去りゆく日々の足音に
6.
バス停のある通りに出ると、獄寺の姿は、遠目にもすぐ見つけることができた。
高校に入ってから綱吉の身長は急激に伸びたが、獄寺もそれ以上だった。
既に180cmを超えているだろう。日本国内では、どこにいても頭一つ飛び抜けているし、西欧と東洋の混血だけが持てる、日欧どちらとも判別のつかない華やかで端整な容貌が、人目を惹くのに拍車をかけている。
最近になって少年の甘さが薄れ、大人びた精悍さが加わり始めたせいで、クラスメートの少女たちからは以前ほど気安く声をかけられることはなくなり、それよりも遠巻きに見つめられることの方が増えたようだったが、それも納得できる変化だった。
「獄寺君!」
少しだけ足を速めながら、名を呼ぶと、獄寺はぱっと顔を上げてこちらを振り返る。
だが、昔のように無邪気なやんちゃ小僧の顔で手を大きく振るような真似はせず、まなざしだけを綱吉に据えたまま、その場を動かずに綱吉が近付くのを待った。
「おはようございます、十代目」
「おはよう。待たせちゃったかな」
「いえ。俺も五分くらい前に来たとこなんで。それに待ち合わせの時間まで、まだあと五分ありますよ」
小さな笑みを浮かべながら、獄寺は答える。
「そう? なら良かったけど」
「十代目はいつも時間に正確っスから。待たされたことなんて、俺、殆ど覚えがないですよ」
「正確なのは獄寺君の方でしょ。待ち合わせで、君の方が遅かったことなんて、それこそ覚えがないよ」
「そりゃ当然っスよ。十代目をお待たせするわけにはいきません」
「別に、獄寺君が大遅刻してきても、俺は怒らないけど?」
ああ、まただ。
そう思いながらも綱吉は、口調も声の調子も変えないままに言葉を返す。
「そんなこと言わずに、俺がヘマした時は特大の雷落として下さい。俺も死ぬ気でお詫びして反省しますから」
「死ぬ気は困るけど……でも俺、結構君のことは叱ってる気がするよ? 無茶したときとか、人の話聞かないときとかだけど」
「──あー。それは否定できないかもです。すみません十代目」
「あはは。いいよ。俺がどういうときに怒るか、獄寺君ももう分かってるだろ」
別に、獄寺の言葉に傷ついているわけではない。
五年もの付き合いになれば、マフィアの系譜に生まれながら、そこから疎外され続けていた彼にとって、自分がボンゴレ十代目であるということがどれほど重大な意味を持つのかも、完全にではないにしろ理解できていたし、綱吉自身もそれを受け止めてやりたいとも思っている。
そう、『十代目』という呼称を否定しようとは思わない。
ただ、ほんの時々だけでいい。月に一度、半年に一度でも構わないから、彼が自分を対等な存在として扱ってくれたら。
自分の傍らにいる時により顕著になる心身の緊張を解いて、もっと自由に、彼の思うままに振舞ってくれたら。
それは、全身全霊をかけてボンゴレ十代目の右腕であろうとする彼をおそらく傷つける思いだったから口には出せなかったが、もう何年も前から綱吉の中で密かにくすぶり続けている願いだった。
(君に変わって欲しいわけじゃない。君は君のままでいい。けれど、)
───お願いだから、壁を作らないで。
誰にも壊せない、越えられないような高くて分厚い壁を。
俺と君の間に、作らないで。
どうか、お願いだから。
7.
その映画館は、駅前の繁華街からは離れた小さな商店街の、そのまた奥にあった。
バスを途中で一度乗り換え、七分ほど歩いてそこに辿り着いたのは、計算通りにちょうど上映時刻の十五分ほど前だった。
「十代目、飲み物はどうします?」
「んー。今はいいや。獄寺君は?」
「俺も、今は別に喉渇いてないっス」
「じゃあ、あとで昼御飯ってコトで。とりあえず入っちゃおうよ」
「はい」
切符売り場で、映画代を持つ持たないを多少もめた後、結局は綱吉が押し切って割り勘になり、獄寺は綱吉の前に立って小さな映画館の中に入る。
普段は、綱吉が「隣りじゃないと話し辛いから」と並んで歩くことを望むため、獄寺もその通りにするのだが、初めての場所を訪れる時、獄寺が綱吉の前に立つのは、もはや習い性だった。
「やっぱり小さくて狭い……けど、思ったよりお客さんいるね」
「まぁ土曜ですし、雑誌に紹介されてましたからね」
上映室はまだ客電が消されておらず、薄明るい。その中でひそひそと言葉を交わしあい、二人は中央後方の席を選んで、クッションのへたりかけた古い座席に腰を下ろす。
そうして一息ついてから、綱吉が隣りの獄寺へと顔を向けた。
「ごめんね、つき合わせちゃって」
「え?」
「いや、考えてみたら、俺一人で見に来ても良かったんだよね。ここに来るのは初めてだけど、バス停から一直線だから、これなら道にも迷わなかったと思うし」
その綱吉の言葉に、獄寺は心外だと言わんばかりの表情になる。
「それを言うなら、俺が一緒に行きましょうって言ったんですよ。十代目が謝られるような筋じゃないです」
「それはそうだけど。せっかくの土曜だし、獄寺君もやりたいことあったんじゃない?」
「俺は何にも予定ないですよ。この映画がなければ、家でだらだら遅寝してただけです。……それとも俺、十代目の邪魔しちまいましたか?」
「へ? なんでそんな話になるの?」
「いえ……。もしかしたら十代目は、お一人で見たかったのかなぁと」
「そんなわけないじゃん。もう、君は俺に対して、変な気を回しすぎ」
「それをおっしゃるなら十代目もですよ。俺の予定なんて気にしないで、どこでも連れ回して下さればいいんです」
「……そういうわけにはいかないよ」
綱吉の返事は、小さな溜息めいた呼吸を挟んで、わずかに遅れた。
だが、それについて獄寺が何かを言う前に、上映開始のアナウンスがかかり、客電が落ちてしまい、結局その会話についてはそれきりになった。
8.
映画を見るのは、久しぶりだった。
最近のシネコンとは違う、小さくて古い上映室。クッションのへたりかけた座席。
そういえば、イタリアの映画館はこんな感じのところが多かった、と獄寺はスクリーンを見つめながら思い出す。
生家である城を飛び出し、一人で街を彷徨っていた頃、手持ち無沙汰によく映画館で時間を過ごしていた。
暗くて狭い室内と、白布のスクリーンに映し出される映像と、音響に混じって聞こえる映写機の回るカラカラという乾いたかすかな音。
その現実世界から切り離されたような空間にいる短い間だけ、獄寺は自分を取り巻いているものを忘れることができた。
映画が好きだったのかと問われると、それは良く分からない。
嫌いでないのは確かだったが、求めていたのは映像や音ではなく、空間そのものだったからだ。そして、それを求める心すら、ひどくすさんだ部分から生まれたものだった。
それが今は、と思う。
誰かと一緒に映画を見る、という行為は、日本に来てから覚えたことだった。
二人であったり、大勢であったり。
さほど頻繁にではなかったが、映画を見に行くときには、いつも同じ人が隣りにいた。
彼に出会わなければ、きっと一生、誰かと映画を見ることも、映画館を出た後、ファーストフード店で感想を語り合う楽しさも知らないままだったろう。
彼──沢田綱吉に出会った時から、獄寺の世界は大きく広がったのだ。
裏世界の情報や慣習、武器爆弾の扱いには長じていたが、それ以外のことは何も知らず、知ろうともしなかった獄寺の前に現れた、沢田綱吉という人間と彼を取り巻く日常生活は、獄寺の世界観や価値観を根底からひっくり返したといっていい。
それまで獄寺の知る人間という生き物は、薄汚く暴力的で、惨めな存在だった。
尊敬に値する人間がまったく居なかったわけではないが、それは極わずかな例外で、獄寺にとって世界の殆どは唾棄すべき汚物溜めだった。
だが、その極わずかな例外であるボンゴレ九代目の命に従って日本に来て。
そこで出会った綱吉や彼の周囲の人々は、命あるものだけが持つやわらかな温かさ、そして、他人を思う優しさから生まれる強さを獄寺に見せてくれたのだ。
人間という生き物の、一番美しい部分。
それを知らずに生きてきた獄寺にとって、沢田綱吉という存在は、まさに奇跡に等しかった。
彼がその優しさを見せてくれるたびに心が震え、だが、それには喜びばかりではなく、かけがえなく尊いものに対する畏敬も含まれていることに気付いたのは、いつのことだったか。
カトリック教会総本山のお膝元に生まれて生誕直後に洗礼も受けていながら、まともに神に祈りをささげたことなど一度もなかった獄寺が、人が祈る意味を、その心を初めて理解したのは、故郷を遠く離れた異国の空の下でのことだった。
9.
映画は、淡々と進んでいた。
家族や周囲の人々との関係が上手くいかず、衝動的に家を飛び出したフランス人の若い女性と、車を走らせた先で出会ったドイツの深い森に住む木こりの青年の、ぎこちなく始まる交流を描いたストーリーは芸術作品に分類されるものなのだろう。
スクリーンに映し出される映像は、田園風景の光と森の輝きに満ちて、どこまでも切なかった。
フランス語しか話せない主人公と、ドイツ語しか話せない青年との会話は、言葉ではなく身振り手振りといったもので、ストーリーの後半は台詞は殆どなく、そのせいか人の表情や目というものは、これほどまでにも饒舌なものか、と獄寺は改めて目をみはった。
主人公の、そして相手の男の小さなまなざし一つで、それが問いかけを意味しているのか、感嘆を意味しているのか、見ている者に伝わる。
そして、家族の中では常に緊張してこわばり、決して美しくは見えなかった主人公の顔が、深い森の中で初めての笑みを浮かべ、ゆっくりとやわらいでゆくのを獄寺は不思議な気持ちで見つめた。
(十代目は、何を思ってこの映画を選んだんだろう?)
──『現代の大人のためのおとぎ話』
綱吉が見ていた雑誌の短いレビューには、そう評されていた。
綱吉が何故、この映画に惹かれたのか、分かりそうで分からないものの、この映画のとりわけ後半に満ちている静かな美しさ、優しさに触れたいと思ったのかもしれない、と思い。
ふと、彼がどんな表情でこの映画を見ているのか気になり、さりげなくスクリーンから視線を外して隣りを見た瞬間。
獄寺は、魂を丸ごと鷲掴みにされたような気がした。
──スクリーンの明かりを受けて青白く見える頬を、静かに伝い落ちる雫。
反射的に脳裏でそれまでの物語を反芻したが、主人公と家族の激しい衝突が描かれていた前半に対し、後半はただひたすらに深い森の中での情景が描かれていたばかりで、特に涙するような場面は思い浮かばなかった。
だが、そんなことは問題ではなく、ただまっすぐにスクリーンを見つめる瞳から零れ落ちた雫と、それをぬぐうこともしない横顔は、スクリーンにあるものと同じ静謐さに満ちていて。
ただ、うつくしい、と感じた。
言葉もなく横顔を見つめ、それから獄寺はそっとまなざしをスクリーンに戻す。
彼の涙を見てはいけないものだとは思ったわけではない。
そうではなく、彼が今いるだろう静謐な空間を、不躾な視線で壊してはならない。そう感じたから、獄寺は黙ってスクリーンを見つめ続けた。
10.
獄寺が、綱吉の持つ美しさに気づいたのはいつの頃だったか。
美しさ、といっても、それは世間一般でいう美貌の意味ではなく、彼の内側からの輝きのことで、彼だけが持つ透明でやわらかい温かさ、そして何かを守ると決意したときの凛とした強さは、時として、生まれ持った顔立ちなど意味をなさなくなるほどに彼を綺麗に見せる。
綱吉のそんな表情を目にするたびに、獄寺は彼への傾倒を深めていった。
それまでの自分が信じていた、他人を叩きのめし周囲を破壊しつくす強さとは対極にある、何をも破壊することのない、誰かの涙や痛みを止めるための静かな強さ。
生まれて初めて出会ったそれに魅せられ、強烈に心惹かれたのは、おそらくどうしようもないことだっただろう。
だが、その傾倒が危険な水位に達している、と幼児姿の殺し屋に指摘されたのは、三年ほど前のことだった。
綱吉に四六時中まとわりつき、他者が近寄ろうとすると威嚇する。そんな獄寺の態度を見かねてのことだったのだろうが、彼の溜息交じりの言葉はひどく重く響いた。
『ツナはお前のボスになるんじゃねえ。大ボンゴレのボスになるんだ』
その意味を理解するのに数秒必要だったが、獄寺にはそれだけで足りた。
──そう、綱吉が襲名するのは、ドン・ボンゴレの座だった。
イタリア最大のファミリー・大ボンゴレは、数千人の<名誉を重んずる男たち -uomini d’onore->を従え、傘下にも多くの同盟ファミリーを有している。
その頂点に立つドン・ボンゴレは、当然のことながら、決して特定の誰かのものにはならない。
敢えて言うとしたら、ボスはファミリー全体、この場合は大ボンゴレのものだった。誰かの、などという所有格は決してつかない。
マフィアの家系に生まれていながら、なぜ獄寺がそんな常識を失念したのか、それは綱吉との出会い方が特異すぎたからだろう。
自分がドン・ボンゴレの血統であることを知らされたばかりだった中学一年生の綱吉は、まだ一人の部下も持たない小さな存在でしかなかった。
そして獄寺も、それまでは特定のボスを持たない一匹狼だった。
だから、獄寺も勘違いしたのだ。
彼を、自分だけのボスだと。
だが、ミルフィオーレとの抗争時に山本にも指摘され、その一年後、リボーンに冷水を浴びせかけられて。
のぼせ上がっていた獄寺は、ようやく現実に気づいた。
綱吉はボンゴレの十代目であり、自分はたとえ筆頭であったとしても、数千人いる部下の一人でしかない。
彼の第一の部下であることを望んでいたはずなのに、彼の傍で彼を独占することに慣れていた獄寺にとって、それは何とも苦い現実だった。
to be continued...
NEXT >>
<< PREV
格納庫に戻る >>