Stardust Lullaby 01
しんとした室内に着信音が鳴る。
卓上に置いてあった携帯電話の小さな液晶に映る発信者の名前を確かめてから通話ボタンを押し、スピーカー部分を耳に当てた。
「はい?」
『鬼灯? 今、大丈夫?』
「ええ。先程、自室に戻ってきたところです」
『そっか、お疲れさん』
耳元で響く声は穏やかだ。いたわりに満ちて優しく、甘い。だが、鬼灯は濡れ髪をタオルで拭いながら、半ばその声を聞き流していた。
「何の用です? ていうか、別に毎晩メールだの電話だのしてこなくていいんですけど」
『僕がしたいんだよ!』
「私は別に望んでません」
『郷に入れば郷に従えって言うだろ! 恋人同士の慣例だと思って付き合え!』
「切ってもいいですか」
『いいわけないだろう馬鹿!』
「さようなら」
電話を耳から離し、電源ボタンを押す。そして待つこと五秒。再び着信音が鳴り響いた。
三回鳴るのを聞いてから、おもむろに通話ボタンを押して応答する。
「しつこいひとですね」
『お前が用件言う前に切るからだろうが!』
「用件なんてあったんですか」
『今夜はあるんだよ!』
それはそれは、と思う。
恋人同士となってからの白澤の電話は、基本的に用件がないことが多い。いわゆる「お前の声が聞きたい」というやつだ。
対して鬼灯は、湯を浴びて自室に戻ってきたらさっさと就寝してしまいたい性質(たち)であるため、応対はどうしてもぞんざいになりがちだった。
声を聞きたいと白澤が思ってくれるのは、一応ありがたいとは思う。それは間違いなく好意の表れだからだ。
鬼灯とて木石ではない。仕事の合間に白澤のことをふと思い出すことはある。顔を見たいと思うことも稀ではあるが、全くの皆無ではない。
しかし、幾らなんでも毎晩の電話は多すぎる、というのが正直な感想だった。
初めての恋人ができた中高生でもあるまいし、どうして一億数千年を生きている神獣と数千年を生きている鬼神が毎晩連絡を取り合わなければならないのか。
どうしても鬼灯が理解できず、また擦り合わせをする気も微塵も起きない二人の感性の相違点だった。
『それでだ。お前、今月中に一日、休み取れる?』
「今月ですか」
ちょっと待って下さい、と鬼灯は手帳を引っ張り出し、月間スケジュールのページを開く。
予定が書き込まれている日付は案外に少ない。しかし、それは単に出張や会議は毎日はないというだけのことだ。
手帳に書くまでもない日常の業務や、書きようのない突発的な仕事こそが鬼灯の多忙の源泉なのである。
「今月の後半は土日も大体、休日出勤で埋まってますね。月末に現世に視察に行くつもりで一日だけ予定は空けてありますから、それが休みといえば休みみたいなものです」
『視察って行先はもう決めてるの?』
「いえ、まだ細かいことは」
現世を満遍なく廻らなければ視察の意味がないため、毎回違う地方に行くのが原則である。だが、地上に降りてからの行動スケジュールは、行きの地獄電車の中でガイドブックを見ながら決めることが殆どだ。
本当なら見所から御当地メニューまで観光情報を熟読して入念に準備をして行きたいのだが、多忙がそれを許さない。
『じゃあ、現世での行き先に一つ予定を割り込ませることってできる?』
「場所と内容によります」
白澤が何を言いたいのか、何となく読めた鬼灯が先を促すと、白澤は現世でのイベント名を口にした。
「それですか」
『あ、やっぱり知ってたか』
「一応は。行けたら行きたいとは思ってましたが……」
『視察の予定と重ねるのは無理?』
問われて、鬼灯はどう答えたものかと考える。
白澤が誘いをかけてきたのは、現世で開催されている金魚の展示会だった。
様々な工夫を凝らした水槽に数多くの金魚が泳ぐ様が売りで、鬼灯も勿論、できれば行きたいと思っていた。
幸いなことに展示会は期間が長めであるため、ギリギリで視察に盛り込むことは可能そうだと踏んでいが、しかし、それを正直に言ったものかどうか。
正味十秒ほど悩んだ後、鬼灯は溜息と共に口を開いた。
「まだ確定はしてませんが、視察ついでに行こうかとは思ってましたよ」
白澤は、鬼灯が視察ついでに動物園だの怪奇スポットだのを巡っていることを以前から知っている。隠しても無駄だろうと、鬼灯は胸の内を明かした。
『あ、やっぱり行くんだ。じゃあさ……』
快活に話していた白澤が不意に言いよどむ。
途端、何とも言えないはにかみのような気配が電話の向こうから漂ってきた気がして、鬼灯は顔をしかめた。
「言いたいことがあるならはっきり言ってくれませんか。貴方、オスでしょうが」
『雄って……、いやまぁ、そうだけど』
「で? 何なんです?」
『あー。だから、僕も一緒に行ったら駄目かなって……。他に同行者がいるんなら無理は言わないけど……』
いかにも歯切れ悪くもじもじと言われて、鬼灯は電話を叩き切りたい衝動を懸命に堪える。
電話の向こうにいるのは一体何だ。吉祥の兆したる神獣、神代から存在し続けているモノではないのか。
お前は初デートに恋人を誘う中学生か!、と怒鳴りたい気分を抑えるため大きく溜息をついてから、鬼灯は改めて電話に向かって声を発した。
「ついてきたいのなら勝手になさい。当日の出発時刻はまた連絡します。用件はそれだけですね? では、おやすみなさい」
一息に言い切り、間髪入れずに電源ボタンを押して通話を切る。そして、ぽいと携帯電話を卓上に放り出した。
三度(みたび)かかってきても、もう応答する気はない。そう思いながら髪をがしがしと拭いていると、通話ではなくメールの着信音が短く鳴った。
内容など確認するまでもないと思ったが、一応、携帯電話を開く。
すると案の定、『了解。疲れてるとこを悪かった。また電話する。おやすみ』と短い文章が画面に現れた。
「――…」
溜息をつき、鬼灯は携帯電話を卓上に戻す。
まったくあの男は、と思わずにいられなかった。
白澤と鬼灯が突然の恋仲になってから、およそ一カ月になる。
天敵同士が互いに好感を抱くようになり、想いを通じ合わせるまでには、他愛のないきっかけとその後の紆余曲折があったのだが、今はそれは重要ではない。
問題は、その前後における白澤の態度の変わり方だった。俗にビフォー&アフターと言うが、まさにそれである。
付き合い始める少し前からその兆候は出ていたのだが、両想いになってからの白澤は、驚くほど甘ったるい恋人に変貌して鬼灯を驚かせた。
毎晩の電話は勿論のこと、会う時には素晴らしく美味しい手作りのおやつを欠かさず用意し、持ち帰れるよう焼き菓子や茶葉まで別の包みにしておいてくれている。
共に居られる嬉しさを隠そうともせず、して欲しいことがあれば言えよと気遣いも欠かさない。
とにかく大切に大切にしてくれようとしているのだ。
鬼灯とてそこまで鈍くはないから、白澤の言動が全て自分に対する好意から生じていることくらい分かっている。
手作りの菓子や料理は美味しいし、毎晩の電話も正直鬱陶しいが、五分も話せば白澤は「おやすみ」と通話を終わらせてくれるため、それほど苦になるわけではない。
鬼灯が恋人に対して溜息をつかずにいられない原因は、もう少し別の所にあった。
「一体いつまで、こんな中学生みたいな付き合いを続けるつもりなんだか……」
携帯電話を憮然と見つめながら、鬼灯は呟く。
今日の電話は通話の半ばで、白澤の要件は察しがついていた。
『一緒に現世の金魚の展示会に行こう』
端的に言えば、それだけである。
なのに、何故ああも遠回し、かつ、ぐだぐだとした物言いになるのか。さっぱり鬼灯には理解ができない。
お前の好きそうな展示会があるから一緒に行こう。明快にそう言ってくれれば、あっさりとではないにしても応じたはずだった。
今月末の視察は一人で行く予定だったし、金魚の展示会にも立ち寄るつもりだった。そこに白澤が同行したところで特に問題はない。
だから、さらりと誘ってくれれば、幾らかの言葉のやり取りの後、いいですよと答えていただろう。
それなのに、どうしてああいった展開になるのか。
もう一度溜息をついて、鬼灯はタオルを椅子の背にかけ、明かりを消して寝台の上に横になる。
掛け布団を引き揚げ、本格的な眠気が訪れるまでの間、天井を見上げて桃源郷に居る獣のことを考えた。
――自分が勝手な思い込みをしていた、と言えばそれまでのことなのだろう。
だが、もう少し卒のない付き合い方をする男だと思っていたのだ。
衆合地獄における白澤は、エロジジイの域ではあっても、女性に対する口説き文句や褒め言葉を次から次に淀みなく吐く男だった。
女性が拒まないと見れば、すかさず手を握り、膝枕を頼む。常にヘラヘラと笑っていて、照れだの羞恥だのといった感情の対極にいるようにしか見えなかった。
それなのに、付き合い始めてからの自分に対する態度は全く違うのである。
相手が『鬼灯』だからではあるのだろう。長年の喧嘩相手が恋人に変わったのだ。幾らなんでも他の女性にするのと同じようには付き合えまい。
そこまでは何となくわかる。
だが、何故その結果が『初めて恋人ができた中学生』のような態度なのか。
前夜に同衾した女性の名も覚えていないような放蕩者だったくせに、自分には毎晩のように電話をかけてきて、たまに会える時には嬉しくて仕方ない様子を隠しもしない。
デートの誘いはしどろもどろの遠回しで、極めつけは。
「いい歳した大人同士で、付き合って一カ月の間キスだけっていうのもどうなんです?」
それも触れるだけのバードキスだ。互いの温もりを感じる以上のキスを白澤はこれまで一度も仕掛けてきたことがないのである。
手と、唇と、キスをする時に指先が触れる頬。
まだそれだけでしか鬼灯は白澤の体温を知らなかった。
「私にだって欲はあるんですけどねえ」
白澤にだって勿論あるだろう。あのケダモノがプラトニックなお付き合いで満足できるはずがない。だが、現状の二人の関係は実に清いものだった。
両想いになってから一月の間に、仕事絡みも含めて白澤とは三度会った。それでこの進展ぶりとは一体どういうことか。
「こっちから襲うしかないのか……?」
中学生脳全開の白澤に展開を任せていたら、付き合い始めて三ヶ月目でやっと深いキス、そしてクリスマスにようやく……などということになりかねない、と冗談ではなく思う。
だが、あいにくと鬼灯は、そんな既成概念的なロマンティックさなど、これっぽっちも自身に恋愛に求めていなかった。
もっと即物的でよいのだ。会いたいから会う。触れたいから触れる。それ以上の理屈など要らない。
「本当に何を考えているんだか……」
ふわ……とあくびを一つして、鬼灯は目を閉じる。
馬鹿神獣、と呟いたのがその夜最後の独り言だった。
* *
現世に降りる方法は幾つかあるが、鬼灯は今回の視察に当たって最も簡単な方法を取った。複数ある出入り口のうち目的地に一番近いものから飛び降りる、というやつである。
白澤は自分が乗せて行けば簡単なのに、と言ったが、鬼灯としては一応仕事として出かけるのだから、堂々と神獣の背に乗ってゆくわけにもいかない。
短い言葉で白澤を説き伏せ、あっさりと地上に降りた。
現世では何はさておき金魚の展示会に向かい、じっくり会場内を見て回る。その後はカフェコーナーで金魚のラテアートを楽しみ、ショップコーナーで金魚グッズのコレクションを増やした。
その際、白澤にねだられて金魚のストラップを一つ選び、彼の携帯電話に着けてやったのは御愛嬌だ。「これを見る度にお前を思い出すよ」というお寒い台詞は聞こえないふりをした。
会場を出た後は、電車に乗って郊外に出向いた。
私鉄の沿線上に鬼灯好みの寂れた墓地があると事前調査で分かっていたから、是非とも足を延ばしたかったのである。
白澤は悪趣味だと言いながらも、鬱蒼と木が茂る小さな山全体の至る所に卒塔婆が立っている昔の墓地の見物に付き合ってくれた。
車窓からの風景を眺めつつ、至る所青山(せいざん)ありだからねえ、と呟く彼は、別に死を忌避したりはしていない。
死があるからこそ生がある。地上の獣よりも遥かに世界の摂理に近い彼は、自然の流れに決して逆らわない。
在るがままに存在し続ける姿は、無為という言葉を具現化しているようだと鬼灯は思う。
何一つ変えようとはせず、流れに逆らわず、ただ自然に任せる。老子が体系化した『道』という思想。それはそれで間違っていない。透徹した一つの美しさがあると思う。
ただ、元が人であるからか、鬼灯はそれでは満足しないのだ。
この手で変えられる部分はよりよく変えたい。流れに身を任せるだけでなく、時にはこの手で大きな波を起こしたい。
不穏と言われるかもしれないが、鬼灯の内にあるのは穏やかな凪ではなく激しい炎だった。
まだ幼い人の子であった頃から常に自分の奥底で燃えていた焔(ほむら)。それが鬼灯を鬼と変え、ここまで導いてきた。
行雲流水を具現化したような白澤が天の象であるのなら、鬼灯はまさしく地の象だった。無限と有限。互いに対極に位置するものであるからこそ、あれほどまでに反発し、そしてまた惹かれたのだろう。
そんなことを思いながら、鬼灯は白澤と共に海辺の小さな町を歩き、天然氷のかき氷で一旦涼んでから海岸線に出た。
彼岸を過ぎた砂浜には透明なクラゲが数知れず打ち上げられ、ぽつりぽつりと波打ち際に並んでいる。
それよりも少し岸辺寄りの乾いた砂の上を、二人はサクサクと音を立てながら歩いた。
今日は二人とも軽装で、鬼灯はTシャツにジーンズ、白澤はTシャツに薄手のパーカーを重ね、カーゴパンツ、足元は共にスニーカーだ。
真夏には海水浴客で賑わっただろう海岸には、今は人影がない。やや強い潮風が二人の髪をなびかせる。
「鬼灯」
名を呼び、白澤が手を差し出す。鬼灯は抗わなかった。
見ている者などいないし、もしいたからといって、それがどうだというのだ。自分たちはこの世のものではない。旅の恥はかき捨てに当たらずとも遠からずの心理で、鬼灯は白澤の手に自分の手を重ねた。
素直な鬼灯の反応に白澤は笑み、ぎゅっとその手を握る。
痩せ型で長い指の目立つ白澤の手は、相変わらず心地よく温かかった。触れただけで患者を安心させる薬師の手だった。
「白澤さん」
不意に衝動に駆られ、繋いだ手を引くようにして鬼灯は立ち止まる。
何、と振り返った白澤の肩に空いている方の手を置き、唇を重ねた。
触れるだけで離れると、驚いた顔が見つめている。そういえば、自分から口接けるのはこれが初めてだったかと気が付いた。
「私にだって欲はあるんですよ」
言い訳がましく聞こえるかもしれないと思ったが、事実だ。隠しても仕方がないし、隠そうとも思わない。
正直に告げると白澤は目をまばたかせ、それからやわらかく笑む。
嬉しげにも照れたようにも見えるその笑みは、彼が他の人々に向ける表情とは全く異なっていて、けれど、悪いものではなかった。
「好きだよ」
「知ってますよ」
気持ちが通じていなければ、今こうして共に地上に降りたりなどしない。ましてや手を繋いだり唇を重ねたりしない。
触れたいと思う欲があるからこそ、こうしているのだ。
そう思い、白澤の目を見つめていると、するりと頬に手を添えられる。
伝わる指先のぬくもりだけで何を求められているのか分かる。鬼灯は逆らわなかった。
ゆっくりと唇が重ねられるのを受け止めながら、繋いでいた手をさりげなく解き、白澤の首筋に回す。そして薄く開いた唇の間から舌を伸ばし、そろりと柔らかな粘膜の表面を撫でた。
鬼灯の無言の誘いかけに、白澤もまた無言で応える。
温かく濡れた舌先が鬼灯の舌先に触れ、くすぐるような動きを見せる。まずは様子見とばかりに舌を伸ばしてみれば、やんわりと噛まれ、歯を立てられた。
じんわりと染み入る歯の感触に驚いたふりをして、小魚が身をひるがえすような動きで逃げる。白澤の舌はみっともなく慌てたりはしなかった。獲物の逃げる先など分かっているとばかりに、ゆっくりと追って鬼灯の口腔に押し入ってくる。
敢えて大きくは開いていなかった唇の表面を濡れた舌が押し割る。その感触にぞくりと身体の奥が疼いた。
背筋を走った内なる緊張に白澤も気付いたのだろう。背を軽く抱き寄せられるのと同時に、頬に添えられていた手に僅かに力が加えられ、顎の角度を固定される。
だが、背を抱く手も頬に添えられた手も心をとろかすような優しさに満ちており、抗わずにいれば、歯列の並びを確かめるかのように表面に軽く触れられた後、更にその奥へと侵入された。
厚みのあるやわらかな肉がゆっくりと口腔の感触を確かめながら這い進み、鬼灯が少しでも反応を見せた箇所には殊更に優しく触れてくる。
知覚の鋭い上顎を何度も舌先でなぞられ、たまらずに傷付けない程度の力で噛んでやると、含み笑う感触が合わせた唇から伝わってきた。
全身の神経網がどう張り巡らされているかなど、元より知り尽くしている白澤の愛撫である。何をどうされても気持ち良かったが、最初から最後まで主導権を委ねたままというのは鬼灯の性分ではない。一通りの手並みを拝見したところで逆撃に移る。
ゆるやかに動いていたなめらかな舌裏をくすぐり、やわやわと舌先を噛んでやれば、嫌だよとばかりに白澤は逃げてゆく。先程の鬼灯と同じ、追っておいでと誘いかける逃走だった。
鬼灯は躊躇うことなく唇を合わせる角度を変え、今度は自分の方が侵入する側に回る。
そうして初めて触れた粘膜の第一印象は、甘い、だった。
温かく濡れたそこは、過敏な個所を求めて探り、這い回る鬼の動きを優しく受け止める。
人型でいる時の知覚神経の働きはヒトと変わらないらしい。良い反応を見せた上顎を丹念に愛撫していると、無防備になっていた舌裏をぬろりと舐められて、背筋に震えが走った。
そこからはもう追い追われる甘い戯れと化し、互いにからかうように、或いはひどく熱心に、恋人を愛撫し愛撫される感覚を楽しんだ。
やがてゆっくりと二人の唇が離れ、目を開いた白澤は同じく目を開けた鬼灯をじっと見つめる。
その顔には困ったような微笑が浮かんでおり、何故だろうと鬼灯が漆黒の瞳を猶も覗き込むと、苦笑と共に抱き締められた。
身長は変わらないから、ちょうど自分の心臓の反対側に白澤の心臓の鼓動を感じる。少しだけ逸(はや)っているだろうか。初めてのことだけによく分からない。
だが、この上なく近い距離で温もりと気配を感じることには不思議な安堵感を覚えた。
「まったく……」
溜息交じりの白澤の声が耳を打つ。
「僕が大事にしようと思っても、お前自身が直ぐにぶち壊すんだからなぁ」
たまらないよ、と言われて鬼灯は少しばかりむっとする。
「大事にしてくれなんて頼んでません」
「頼まれてないけど、僕がしたいの。こうやって一人の相手ときちんと付き合うのは初めてなんだからさ」
「それは貴方の勝手な感傷でしょう」
「そうだよ。でも、それくらい大事なんだよ、お前のこと」
馬鹿馬鹿しい、と言いかけて止める。さすがにその物言いは心無い。
けれど、押し黙ったことで心情は伝わったのだろう。苦笑する気配と共に、背を抱く腕に少しばかり力が加わった。
「お前なんて全然可愛くないのになぁ」
「それは当たり前でしょう」
「うん。なのに馬鹿みたいに可愛いから困る」
「……は?」
溜息とも微笑ともつかない吐息交じりに言われて、今度こそ本気で絶句する。
今、この男は何と言ったのか。
「なんでか分かんないけどさ。滅茶苦茶に可愛いんだよ。お前なんて乱暴者だし口は悪いし、ホント、碌なことしないのに」
後半の認識は正しい、と思う。少なくともこの神獣相手に碌な真似をしてきた記憶はない。だが、前半は決定的におかしい。
「……正気で言ってます?」
「勿論。だから困ってる。――あ、いや、困ってないな、別に」
「どっちですか」
「可愛いのは困ってない。困ってるのは、可愛いから大事にしたいのに、それが嫌だっていうお前の性格」
「それは全く私のせいではないと思うんですけど」
「まぁねえ。僕の主観の問題だよ、うん」
この自分を可愛いと認識を狂わせているのは白澤、その結果、理想通りに運ばないと悩んでいるのも白澤である。彼の内にある虚像に合わせてやる義理など、こちらにはこれっぽっちもない。
なのに、身勝手な男の虚妄に呆れはしても殴る気が起きないのは、白澤が自身の勝手さをよく承知しているからだった。
「でもさ、やっぱり大事にしたいんだよ、お前のこと。僕の勝手な自己満足でもさ」
「その結果が毎晩の電話だというのなら、貴方の頭はやっぱりおかしいですよ」
喜ぶと思っていたのか、と軽く咎める。しかし、白澤はそれについてはけろりと否定した。
「いや、電話は僕がしたいだけ。お前が鬱陶しがるのは分かってるから、用件があろうとなかろうと五分以内に切るようにしてるだろ」
その答えに、成程こいつは馬鹿なのだ、と鬼灯は結論付ける。
頭がおかしいのではない。頭は切れるのに恋愛なり異性問題なりが絡むと途端に知能指数が落ちるタイプがたまにいるが、それだ。対象に自分を選ぶという点については、頭がおかしいとしか言えないが。
けれど、と思う。
先程から白澤はずっと自分を抱き締めたままだ。それを振り払いもせずに会話をし続けている自分も、大概どうかしている。
夏の終わりの海風は、まだ少しぬるい。八大の熱に慣れている鬼灯は特に暑いとは感じない気候だが、こうしてぴったりと身体を寄り添わせていれば、かすかに汗ばんでくる感じがする。
それでも振り払わない意味は互いに分かっている。
多少の不快感など軽く凌駕してしまう。唯一人を想うことの愚かしさであり、凄まじさでもあった。
「でも、電話も一環といえば一環かな。急ぎたくないんだよ、お前とのことは。繰り返すけど、こんな『お付き合い』はしたことがないからさ。初めてのことだし、もう二度とないと思うから、一つ一つゆっくり楽しみたいんだよ」
白澤の言いたいことは分からないでもなかった。
一旦、身体の関係にまで落ち着いてしまったら、そこから先は状況が大きく変わることはあまりない。逢う度ごとに知る感覚が増える。それは付き合い始めにだけ味わえる醍醐味だ。
しかも、最初で最後と言われれば、さすがに悪い気はしない。色事ばかりで女性と接してきた白澤が、初々しいと言えば聞こえのいい、こんな稚拙な付き合い方を過去にしたことがあるとは思えないからだ。
だが、これまたあいにくと、鬼灯の方は過去にそういう恋愛の手順を何度も経験していた。
出会ったその日に服を脱ぐような女性は交際相手に選んでこなかったし、恋愛とはそういうものだと承知していたから面倒だと思ったこともない。
けれど、そのセオリーがどうして白澤相手にまで適用されると思うだろう。
想いが通じ合った当日、遅くとも次に会った時には寝台になだれ込むのがこの色ボケの流儀だと思っていたのに。
「貴方も結構、意外性の塊ですね」
「そうかな」
「ええ」
それまで知らなかった顔を知る。それもまた、恋愛の醍醐味だろう。そう思いながら鬼灯は目を閉じる。
落ち着かない感じがしないわけではない。自分の目の前にいるのは、これまでよく見知ってきた相手でありながらそうではないのだから。
けれど、知らない顔を見せる白澤のことも嫌いではなかった。
「で? これからどうするんです?」
問うたのは、今日これからのことであり、自分たちのこれからのことでもあった。白澤もそれを察しただろう。彼は決して愚鈍ではない。
だが、答えは曖昧に焦点を外したものだった。
「視察はもういいのか?」
「ええ。見たかった所は全部見ました」
いつでも帰れると告げる。
世界はそろそろ夕暮れが近い。西の空は黄金色を帯びつつある。
「だったら、もう少しここに居てもいい? 陽が沈むまで」
「――はい」
どういうつもりで、もう少し、と白澤が望んだのかは見当がつかなかった。
自分たちにとっての現実であるあの世に戻るまでの時間を引き延ばしたいのか、今しばらくこの人気(ひとけ)ない海岸に二人で居たいのか。
どんな理由にせよ、鬼灯にとってもこの時間は心地の良いひと時だった。少しでも引き延ばせるのなら、それに越したことはない。
了承すると、白澤の腕の力が緩んだ。重なり合っていた服越しの体温が遠のくと、夕風に変わりつつある潮風が途端に肌に染み入る。
どうしたのかと見つめると白澤は小さく笑って半身(はんみ)を引き、鬼灯の手を取った。
「もう少し歩こう」
「はい」
緩い弧を描く海岸線は長く伸びている。刻々と水平線に近づいてゆく太陽に時折まなざしを向けながら、二人はゆっくりと砂を踏んだ。
「お前はあんまり、ああしたいこうしたいとは言わないね」
止むことのない潮風の中、確認とも質問ともとれる口調で白澤が言う。そうだろうか、と鬼灯は考える。
「それなりに欲はありますよ」
「うん。でも僕は殆ど聞いたことがない」
「それは多分、要望を口にするより、こうします、と決めて有言実行する方が好きだからでしょう」
望むことがあったらさっさと動き、叶うようにする。それが鬼灯の基本スタンスだ。
自分の欲しいものを他人に与えてもらおうとは思わないし、口に出すのも浅ましい気がしてできない。おそらく幼少時から頼るべき保護者がおらず、自力でどうにかするしかなかった弊害だろう。甘えるのが下手だという自覚はあった。
「でも私なりに要望は通してますよ」
最近で言うなら、倉庫を見せて欲しいと頼んだし、七夕の夜に酒を飲もうとも持ち掛けた。どちらも白澤の了承なしにはできなかったことだ。
「うん。でも、もう少し具体的に何かないの? こういう風に付き合いたいっていうやつ」
重ねて問われ、再び鬼灯は考え込む。
「――考えたことがなかったですね」
「ええー?」
白澤は不満そうな声を上げたが、事実だった。日々の多忙のせいもあって、白澤と付き合うことについてこれまで一度もまともに考えたことがない。
無論、ガキのような交際の仕方はどうにかならないものかと思っていたし、いっそこちらから引き倒すしかないのかとも思っていた。
だが、それ以上のことはというと。
「だって、私が考える間もなく貴方は毎晩電話してきますし、その度毎に鬱陶しくて、一体どうしてくれようかと思考を巡らせる羽目になるんですよ。それ以上のことを考える暇がどこにあります?」
「僕のせいかよ!?」
「基本的には」
先回りしてあれやこれやをやってくれる恋人がいると、その対応だけで手いっぱいになる。鬼灯は今まさにそんな状態だった。
「別に迷惑じゃないですよ。実際、私にはそういうことを考えてる暇はないんです。貴方が二人分考えて動いてくれるのは正直、助かります」
「……そう言われても、だったら良かった、とは言いにくいんだけど……」
「だったら、もう少しペースを考えて下さい。とりあえず電話を一日おきにしてくれたら、私も一日おきに貴方のことを考えてあげられるようになるかもしれませんよ」
「――はい」
善処します、と少しばかりしょげた風に白澤は言う。
だが、でも本当にそれで僕のこと考えてくれるのかよ、とブツブツ言っているのは、鬼灯のことをよく分かっているからだろう。
電話がかかってこなかったら、その分早く就寝してしまうだけだろうと疑っているに違いない。しかし、それは読みが甘いというものだった。
毎晩かかってくるのが当然だった電話が一日おきになったら? その時間になれば否応なしに白澤のことを思い出すだろう。たまにはこちらからかけようか、でも明日の夜にはまたかかってくるのだから止めておこう。それくらいのことは必ず考える。
だが、わざわざ口に出して教えてやる気はなかった。
「でも、そんなに気にしなくても、貴方が心配するほどの不満はないですよ。電話だって容赦なく切ってますし、嫌なことは嫌だと言いますし」
「あー、うん……確かに容赦ないよねお前……」
白澤からの電話を、鬼灯はその時のやりとりや眠気に応じて五回に一回は途中で切っている。
大抵の場合、白澤は直ぐにかけ直してくるし、それを分かってやっているのだから、言わば定番のコントネタのようなものだった。
性懲り無く電話をかけてくる白澤と、対応は悪いものの必ず応答はする自分。世間ではこれを割れ鍋に綴じ蓋というのではないだろうか。
「私は今のままで十分です」
小さな文句は幾らでもある。呆れ果てることも多々ある。
けれど、鬼灯は白澤に変わって欲しくなかった。どれほど馬鹿でも間抜けでも、そのままの白澤で良かった。
「貴方はどうなんです。私に対して何か要望はあります?」
「僕? 無いよ」
髪一筋ほども悩むこともなく、白澤は答えた。そのことに少しばかり鬼灯は驚く。
「無いんですか」
「うん」
うなずき、白澤は笑った。
「だってお前、容赦はないけど電話には出てくれるし、こうして会ってくれてるし。お前が自分の意志で僕の傍に居てくれるのに、これ以上何を望めって言うんだよ」
「……でもさっき、可愛くないとか何とか言ってませんでしたか」
「あれはね、全然別の話」
気にしたのかと、おかしそうに白澤は鬼灯にまなざしを向けた。
「そりゃあ、お前が簡単に優しくさせてくれたら僕は楽だよ。でも、僕が好きになったのは、容赦なく電話を叩き切るお前だから。そういうお前が僕は可愛いんだよ」
「……もはや、『可愛い』という概念がゲシュタルト崩壊を起こしてますよ。辞書を引き直したらどうです?」
「要らない要らない。お前が何をしようと、強情で可愛くないお前が僕は可愛い。僕には分かってるからいいんだ」
「さっぱり分かりません」
言い返しながらも、白澤の心情は伝わり過ぎるほどに伝わっていた。
鬼灯がそのままの白澤で良いと思っているように、白澤もこれまでのままの鬼灯で良いと言ってくれているのだろう。
無理をして合わせる必要も、変わる必要もない。互いが互いのまま、心を通い合わせていられたらいい。そういうことなのだ。
「それでは、互いに不満らしい不満はないということでいいんですか」
言葉にすると、更に割れ鍋に綴じ蓋感が嫌が応にも増す。何とも馬鹿馬鹿しいなと鬼灯が思っていると、白澤もそうだねと面白げに笑った。
「でも、ちょっと意外だな。お前はもっと僕に注文を付けてくるかと思った」
「そこまで暇でも物好きでもありません。一億五千年もその性格でやってきた貴方を、今更どうやって改造しようっていうんです?」
「はは、そりゃ正論だ」
笑い、白澤は鬼灯の手を引いて立ち止まる。何かと思い目線を上げれば、水平線に今にも沈もうとしている太陽が見えた。
眩い太陽が空を朱金から淡紫へのグラデーションに染め上げ、ゆっくりと身を水面へと沈めてゆく。
目を細めて二人はその光景を見つめた。
海のない日本地獄でも桃源郷でも見られない風景である。山の端に消えてゆくのとはまた違う、壮大で美しい姿だった。
ゆらゆらと揺れながら太陽の端が没し、残照だけが遥かな空に残る。それを見届けて、そっと白澤が鬼灯の手を引いた。
「帰ろうか」
「はい」
金魚を見て、墓場を見て、かき氷を食べて、海岸を歩いた。初の現世デートとしては十分だろう。大事なことも沢山話せた。
うなずき、鬼灯は白澤と共に歩き出す。
砂浜から上がり、道路に出るまで、手は繋いだままだった。
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