに、商店街の先を指差した。頃合良く、バス停付近に十人近い人が群がっている。
「あ、そろそろバスが来るみたいですね」
「本当だ」
「ちょっと急ぎますか」
「うん」
 ……何故というわけではないが、最近の綱吉の前ではイタリアの話はしにくかった。
 もともと獄寺自身が、生まれ故郷に対して良い印象も想い出も持っていないが、それとは別に言葉にしがたい危機感のようなものが、獄寺を押しとどめるのである。
 綱吉が将来ボスになることを否定しなくなればなるほど、そして、イタリア語に馴染み、イタリアに興味を示せば示すほど。
 かえって獄寺は、イタリアについてのことを話せなくなる。
 最初のうちは分からなかったその理由に、そろそろ獄寺自身も気付き始めていた。

12.

 駅前のファーストフード店で綱吉と向かい合い、ハンバーガーとポテトのセットを食べている間、何気ない会話を交わしながらも獄寺の脳裏を占めていたのは、先程の映画だった。
 見ている最中は、どちらかというと隣りにいた綱吉の方に意識が向いており、気付かなかったのだが、あの映画はまるで、自分たちの出会いを暗喩しているかのようだった。
 目を背けたくなるほど激しく家族と衝突し、荒れに荒れて家を飛び出した主人公と、静かな森での生活に突然飛び込んできた彼女に戸惑い、困惑しながらも、温かな食事や寝床を提供し、気遣う無骨で寡黙な男。
 ありのままの自分を初めて他人に受け入れられた主人公が零した涙は、獄寺には痛いほどに理解できるものだった。
 自分だって、泣きたいほどだったのだ。
 もう何年も前、綱吉が自分の存在を認めてくれたとき、自分の存在を……命を望んでくれたとき。
 自分が感じたものは、嬉しいなどという小さな言葉で表現できるものではない。それはとてつもない感情の嵐だった。
 竜巻のように激しい想いが巻き起こり、状況が状況でなければ、そして人目がなければ、その場で泣いていただろう。
 寂しかった。
 悲しかった。
 苦しかった。
 何をどれだけ破壊しようと、他人をどれだけ傷つけようと、それで心が安らいだことは一度もなかった。
 そんな荒(すさ)み切った自分を、戸惑い、怖がりながらでも、受け入れてくれた人。
 今もこうして、傍にいることを許してくれている人。
 獄寺にとって、綱吉は唯一絶対の存在だった。彼のためなら、何を投げ出しても惜しくはない。
 けれど。
 彼は獄寺のものではない。一生、そうはならない。
 そして、互いに均等でない想いは、想いを押し付けられる側にとっては、ただの重荷にしかならない。
 リボーンの一言でそれに気づいたときから、獄寺は自分を抑えるようになった。
 綱吉の邪魔をせず、彼の意図を間違えず理解し、そして彼を傷つけることがないように。
 彼に重荷を感じさせることなく、何があっても助けられる距離に居られるように。
 ちょうど高校に入った頃から激しい自己主張をしなくなった獄寺に対し、色々な人間が「成長したな」などと声をかけてきたが、それも当然だった。
 成長するしかなかったのだ。
 綱吉のため、そして自分のために。
「そろそろ出ますか、十代目」
「そだね。おなかも一杯になったし」
 コーラのMサイズが空になったところを見計らって声をかければ、綱吉は屈託なく笑って立ち上がる。
 ──何があっても、この優しい人の心を裏切らない。
 それが唯一、獄寺が自分自身に課した枷だった。

13.

 何かを考えてるな、とは感じていた。
 映画館を出た辺りから、どことなく獄寺の言動は、いつもに比べるとほんのかすかに上滑りしている。
 やはり映画の選択が悪かったかな、と綱吉は思う。
 『現代の大人のためのおとぎ話』と書かれたレビューの文章に何となく惹かれただけなのだが、映像の美しさはともかく、ストーリーがあまりにも暗示的だった。
 もちろん出会い方のパターンが似ているというだけで、違う部分は山のようにある。
 獄寺が家を出た理由は主人公より遥かに壮絶だったし、自分もあの木こりの男ほど獄寺に対して優しくできるようになったのは、出会ってから随分と時間が立ってからのことだった。何よりも、男と女ではないから、ああいう情愛という形での受け入れ方は最初から無理である。
(──本当に?)
 そこまで考えて、ふと思考が何かにつまづいたようになる。
 それが何なのかはっきりとは分からないまま、綱吉は隣りを歩く獄寺の横顔を、そっと見上げた。
 こうして連れ立って歩くとき、獄寺の口数は昔に比べると随分と少なくなった。
 昔は何かと綱吉に話しかけ、うるさいほどだったのに、今は綱吉が話しかけたときや、彼の方に話さなければならないことがあるとき以外は、自分から口を開くことは少ない。
「獄寺君」
「何ですか?」
「コンビニ寄っていきたいんだけど、いい?」
「はい。もちろんっスよ」
「ありがと」
 当たり前の礼を言うだけで、彼は嬉しそうになる。
 それは最初から変わらない。
 変わらないのだけれど。
(今、何を考えてるの)
(あの頃の、何でもないようなことを次から次に話してくれていた君は、どこに消えたの)
(どうしてそこまで俺に気を遣うの)
 突き詰めるまでもなく、答えは一つだと分かっている。
 昔はあんなにお互い無邪気に、言いたい事を口にしていたのに。
 自分がボンゴレのボスになることを否定しなくなった頃から、比例するように獄寺も、激しい自己主張をしなくなったのだ。
 それを寂しいと言ってはいけないのだろう。
 獄寺のためを、そして自分のためを思うのなら。
 それでも。
(それでも、俺は君の声が聞きたい)
 叶うことなら、主と部下という垣根すら取り払って、対等に、子供のように無邪気に。
「どうかされましたか、十代目」
「ううん。どうもしてないよ?」
「そうっスか。なら、いいんですけど」
 表情には殆ど出ていなかったはずなのに、それでも気遣う獄寺に、綱吉は何でもないと微笑を向ける。
 それでいいのだと分かっていても、ほんの少しだけ、胸が痛かった。

14.

 上天気の今日、屋外は暑いくらいだが、マンションの上階なら窓を開ければ、まだ冷房は必要ない。
 獄寺が手早く二人分の炭酸飲料のグラスを用意してリビングに戻ると、綱吉は先週からテキスト代わりにしているイタリアのスポーツ雑誌を開いて眺めていた。
「分かります?」
「まぁ何となくだけどね。……このフレーズ、何て意味?」
「どれです?」
「ここ。“Hanno ottenuto avidamente la vittoria.”」
「直訳すると、“彼らは貪欲に勝利を得た”。もう少し日本語らしくすると、彼らは貪欲に勝ちに行った、ってとこっスね。時制や語尾変化は分かりますか?」
「うん。“avidamente”の意味が分からなかっただけだから」
 笑って答えてから、綱吉はトレイに載った炭酸の泡のはじけるグラスを見て、ありがとう、と短く礼を言った。
 そして再び、雑誌へとまなざしを落とし、発音を確かめるように小さく呟きながら、ゆっくりと文章を読んでゆく。
 二人がいる位置まで直射日光は入ってこないが、南に面した室内は明るく、少し目を伏せた綱吉の睫毛が金茶色に光っている。
 それに気付いた時、獄寺は先程、映画館で彼の涙を見たときに感じたものと良く似た痛みを、胸の奥に感じた。
 ───自分とは比較にもならない、きれいで優しい人。
 この人だ、とずっと思ってきた。
 自分の上に立つのは、大ボンゴレの頂点に立つのは。
 この人よりふさわしい人はいない。そう感じるのは今も変わらない。否、時を経て、彼が強さを増してゆくのを目の当たりにすればするほど、確信は深まる一方だ。
 確かに綱吉には、見た目の頑強さ、恐ろしさはない。けれど、そんな薄っぺらな外見など足元にも及ばないものが、彼にはある。
 この人なら、あの一癖も二癖もある幹部たちや、その他大勢の構成員をまとめてゆける。
 傘下の同盟ファミリーをも魅了して、ともすれば血で血を洗う大抗争に陥りがちなシシリアン・マフィアの世界にそれなりの秩序を持たせ、安定に導くことが出来る。
 幼い思い込みではなく、生まれた時から暗黒の世界で育ってきた、裏の世界でしか生きられない男の目で見たときのそれが結論だった。
 けれど。
 それでいいのか、という思いが同時に沸き起こる。
 初めて危機感にも似た思いを感じたのは、二年前に綱吉がイタリア語を教えて欲しいと求めてきたときだ。
 いつものように快諾できず、一瞬の間が空いた。
 そこから始まって、綱吉のイタリア語の語彙が増え、少しずつ会話が滑らかになってゆくのを感じるたび、彼がイタリアに関するものに興味を示すたび。
 何かが獄寺の中に降り積もってゆく。
 危機感のような、焦燥感のような、何か。
 ───言わなければ。
 もう、言わなければならない。
 自分たちは高校三年生で、この秋には十八歳になる。
 もう時間は残り少ない。
 だから、今、言わなければ。
 やっと正体が掴めた、この危機感の、焦燥感の理由を。
「十代目」
 そう呼ぶと、綱吉はいつもと同じように、何?と顔を上げて、深い琥珀色の瞳でこちらを見た。
 

15.

 綺麗な色だ、と思った。
 日伊の混血である綱吉の瞳の色は、純粋な日本人のものに比べるとかなり明るく、光に透けるとスコットランド産の蒸留酒を思わせる深い琥珀色に見える。
 綱吉の父、家光は日本人離れした体格と、金茶に近い明るい色の髪と瞳の持ち主だが、彼の息子である綱吉も、隔世遺伝により西欧の血が強く出たのだろう。
 瞳の色だけでなく、成長期も終わりに差しかかった今、綱吉は伊日クォーターの獄寺ほど顕著ではないが、日本人のようにも、またそうでないようにも見える、つまり異国の血が入っているといえば即座に納得される容姿に成長していた。
 体格は相変わらず筋肉がつきにくく細身だが、身長は随分と伸び、やわらかな雰囲気の内側に凛とした何かが年々備わり始めて、今やクラスメートの少女たちから向けられる意味深な視線の数は、獄寺に勝るとも劣らない。
 そんな綱吉の変化を、獄寺は一番近い場所で見つめていた。
 ───まるで大輪の花が、花びらを一枚一枚ゆっくりと時間をかけて開いてゆくようだった。
 今ですら、外側の花片の幾枚かが開いただけで、満開には程遠いだろう。
 この先何年も、もしかしたら数十年以上をかけて、綱吉は変貌してゆく。ゆっくりと確実に、美しく。
 おそらくあと十年もすれば、彼が何をせずとも全イタリアの暗黒街はこぞって、淡く花びらをほころばせた黄金の絶華の前に膝をつき、ひれ伏すだろう。
 その光景が目に見えるようだった。
 伝説となったボンゴレ一世のように、暴力でも策謀でもなく、彼自身の存在感のみですべてを統率し、掌握する。ボンゴレ十世も、きっとそんな稀代のドンになれる。
 そんな彼の傍らに立つ自分の姿は、獄寺の夢だった。
 まばゆいばかりの黄金色の夢。
 けれど。
「十代目……いえ、沢田さん」
 そう呼べば。
 初めての呼称に、綱吉の瞳が少しばかり驚いたようにかすかにみはられる。
 その綺麗な色を正面から見つめながら、獄寺は一つ静かに息を吸った。
 声が震えないように。
 それだけを思いながら、ゆっくりと口を開く。
「沢田さん。……あなたがなりたくないのなら、無理にボンゴレのボスになる必要はありません」

to be continued...






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