Stardust Lullaby 02

 せっかくだからと夕食は地上で済ませ、あの世に戻ってきたところで、白澤は服装をいつもの白衣に替えた。二人して現世服では、さすがに目立つと思ったのだろう。
 鬼灯もキャスケットを取り、さて、と白澤を見やる。このまま逃がしてやる気はなかった。
「それで、どうします?」
「へ? どうって……」
「このまま帰るつもりですか?」
 何のために予定をやりくりして、丸一日空けたと思っているのか。天国と地獄の境界で、鬼灯は白澤を見つめる。
 自分のまなざしにどういう効用があるか、理解はできなくとも知っていた。
「このまま、って……そりゃ勿論……」
「貴方が私との付き合いを大事にしようとしてくれているのは理解しましたよ。でも、それだけで足りるものではないでしょう?」
 先程、現世の海岸で交わしたキス。あれは白澤の欲望をも如実に伝えてきていた。
 手を繋ぎ合わせ、触れるばかりの口接けを交わす付き合い方が悪いとは言わない。けれど、今日、十分過ぎるほどに堪能したではないか。
 その期間はもう過ぎた、というのが鬼灯の言い分だった。
 冷徹が定冠詞となっていようと、この身は木石ではない。鬼が身の内に飼っているのは、絶え間なく燃え盛る焔(ほむら)だ。
 その炎熱を恐れることなく手を伸ばし、掴み取ろうとするもの。それが鬼灯は欲しかった。
「貴方は私が欲しくないんですか」
 詭弁を弄す余地など決して残さぬよう、端的に問い詰める。すると、白澤の表情が揺らいだ。
「――欲しくないわけ、ないだろ……。そんなの、当たり前だ」
「だったらもう十分でしょう?」
 ゆっくりと半歩、鬼灯は二人の間の距離を詰める。
「貴方は十分すぎるくらいに私を大切にしてくれた。不用意に触れることもなく、毎晩電話をして優しい言葉ばかりをくれた。そんなつもりはなかったでしょうが、こうして焦れて我慢ならなくなるくらい、貴方は私に十分過ぎるものをくれたんですよ」
 更にその先が欲しい。そう望まずにはいられない程、十分すぎる愛情をひと月の間、注がれた。蓄えられた蜜はもはや滴(したた)り落ちんばかりになっている。
 あとはその手を触れさえしてくれれば、華は開く。準備はとうに整っていた。
「貴方の部屋と、私の部屋。どちらがいいですか」
 選択を迫ると、白澤の顔は何とも言えない葛藤に苛まれる。
「うちは……今日は桃タロー君がいるはずだから……」
「じゃあ私の部屋ですね。狭い寝台が嫌なら、どこかで部屋を取ってもいいですけど」
「いや……」
「それなら、行きましょうか」
 獲物が混乱しているのならなし崩しに事に持ち込むに限る。先に立って歩き出せば、まだ戸惑いが抜けない様子のまま、白澤もついてきた。
「鬼灯……」
「何です?」
「何ですって……。お前、本当にいいの?」
「良くなかったら誘うわけないでしょう」
「そりゃそうだろうけど」
 出迎えてくれる牛頭と馬頭に適当に挨拶を交わし、地獄の門をくぐる。お帰りなさい、と方々から声をかけられるのに応えながら、道行(みちゆき)を短縮するため、朧車を捕まえて乗り込んだ。
 その間は黙っていた白澤だが、閻魔庁の前で降りた途端、またぴいぴいと鳴き始める。
「なあ、鬼灯……」
「だから、何です」
「本当にお前、今でいいの?」
「しつこいですよ」
 閻魔庁に入った途端、駆け寄ってくる幾人かの部下に歩きながら指示を与え、込み入っていそうな問題は明日確認しますと答えて奥へと進む。
 そして、それ以上の面倒事が持ち込まれる前にと足早に法廷の脇を抜けて、官舎の方へと向かった。
 長い長い廊下を抜けた先、鬼灯紋の扉が見えてくる。
 この部屋を白澤が訪れるのは初めてではなかった。もう数百年単位で昔のことだが、鬼インフルエンザで調子を崩した時に往診に来てもらったことがある。その頃と室中は大差ないはずだった。
「どうぞ」
 鍵を開け、室内に招き入れる。扉を閉めて振り返れば、まだ白澤はひどく戸惑った顔をしていた。
「案外に貴方って往生際が悪いですね」
「そういう問題じゃないだろ……」
「そういう問題ですよ。私がいいと言っているのに、何を躊躇ってるんです?」
「何って……」
 ぐずぐずと言い募る白澤に、鬼灯は足を踏み出す。
 正面に立ち、相手の心臓の上に手のひらを置いた。
「まだ覚悟が定まらないのなら、少し意地の悪い言い方をしましょうか。――私は一ヶ月、貴方の流儀に付き合いました。本当に私のことを想っているのなら、私の欲も叶えて下さい」
「――お前、それは直球過ぎ……」
「こうでも言わないと貴方は動かないでしょう? 貴方も大概、頑固ですから」
 きっぱりと言い切ってやると、白澤は追い詰められて途方に暮れた顔になる。あと一手、と鬼灯は見た。
「ここまで付いてきておいて、今更要らないなんて言葉は聞きませんよ」
 駄目押しをすれば、白澤は大きな溜息をつく。
 そして前置きなく手を上げて鬼灯の腕を掴み、引き寄せる。ぎゅうと抱き締められて、やっとかと鬼灯は肩の力を抜いた。
「その気になるのが遅すぎますよ」
「うるさい、馬鹿」
「貴方だって馬鹿です」
 両腕を上げ、背を抱き返す。うんと近い距離で温もりを直接に感じるだけで、やはり不思議な安心感が湧き起る。
 馬鹿でも間抜けでも、この神獣が好きだと思う。とにかく今は、この獣が欲しかった。
「ホント、優しくしようとしても、肝心のお前が邪魔ばかりするんだからなぁ」
「鬼ですから」
「全くだよ」
 そう言い、白澤は鬼灯に口接ける。最初から遠慮なく割り込んでくる舌は、昼間のキスに比べると優しさは変わらないものの、いささか荒っぽかった。
「シャワー、使います?」
「そうだな」
 お前の匂いが薄れるのは勿体ないけど、と白澤は鬼灯の首筋でくすんと鼻を鳴らす。
「一日、出歩いてたしな。ざっと流そうか」
「ええ」
 どちらが先に、などというまどろっこしい問答はしなかった。
 備え付けの浴室に向かい、それぞれに服を脱ぎ捨てる。ここで羞恥を感じるには、互いに年季を重ねすぎ、場数を踏み過ぎていた。
「お前って綺麗な身体、してるよな」
「そうですか?」
 シャワーの栓をひねりながら鬼灯はさらりと受け流す。
 容姿を褒められることはたまにあるが、自分自身を美醜観をもって見たことはないため、よく分からないと言うのが正直なところだった。
 ただ、この身体に白澤がそそられてくれるというのなら、価値はあると思う。
 備え付けの浴室は狭いが、シャワーのみであれば二人で入ってもどうにかなる。やや熱めに設定した湯を全身に浴びながら鬼灯は仕掛けられたキスを受け止めた。
 ついばむように数度、やわらかく唇を食まれる。その心地よさに薄く開いた唇の間から舌を伸ばせば、優しく舐められ吸われた。
 急くつもりはないのだろう。先刻、海岸で交わしたキスと同じように白澤はゆったりと口腔をまさぐり、舌を絡める。
 過敏であると既に知れた箇所を何度も舌先でなぞられて、思わず小さな声が喉奥から零れる。肩に置いた指先に無意識に力がこもると、腰をぐいと抱き寄せられた。
 互いの身体に両腕を回し、長く存分に貪ってから唇を離す。それでも猶、唇や舌を触れ合わせながら目を開ければ、白澤はいつになく強く光る眼でこちらを見ていた。
 彼の熱情に火がついたことを悟って、身の内の炎も強く煽られる。
 白澤の唇が顎に触れ、そのまま首筋を滑る。耳元に口接けながら、低めた声で白澤は囁いた。
「経験、あるよな?」
「――ええ」
 うなずく。数千年も生きていれば、生身で体験できる大抵のことは経験済みだ。もっとも、色事に熱心であった時期は性に対する好奇心を抑え切れなかった若い頃の一時のみであるため、詳しいとは到底言えないが、一通りのことは知っていた。
「でも千年単位で昔のことです。男相手は、こういうものかと納得したところで止めてしまいましたから」
「そうなんだ?」
「ええ。補佐官になってからは忙しくなって、立場的にもあまり身軽に遊ぶわけにはいかなくなりましたし。遊ぶのなら案外、女性の方が割り切ってくれて後腐れなかったりしますしね」
「あー。独占欲が湧くと、男の方が性質(たち)が悪いってのはあるかもな」
「女性の独占欲とは何かが違うんですよね。所有欲とでもいうか……。雄と雌の違いなんでしょうねえ」
「多分ね」
 白澤は微笑みながら応じ、鬼灯の濡れた肩をするりと撫で下ろす。
「それじゃあ、つまりお前は面倒なのを承知の上で、数千年ぶりに僕という男を欲しいと思ってくれたわけだ。しかも遊びじゃなく、最初から独占欲所有欲は当たり前のものとして」
「ええ、そうですよ」
 数千年ぶりどころか、生まれてこの方(かた)初めての衝動だった。
 若い頃の遊びは好奇心が先に立ったもので、情などあってないようなものだった。今は違う。情が先に立ち、その果てに欲しいと思ったのだ。
 知りたい。感じたい。それもまた好奇心ではあるのだろう。だが、鬼灯を突き動かすものはもっと切実だった。
「男が欲しいわけじゃありません。貴方が欲しいんです」
 慎み隠さず明かせば、白澤は強いまなざしで鬼灯を見つめたまま笑んだ。
「うん。僕もお前が欲しい」
 自然に繋がるようにできている男と女ではない。けれど、そんな節理など越えて欲しいと望む。
 二人の間にあるのは、どうにもならないほど切実で純粋な希求だった。
 独占したい。独占されたい。他の誰にも見せず、この手で余すことなく触れ、触れられて、奪い、奪われたい。
 愛する者と余すところなく繋がりたい。
 衝動のままに二人は再び口接ける。深く絡み合わせた舌の心地よさは、この先に待ち受けるものの予兆だった。
 早く繋がりたい。けれど、この過程をゆっくりと味わい、楽しみたい。
「好きだよ」
「はい。私も貴方が好きです」
 それが全ての答えだった。まなざしを交わし、白澤が片手を伸ばしてシャワーを止める。
「一番最初なのに風呂でっていうのもな」
「私は気にしませんけど」
「僕は気にする」
 相変わらず妙なところでムード重視の獣である。どうやら自分の方がこの面でも実践的であるらしいと思いつつ、鬼灯は戸棚からバスタオルを二枚取り、一枚を白澤に渡す。
 全身の水滴をざっと拭(ぬぐ)い、ばさばさと髪を拭いていると、タオルを取り上げられた。
「そんな拭き方したら髪が荒れるだろ」
「別に困りません」
「僕が困る。せっかく綺麗な髪してんのに」
「あいにく、いつもこんな感じですよ」
「だったら自分の強靭なキューティクルに感謝しろ」
 白澤はタオルで髪全体を包み込むようにして、優しくぽんぽんと水気を吸い取る。それから、ドライヤーは、と聞いた。
「放っておけば乾きますよ」
「それじゃ駄目だって言ってんの。まさかないとか言わないよな」
「一応ありますけど」
 面倒くさい獣だと思いつつ、戸棚を指差す。すると遠慮なく扉を開いた白澤はドライヤーを見つけ出して、そのまま浴室を出てゆく。
「ここじゃ狭くてやりにくいから……」
 部屋の中をくるりと見渡し、コンセントジャックを見つけ出してコードを差し込む。そして、鬼灯を手招いた。
「ほとほと貴方って面倒くさいひとですね」
「お前が構わな過ぎなの」
 そう言う白澤は腰にタオルを巻いただけの姿だったが、鬼灯としては自室を裸同然の格好でうろつくのにはやや抵抗がある。湯上がり用の麻の長襦袢を取って羽織り、もう一枚を白澤に投げつけた。
「髪は構わないくせに裸はヤだって、どういうこだわりだよ」
「いいですから着て下さい。女性のタオル巻きは色っぽくて良いものですが、男がやっても萌えません」
「男のそういう格好が好きっていう女の子もいるぜ」
「私は萌えないと言ってるんです」
 言いながら鬼灯は兵児(へこ)帯を脇でゆるく結び、白澤に歩み寄る。
 白澤も仕方がないと諦めたのだろう。裄(ゆき)も丈もほぼ変わらない体型であるため、羽織った長襦袢は弛(たる)みも寸足らずのところもない。結構似合うな、と思った。
「ほら、座って」
 今度は鬼灯が溜息をつく番だった。促され、仕方なく椅子に腰を下ろす。すぐにドライヤーの熱い風が髪に当てられた。
「こんなに綺麗な髪質してるのに勿体無い……」
「大して傷(いた)んでないんですからいいでしょう」
「ぞんざいに扱ってこれなら、もっと大事にしてやればもっと艶々になるって言ってんの。ったく……」
 ぶつぶつと言いながらも白澤の手つきは丁寧だった。長い指先が地肌を撫で、髪を梳く。その感触はどこまでも愛撫に良く似ていて心地よい。
 こんな風に髪を乾かされた記憶はついぞなかったが、中々に気持ちの良いものだということは理解する。自分でやる分には熱くて面倒くさいばかりなのに、受け身になるだけで感じるものが全く変わるのが不思議だった。
 程なく、はいおしまい、と白澤がドライヤーのスイッチを切る。肩越しに鬼灯は白澤を見上げた。
「貴方は?」
「やってくれる?」
「嫌とは言えないでしょう、この場合」
「言うなよ」
 笑いながら白澤は、立ち上がった鬼灯と位置を変わる。
 背後に立った鬼灯はつむじを見下ろし、そういえばこの角度からこの男を見るのは珍しい、と思った。
 神獣にキューティクルもへったくれもないだろうが、やわらかそうな髪が水気を含んで艶々と光っている。確かに綺麗ではあった。自分がこれを追求しようとは思わなかったが。
 他人の髪を乾かすのは始めての作業だったが、こちらもそれなりに面白かった。トリマー気分を味わいながら、髪がさらさらになるまで梳き撫でる。
 毛足の細い猫毛であるために少しだけ時間がかかったが、綺麗に乾かし終えて鬼灯はドライヤーを止めた。
 そして、この角度で見下ろした瞬間から気になっていた白澤のうなじに唇を寄せ、猫が鼠に襲い掛かるように頚椎に噛み付いた。
「うわっ!」
 前触れなくそんなことをするとは思わなかったのだろう。白澤が悲鳴を上げる。がじ、と歯を立ててから離れ、確認すれば、そこにくっきりと歯形が浮かび上がっており、鬼灯は悪戯が成功した子供のような満足を覚えた。
「お前何すんの!? 跡ついただろ、これ!」
「よく似合いますよ」
「似合うじゃないよ! ったく……、歯型もキスマークも爪の跡も男の勲章だけどさぁ。まさかお前、これから僕をズタボロにする気じゃないよな?」
「さて、どうしましょう」
「どうしましょうじゃないっつーの」
 これだから躾のなってないドラ猫は、と肩越しに振り返った白澤は鬼灯の衿を引き寄せ、唇を奪う。その荒っぽい口接けを鬼灯は密やかな歓びと共に受け止めた。
 優しいキスも嫌いではないが、口腔を蹂躙されるようなキスも心地よい。乱暴なのが良いとまでは言わないものの、性急に奪われる感じは嫌いではなかった。
 自分の部屋であるから家具の配置は当然、分かっている。白澤もまた、きちんと確認していたのだろう。口接けを交わしたまま、二人はじり……と僅かな距離を移動して寝台に辿り着く。
 そして鬼灯が白澤の首筋に回した両腕に僅かに力をこめれば、すぐに応じた白澤の体重も合わさってゆっくりと鬼灯の身体は寝台の上に崩れた。
「――っ、ふ……、んっ」
 触れ合う直接的な感覚に加え、時折混じる濡れた音が二人の興奮を否応なしに煽る。
 長いキスを終えてやっと唇を離した時には、白澤も鬼灯ももう互いしか見えていなかった。
「さっき、さ……」
「え?」
 どれほど口接けても足りないというように鬼灯の唇をついばみ、首筋へと続くラインに舌を這わせながら、白澤が呟くように言う。
「こんなもんかと思ったとこでやめた、って言ってただろ」
「ああ……」
 男相手の情事のことか。確かに言ったと思い返しながら、鬼灯は白澤のうなじをゆっくりと指先で撫でる。
 頚椎の辺りの皮膚が一部なめらかでないのは、先程の噛み跡だろう。
「気持ちいいとは感じなかったの?」
「――まぁ、それなりには」
「夢中になるほどではなかった?」
「ええ」
 うなずきながら、白澤の考えていることが見えるようだと鬼灯は思った。オスの思考など大体のパターンは決まっている。
「どの程度の快感だったのかは昔過ぎて覚えてませんけど、それほど良くなかったのは確かです。その朧気な記憶より下手くそだったら後から殴りますよ」
 先手を打って釘を刺せば、白澤が喉元で含み笑うのが感じられた。
「そんなわけないだろ」
 僕を誰だと思ってるんだと笑う白澤には余裕が感じられる。
 彼の本領は、生き物の気脈を知り尽くした漢方医である。色事を得意としているのも当然であり、その技量は相手の性別を問わないものであることも察せられた。
「貴方は男を相手にした経験はあるんですか」
「つまみ食い程度にね。女の子の方が断然好きだけど、たまに気まぐれでその気になることもあったから」
「お互い長生きですもんねえ」
「そうそう。大抵のことはやり尽くしたよ。あと経験してないのは本気の恋愛くらいじゃないかな。それももう過去形になったけど」
「寒いです」
「……お前ねえ……」
 ここは喜ぶところだろ、とノリの悪い鬼灯に溜息をつきながらも、白澤は鬼灯の肩から胸にかけてを襦袢の上からゆっくりと撫で下ろす。
「すぐに脱ぐんだからわざわざ着なくても、と思ったけど……、これはこれで悪くないな」
 布地を隔てての愛撫と、直接触れての愛撫では感じ方がかなり変わる。そのことを白澤は言っているのだろう。
 麻の繊維は張りがあるために、絹のようには愛撫の感触を通さない。もどかしさはあったが、逆に余裕を奪われなくても済むという利点はある。白澤が自分に触れることを楽しんでいるのなら、その間に、とばかりに鬼灯も白澤の襦袢の帯に手をかけた。
 ゆるく結んであっただけの兵児帯は端を引けばすぐに解ける。前がはだけても白澤は何も抵抗しなかった。代わりに手を伸ばして、鬼灯のやや乱れた裾から覗く脚に触れる。素肌にやんわりと手のひらを這わせられる感触に、思わず小さく膝が跳ねた。
「ふぅん。案外、敏感な方?」
「どう、でしょう」
 それほど感度の悪い方ではない、と思う。だが、これまでの経験では、さほど敏感に愛撫には反応した記憶はない。
 平均値がどこかと問われても分からないが、鈍さに呆れられたことも敏感さに喜ばれたこともないのだから、おそらく中程度なのだろう。もし今はそうでないとしたら、相手がこの神獣だからだとしか言いようがない。
 そこまで明かしてやる必要はないと口をつぐみ、ふくらはぎから膝上ぎりぎりの辺りまでをするりするりと撫でられる感触を受け止める。くすぐったさと紙一重の快感はじわじわと身の内に響いてくるようで、思わず唇から小さく吐息が零れた。
 気を紛らわせる意味も含めて、手にしていた帯を寝台の傍らの床に落とし、あらわになった白澤の素肌に手指を滑らせてみる。
 痩身ではあるが、必要十分な筋肉に覆われた肌はなめらかで心地よい。しなやかな手触りに、何となくまた噛み付きたくなってきていると、こら、と怒られた。
「お前、また噛み付きたいとか思ってるだろ」
「……どうして分かりました?」
「目付きで丸分かり。美味そうな肉を見るみたいな目をしやがって……」
「歯ざわりが良さそうだなと思ってただけですよ」
「同じことだろ」
 これだから、と溜息とつきつつも白澤は鬼灯に口接ける。たっぷりと舌を絡ませて、噛み付くのはまぁ勘弁してやってもいいかと鬼灯が思い始めるまで愛撫してから唇を離し、鬼灯の髪をさらりと撫でた。
「ったく……。ちょっとは大人しく蕩けてろ」
「そうさせるのが貴方の役割でしょうが」
「はいはい。いいからもう黙れ」
 いなしながら白澤は鬼灯の帯に手をかけて、ゆるく結ばれていたそれをするりと解く。そして再び首筋に唇を落とした。
 耳の下からゆっくりと唇を這わせてゆき、後を追うように指先で肌を撫でる。
「本当にお前って乱暴者でどうしようもないけど……」
 呟きと共に鎖骨に軽く歯を立てられて、そのむず痒いような感覚に鬼灯は小さく息を詰めた。
「綺麗だし、可愛いし。……ホント、嵌ってるよな」
「だ、から、貴方の頭はおかしいと、っ、ん……!」
「おかしくないよ」
 するりと肩から脇腹までを撫で下ろした白澤の手のひらが、今度はゆっくりと這い上がってくる。
「どこが気持ちいい?」
 ここ?、と僅かでも反応した箇所を繰り返し、触れるか触れないかくらいのやわらかさで撫でられる。それでいて胸元には触れず、鳩尾(みぞおち)の辺りに口接けを落としながら手のひらは腰骨の辺りへと滑り降りてゆく。
「――っ、く」
 腹部も腰も急所が集まっているだけに、感覚はひどく敏感にできている。腕や脚も知覚神経が鋭く、そっと肌をかすめられただけでも細波(さざなみ)のような快感が身の内に湧き上がる。
 豪語した通りに白澤の愛撫は適確だった。末端の神経から順に感覚を呼び起こし、緩やかに全てを昂めてゆく。
 ゆっくりと脚を撫で下ろされたその先、足の甲をそっと手のひらで包むように撫でられただけで唇を噛み締めなければならないほどの快感が走り抜け、鬼灯は最初の惑乱に落とし込まれた。
「っ、ん、……あ、っ」
 まだ何をしているわけでもない、白澤はゆるゆると膝から下を撫でているだけだ。だが、両の脛をするりと手のひらで撫で上げられて思わず爪先がはねる。
 膝裏をやわらかく指先でくすぐられると、それだけで腰の奥がずくりとと疼いた。
「ねえ、鬼灯」
 甘い、ひどく甘い声で名を呼ばれる。いつの間にかきつく閉じてしまっていた目を開くと視界がぼやけており、はっきりさせようと数度まばたきすると、眦が濡れている感触がした。
 何がどうなってしまっているのか、自分の状態を把握するよりも早く白澤の甘い声が響く。
「僕は今夜、お前の身体を決定的に変えてしまうかもしれない。僕が思ってたよりずっと、お前は僕と相性がいいみたいだから」
 どういうことか、と思う。だが、言われる前に本能が理解していたのか、ぞくりと何かが背筋を走り抜けてゆく。
「お前には説明するまでもないだろうけど、人と人には気脈の相性っていうのが少なからずある。僕はヒトではないけど、相性があるのは変わらない。生まれ持ったものものあるし、心理的な面も強く左右する。――お前が今、僕にものすごく素直に反応してるのは自分でも分かるだろ。素直すぎて、このまま最後まで進んだらお前の身体はきっと変わってしまう」
 どうする、と白澤は問うた。同時に、状況を理解させるためか、太腿の前面をするりと撫で上げる。
「――っ…!」
 小さな火花が弾けたような感覚が神経を走り、反射的に鬼灯は息を詰めて目を閉じる。そして喘ぐような吐息を零した。
 それでも懸命に呼吸を整えて問いかける。
「変わったら……どうなるんです」
「多分、僕にもっと反応しやすくなると思う。僕が何をしようとお前は気持ち良く感じるだろうし、逆に他の奴に触れられたら違和感を感じるようになるはずだ。これだけ相性がいいとね、一度肌を合わせただけで気が馴染んでしまうから」
 白澤の口調は患者に病の説明をしているかのように落ち着いていた。だから、鬼灯も少しばかり理性を取り戻すことに成功する。
「それで何がいけないんですか」
「いけないかどうかは主観によるね。お前はこれから知らなかった感覚を知ることになるし、一旦知ったらそれを忘れられなくなるだろう。もう少しはっきり言うなら、お前が好むと好まざるとにかかわらず、お前の身体は僕のものになってしまうということだよ」
「ですから、それの何がいけないのかと、私は聞いてるんです」
「何が、って……」
 問い返すと、答えに戸惑う顔で白澤が見下ろしてくる。黒水晶のような漆黒の瞳を鬼灯は真っ向から睨み上げた。
「何をグダグダ言うのかと思えば、下らない。貴方は私の言葉を聞いていなかったんですか。私は貴方が欲しいと言ったでしょう?」
「言った――けど、それは、」
「それ以上どう言えと言うんですか!?」
 とうとう鬼灯は声を荒げる。伝わらないことがひどくもどかしい。苛立たしさに両手を上げ、ぐいと長襦袢の衿を引き寄せる。
「貴方のものになる、それを私が拒絶すると思うんですか!」
 それを嫌がるのなら、最初から誘い掛けなどしない。この神獣を欲しいと思ったから――好きだと思ったから、今、こうしているのだ。
 どうして分からないのかと悔しさに胃の腑が煮えたぎるのを感じながら至近距離で睨み付ける。呆気にとられたように鬼灯を見つめていた白澤の表情が、ふっと理解を示し、何とも言えないものに変わった。
「鬼灯……」
 指の長い手がするりと髪を撫で、頬を撫でる。優しい指先は宥めるようでもあり、詫びるようでもあった。
「何です」
「ごめん」
 謝罪は極短い言葉だった。腹は立ったが、元は気遣いから始まった話だ。受け入れないのも大人げない話である。渋々ながらも鬼灯はうなずいた。
「分かればいいんです」
「うん。ごめんな。馬鹿なこと聞いた」
「まったくですよ」
言いながら目を閉じて口接けを受け止める。意趣返しとばかりに、血が出ない程度に舌を散々噛んでやったのは御愛嬌だった。
「そのうち、お前に本当に食われそうだなぁ」
「まずは活造りにして、残りは丸焼きにした後、食べきれなかったら燻製にして干し肉にしますよ。売ったらいい値段になるかもしれませんね」
「だから、神獣を食おうとするなっての」
「案外、サシが入っていて美味いかもしれません」
「僕のどこが太ってるっていうんだ」
「分かりませんよ、神獣姿に戻ったら……」
「太ってない!」
 もう黙れ、ともう一度唇を塞がれる。言葉尻の割には口接けはひどく優しかった。今度は鬼灯も噛み付くことはせず、同じような熱心さで応える。
 そしてキスを終えて唇が離れた時には、他愛のない口喧嘩も完全に終わっていた。
「――それじゃあ続き、するから……」
「はい」
 優しく髪を撫でられ、鬼灯がうなずくと、白澤は口接けを繰り返しながらゆっくりと愛撫を再開する。丁寧に四肢の形をたどられ、なぞられて、またたく間に肌の感度が上がってゆく。
 どうしてこんな風になってしまうのか、白澤が先程説いた理屈は実のところ、分かるようで分からなかった。
 相性は勿論あるだろう。だが、それだけなら過去にも肌が合うと感じた相手はいた。今感じているものは、肌が合う云々とは全く別物の感覚である。
「っ、ん、白澤、さ……ん、っ」
 白澤の手指がゆるりと動く度、唇に肌を食まれる度に震えるような感覚が皮膚を走り、神経を灼く。
 他の誰かに触れられても、こんな風に熱が滾ったことはない。そして、こんな風に特定の誰かを求めたこともない。
「だから、でしょう……?」
「ん? 何?」
 喘ぎの合間に零れた問いかけは、白澤には意味のあるものとしては取らえられなかったらしい。鬼灯は首を小さく横に振り、何でもないと伝える。
 白澤は問い詰めず、ただ優しい目で鬼灯を見下ろして唇についばむようなキスを落とす。
 そして、やわやわと腰骨の辺りで遊ばせていた手のひらをするりと上に滑らせた。
「――っあ、ぅ」
 脇腹を撫で、心臓の鼓動を確かめるように左胸に口接けを繰り返す。無駄のない筋肉の盛り上がりを丁寧になぞり、淡くくすんだ色合いの先端の際を散々に焦らした後、そっと優しく吸い立てた。
「ふ、ぁ、っあ……!」
 小さな肉粒を唇で食まれ舌先で突かれるだけで、信じられないほどの快感が脳髄を痺れさせる。
 明らかに身体が狂い始めていた。色街で細やかな歓待を受けたことは幾度もあるが、こんな風に反応したことは一度もない。たかが胸元を軽く弄られたくらいで腰が跳ねるようなことは決してなかった。
 けれど、鬼灯はこの未知の感覚に抗わず、受け入れる。
 案外に理詰めの白澤が分かっていないとしても、鬼灯自身は分かっていた。
 相性や技量だけの問題ではない。全身全霊で欲しがっているから、そして同じ強さで求められたいと望んでいるからこそ、この身は染まり、変わる。
 どれほど淫らに、敏感に反応しようと、それは二人で望んだ結果だ。忌避することなど有り得なかった。
「あ、ん、んんっ」
 過敏な反応を示す場所であるだけに、白澤も執拗に胸元を責め立てる。
 左胸から右胸に口唇での愛撫を移し、左の濡れた尖端を指先でやわやわと摘ままれ、たまらずに鬼灯は自分の手に歯を立てた。
 特に声を殺そうとしたわけではない。ただ、身の内を突き抜ける強烈な快感を逃す場所が他になかったのだ。けれど、気付いた白澤が鬼灯の手を取り、そっと口元から外させる。
「噛むんなら僕の肩でも何でも噛めよ。自分の手にこんな痕付けて……」
「べ、つに、噛みたくて、噛んでる、わけじゃ……」
「でも、駄目。ほら、手を僕の肩に置いて……どうしても辛かったら、僕に力を逃がせばいいから」
 親指の付け根辺りにくっきりとついた噛み跡に口接けてから、白澤は自分の肩に導き、掴まらせる。
「お前が思いきりやったって、僕は大して傷付かない。血が出たって直ぐに治るから、気にすんな」
「白、澤さん……」
「うん」
 深い意味があって名を呼んだわけではない。ただ呼びたかったというのが一番近い。白澤は分かっているよと微笑み、もう一度優しいキスをしてから胸元への愛撫に戻る。
「――っ、あ……!」
 ほんの数分の空白がひどく敏感な反応をもたらして、鬼灯は思わず全身をびくびくと震わせる。白澤の肩にもきつい爪の痕がついたが、彼は気にする様子はなかった。
「こんな小さいのにものすごく敏感で、可愛いね」
「っ、ん、ふぁ……っ」
 また馬鹿なことをとなじりたくとも言葉にならない。左側をやわらかく指の腹で転がされ、右側を優しく吸い立てられて、蕩けるような熱が腰の奥にわだかまってゆく。
 ただひたすらに気持ち良かった。
 だが、白澤はそれだけでは飽き足らないのか、空いていた左手までをも脇腹に滑らせる。しなやかな指先で下ばえをやんわりと撫でられて、どうすることもできずに背筋がのけぞり、ぴんとしなる。
「や…ぁ……っ、白、澤、さんっ」
「うん、気持ちいいよな」
 熱の中心にも白澤は簡単には触れてこなかった。下腹のやや薄い皮膚をやわらかく撫でさすり、股関節のラインをなぞって内腿へとするりと手のひらを滑らせる。
「ここ、すべすべだな。もう少し肉付きが良かったら素股して欲しいくらいだ」
「馬、鹿……っ」
「えー。あれはあれで気持ちいいもんだよ」
 くすくすと笑いながら、白澤は情感のこもった手つきでやわらかな肌を撫で、きわどい所を手指で弄ぶ。
「ああ、もうとろとろだな。自分でも分かるだろ」
 足の付け根の際を撫でていた指先がするりと奥へと滑る。そしてぬめった感触と共にその辺りを撫で回し、しとどに濡れていることを鬼灯に知らしめた。
 これだけの愛撫を受けたら反応しないわけがない。当たり前のことと思いつつも、指摘されれば羞恥心が湧く。下腹がひくりと震え、また新たな雫が溢れ落ちてゆくのを感じて鬼灯は唇を噛んだ。
「そろそろ達きたいだろうけど、その前にね。抱かれるのが久しぶりだっていうんなら、色々と思い出させてあげないと」
 溢れ落ちたものでしとどに濡れた辺りをしなやかな指先が繰り返しそっと撫でる。屹立と蜜口の間、ひどく敏感な箇所を優しく押し揉まれて、鬼灯の唇からくぐもった喘ぎが零れた。
「ここ、気持ちいい? じゃあこっちも気持ちいいかな?」
「――あっ、ん、ん……っ」
 するりと更に奥に滑った白澤の濡れた指が、蜜口周辺に触れる。
 丸く円を描くように撫で、とんとんと軽くノックするようにつつく。それだけのことがひどく身の奥まで響いて、鬼灯はびくりとのけぞりながら驚かずにはいられなかった。
 白澤にも言った通り、昔の遊びのことなど殆ど忘れている。記憶ばかりでなく身体の方もだ。この数千年、男を咥え込みたいと思ったことなどないし、蜜口に触れるような自慰の仕方をしたこともない。
 なのに、白澤にそこに触れられて感じたのは、間違いなく歓びだった。
 もっと触れて欲しい。満たして欲しいと、快楽を得る方法さえ長年忘れていたそこが疼き始めている。
 だが、ゆるりゆるりと指先を動かし続ける白澤は、そんなことは全てお見通しなのだろう。
「可愛いね、鬼灯」
 戯言なのか本気なのか、本気だとしたら頭の中身を疑いたい睦言を囁いて口接けてくる。甘い舌の動きに鬼灯が応えると、つぷりと指先が蜜口に押し入ってきた。
「―――っ…」
 まだ指先のみ、それも十分に濡れていたから痛みはない。ただ精神的に小さな衝撃はあった。だが、口接けられているために、その衝撃を逃がすことが難しい。
 更には上顎をゆっくりと舌先でくすぐる動きに合わせるように指先を極軽く出し入れされて、思わず締めつけてしまう。
「気持ちいい? 嫌じゃない?」
 キスを終えての問いかけにも、もう言葉にして答える余裕はなかった。小さくうなずくと、白澤は良かったと笑んだ。
「少し辛いと思うけど、もっと気持ち良くしてあげるから我慢してろよ」
 そう言いながら、胸元へと口接けを下ろす。先程散々に弄られて敏感になった尖端に口接けられた途端、鋭い快感が走り抜けた。
「っあ、ひ…ぁ、ん……っ」
 小さな尖りを舌先で優しく舐め転がしながら、蜜口に挿入した指をゆっくりと奥へと進める。ゆるゆると身の内を探る動きに、ぞくぞくとした何かが込み上げてくる。
 その直後、白澤の指先が柔襞に秘められた最も過敏な部分に触れた。



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