星屑カレイドスコープ
二、月影映る
さて、どうしたものか。
鬼灯が考え事にふけるのは、さほど珍しいことではない。だが、長い時間、一つのことについて考えるのは頻繁にあることではなかった。
もとより気が長い方ではなく、即断即決が鬼灯の常である。そうでなければ、多忙を極める閻魔大王の第一補佐官など勤めてはいられない。
しかし、この件に関しては、なかなか良い答えが出てはこなかった。
事の始まりは、数日前に遡る。
嫌がらせを兼ねた大量の発注をするために出向いた極楽満月で、鬼灯は珍しいものを見つけた。
艶消しの黒の地に艶黒で金魚のシルエットを表した直径二寸弱、長さ一尺弱の円筒形の物体。気を惹かれて、これは何かと所有者に問えば、万華鏡だと答えが返った。
覗いてもいいと言うので手に取って見てみると、そこには透明ガラスできた金魚鉢のような愛らしい世界が広がっていたのだ。
筒を回す度に向きを変えて泳ぐ金魚、揺れる金魚藻、きらきらと光る泡のような透き通った水色のカットビーズ。それはとても美しく清浄な世界だった。
驚嘆しつつも金魚がひらひらと泳ぐ様をじっくり堪能し、名残を惜しみながら万華鏡を下ろした。
そこまではいい。何の問題もなかった。
理解しがたい……というよりも、どう解したらいいのか分からない事態が発生したのは、その後のことである。
そんなに気に入ったんなら、やるよ、と白澤は言ったのだ。自分の手元に置いておいても、いずれ飽きてしまいこんでしまうだろうから、と。
お前の手元にある方がきっと幸せだと、彼にそんな風に言われたのは初めてのことだった。
白澤の声にも言葉にも揶揄や皮肉の響きはなかったし、からかいの入る余地のある会話でもなかったと思う。だから、鬼灯もいつものように上手く反論することができず、ついうなずいてしまったのだ。
今度、現世に視察に行った際に同じものを探せばいい。あるいはネット通販という手段もある。万華鏡を下ろした時には、そう思っていたはずなのに。
まだ新品で傷一つない、綺麗な綺麗な万華鏡を、よりによって白澤から無償でもらってしまったのである。
ともあれ、風呂敷に包んで大切に持ち帰った万華鏡は、その日から鬼灯のひそかな楽しみの種となった。
金魚草の世話すら時にはままならないほど多忙の身では、生きた金魚など買うことなど夢物語でしかない。けれど、漆黒の万華鏡を覗けば、いつでもそこには小さな金魚鉢が広がっているのだ。
くるくると回せば金魚も金魚藻も動き、きらきらと光る。勿論、そこに命があるわけではないが、その小さく美しい世界は十分すぎるほどに鬼灯を潤した。
そんなわけで目下(もっか)のところ、鬼灯はこの万華鏡をとても大切にしている。金魚グッズコレクションの中でも群を抜いてのお気に入りといって良かった。
しかし、ここで問題が一つ持ち上がる。
これほど佳い品物をタダでもらってしまったからには、相手に御礼をしなければならないと思うのだが、何を贈れば良いのかさっぱり見当がつかないのである。
白澤が好むもので鬼灯が知っているものといえば、酒と女。これに尽きる。どれほど考えても他に何も思いつかない。
「まさか、女性を贈るわけにもいきませんしねえ」
新たな女性客でも極楽満月に紹介してやれたら良いのかもしれないが、日本地獄で慢性疾患を抱える女性の多くは、既にあの薬局の顧客である。今更、鬼灯が出る幕などない。
だが、そうなると残るは酒しかないのだ。
あの偶蹄類に美酒を贈ったところで、だらしがなく酔い潰れるのが関の山だと分かっているのに、どれほど考えても他の品物が浮かんでこない。
そのことが、ここ数日の鬼灯の悩みの種だった。
割り切って酒にしてしまえば良いのだろう。あの神獣とて美味い酒に文句は言うまい。
けれど、もらったのが金魚の万華鏡という珍しくも美しい品である以上、同等の品を返したいと何とはなしに思ってしまうのである。
意地とか負けず嫌いとかいう心の動きとは少し違う。それはやはり、純粋に『御礼をしたい』という感情から生まれてきているようだと、鬼灯は自分の心を覗き込んで思う。
「私がアレに御礼をしたいだなんて、世も末ですが」
これまでにも何かしらの借りが生じて、それを返さねばと感じたことはある。だが、あの神獣相手に自主的に好感をもって動くことは、初めてではないだろうか。
けれど、それくらいの価値がこの万華鏡にはあった。
漆黒の表面に指で触れると、ひんやりとした金属の感触がすべすべと心地よい。
「さてと。どうしたもんですかね」
幸いというべきか、一週間後には現世への視察も控えている。そこでならば、地獄デパートにも高天原ショッピングモールにもないような珍しい品を見つけることができるかもしれない。
そう思いつつ、鬼灯は万華鏡を取り上げて中を覗き込む。
ゆっくり筒を回転させると、小さな赤い金魚がひらひらと光の中で泳ぐ。
その可愛らしさに、やっぱり御礼をしないわけにはいかないな、と心の中で独り言(ご)ちて溜息をつきつつ、寝支度をするためにそれをそっと下ろしたのだった。
境界の門を抜け、天国側に出ると、途端に月の光が美しく冴える。
地獄の月は淡く雲がかかり、薄らぼんやりと――有り体に言えば、大層不気味に見え隠れするのが常であるから、この差はいつも新鮮だった。
何千年と見知っていても、佳いものは佳いのである。
花の香りのするやわらかな春風を楽しみながら、鬼灯は月光に光る踏み分け道を慣れた足取りで歩いた。
件(くだん)の相手は、今夜は在宅のはずである。
良くも悪くも白澤は目立つ上に、金銭を惜しまないため衆合地獄での人気は高い。遊びに来ていれば、その賑やかさですぐにそうと知れる。
だが、今夜はまだ誰も、あの世の底で白澤を見かけていなかった。集合地獄を通り抜ける際に幾人かの客引きにも確認したから間違いない。
その代わりにといっては何だが、今頃は桃太郎が地獄に遊びに来ているはずである。昼間、シロが皆で焼き肉屋に行くのだと嬉しそうに話してくれたから、こちらの情報もほぼ確実だろう。
つまり、今夜の白澤は珍しく独りだということだった。
自宅に女性を連れ込んでいる可能性も無くはなかったが、あの男の基本は色街で遊んだ後のお持ち帰りである。最初から出かけていないのであれば、まず独りだと見て間違いない。
果たして、ゆるやかに登る道の先、橙色の温かな灯火が窓から零れているのが見え始める。留守の時は律儀に消灯してゆく白澤だから、やはり自宅にいるのだろう。
無駄足にならなくて良かったと安堵しつつ、坂を上りきる。
そして、嵌まったガラス窓越しに店内の様子を窺いながら、戸口を勢いよく横に引いた。
「こんばんは」
「うおっ!」
こちらに背を向ける形でカウンターで作業をしていた白澤が、びくりと跳ね上がる。
「またお前か! 閉店時間後に、いきなり開けるのは止めろ!」
「だったら、施錠の一つでもすればいいんですよ。鍵がかかっている戸を強引に開けるほど、私は無茶ではありません」
もっとも鬼灯が知る限り、この戸口に鍵がかけられたことは一度もない。天国で泥棒など有り得ないからだ。
もっとも素人が触れるには危険すぎる薬種もあるから、白澤もそういったものはきっちりと封印をして、力のないものは触(さわ)れない、あるいは肉眼では見えないようにしている。ぐずぐずに箍(たが)が緩んでいるように見えても、締めるところはきちんと締めているのだ。
ゆえに、鬼灯が鍵を付けたらどうだと言ったのは、単なる戯言(ざれごと)の部類だったが、白澤も分かっているのだろう。
「どうだか」
肩をすくめ、嫌そうな顔で白澤は鬼灯を見やった。
「で? こんな時間に何? また無茶な注文でも持ってきたのか?」
「違いますよ」
前回の訪問時に嫌がらせを兼ねて発注した大量の生薬は、期日通りにきちんと納品されている。無理を押し付けたのに、質量ともに何の瑕疵(かし)もなかったあたりはさすがだった。
当然ながら鬼灯は、これでは難癖の付けようがないと検品時に舌打ちしたが、それも過ぎたことである。
「しばらく薬の発注はありません。今夜は別件です」
そう言い、鬼灯は持参した荷物を作業卓の上に置いた。
金魚柄の風呂敷を解きにかかれば、白澤はいぶかしげな顔をしつつも好奇心を表して近づいてくる。
「酒……と、その桐箱は?」
「礼ですよ」
「礼?」
「結構なものをいただいてしまったでしょう、先日」
告げると、白澤は一瞬きょとんと考えてから、すぐに、ああ、とうなずいた。
「金魚の万華鏡か。なに、お前。そんなにあれが気に入ったの?」
「それを見越して寄越したんでしょうに。白々しい」
「うん、それはそうなんだけど」
素直に鬼灯が礼をしようというのが不思議なのだろう。白澤は、どう受け取ればいいのか計りかねる心情もあらわに桐箱に指先を触れた。
小さめのそれは、しかし、きちんと組紐がかけられて箱書きも記されている。伸びやかな墨痕と鮮やかな朱色の落款に白澤の視線が走った。
「ぐい飲み?」
「ええ。現世で見つけたんですよ」
「その酒も現世のだね」
ちらりと二本の一升瓶を見て、白澤は言った。
「あの世の酒なんて、貴方は呑み慣れてるでしょう」
「うん」
揶揄を含めて言葉を返せば、悪びれもせずにうなずく。そして、箱を開けても良いかと問うた。
「どうぞ」
鬼灯がうなずくと、白澤の指先が早速、組紐の結び目にかかる。が、ぴたりとその手が止まった。
「とか言って、中に何か仕込んでるんじゃないだろうな」
「失礼な。貴方、私を何だと思ってるんですか」
「鬼だろ。それも性根が最低最悪の」
疑わしげに見つめられて、鬼灯は険悪に睨み返す。
残念ながら、今日は本当に何も仕込んでいなかった。というよりも、仕込むこと自体を思い付かなかったのである。
鬼灯にしては珍しい失態だった。普段ならば、どんな小さな好機も見逃さず白澤への嫌がらせに利用するというのに、それを忘れるとは。
浮(うわ)ついていたのかもしれない、と白澤を睨み付けつつ、鬼灯は自分の心を振り返る。
昨日、現世でこの小さな品を見つけた時、これだと思ったのだ。これなら金魚の万華鏡の御礼に値すると、心が沸き立つのを感じた。
そして買い求めた品を持って地獄に帰り、桃源郷を訪れるまではおよそ一日。それだけの猶予があったというのに、嫌がらせの一つも思いつかなかったというのは、まったくもって迂闊(うかつ)なことである。
己の失態に憮然としつつも、鬼灯は素っ気なく言い返した。
「礼の品にそんな非道な真似はしませんよ。さっさと開けて下さい。まどろっこしい」
「お前ねえ……」
日頃の行いを振り返れ、とぶつぶつ言いながらも、白澤は器用な手つきで紐をほどき、桐箱の蓋を開ける。
そして中を覗き込み、小さく感嘆の声を上げた。
「へえ。お前にしては中々の物を持ってきたじゃないか」
「どんだけ失礼なんですか、貴方」
「お前ほどじゃないよ」
言いながら、白澤はぐい飲みを取り出す。それは小さくて品のいい形をした猪口だった。
満ちた月を思わせるやわらかな色味の釉薬に透明な硝子釉が重ねられ、それが所々で結晶化して星のようにキラキラと光っている。
様々な角度に傾け、天井の明かりを受けて輝く様を確かめながら、白澤は嬉しげに言った。
「結晶釉か。うん、いい色だな。この底の結晶化した部分、まるで月光をそのまま水晶にしたみたいだ」
「気に入りましたか」
「うん、これはいい。酒が一層美味くなりそうだ」
屈託なくうなずく。大嫌いな相手からの贈り物でも、こうして素直に喜べるのは、阿呆なのか大らかなのか。
阿呆ということにしておこうと思いつつ、しかし、鬼灯は心の底がほっと緩むのを感じた。
ほんの少しだけ、気がかりは気がかりだったのだ。
気に入らないと言ったら承知しないとは思っていたが、好き嫌いは強要できるものではない。
鬼灯はあの万華鏡をいたく気に入っていたから、白澤にもそれなりに気に入ってもらえるものを返したかった。
何が良いかと散々に悩み、やっと見つけたこのぐい呑みを果たして白澤がどう受け取るか。悪戯を仕掛けることをついうっかり忘れてしまう程度には、案じずにはいられなかった。
そして今、白澤はひどく嬉しげに明かりにかざしたりひっくり返したりして、小さな酒器を愛でている。
その好意的な反応は、鬼灯にとっても素直に嬉しく安堵できるものだった。無論、おくびにも出さなかったが。
やがて満足したのか、白澤はぐい呑みを卓に置いて酒の方にまなざしを向ける。
「そっちの酒も開けていい?」
「ええ。差し上げたものです」
「じゃ、遠慮なく」
鬼灯がうなずくと、白澤は一升瓶のうち一方を引き寄せ、ラベルを興味深げに読んだ後、封を開けた。
「ああ、これもいい香りだ。ホントに珍しいね。お前がこんないいものばかり持ってくるなんて」
「だから、礼だと言ってるでしょう」
鬼灯が顔をしかめて言えば、白澤は、ふぅんと面白げに笑う。
「じゃあ、これからもお前に何かしら佳いものを贈れば、こうやって佳いものが返ってくるって期待してもいいのかな」
「いただける物によります」
「ま、そりゃそうだ」
笑いつつ、白澤はちょっと待ってろと鬼灯をその場に残し、自分は台所に消える。何だろうと鬼灯が不思議に思っているうちに、盆の上に幾つかの品を載せて戻ってきた。
成程、早速飲むつもりで肴を用意したらしい。こっくりと飴色をした植物の葉茎らしい佃煮、八角や桂皮を効かせた中華風の大根の醤油漬け、水晶肴肉と呼ばれる塩漬けした豚肉の煮物を煮こごりで固めたものには、黒っぽいたれが添えてある。おそらく香酢だろう。
冷菜ばかりなのは、火を使う時間を惜しんだからに違いない。
「前もって酒を持ってくるって連絡があれば、何かしら作っておいたんだけどな」
笑って目を向けてくる白澤に、鬼灯は知らん顔をする。日時を厳格に定めて受け取りたい薬でもない限り、今から行くなどとと事前連絡をしたことは過去に一度もない。しろと言われても、する気などなかった。
白澤の方も分かって言っているのだろう。そんな鬼灯に構わず盆を卓の上に置く。
そこに載せられているものを改めて見て不思議な事に気付き、鬼灯は目をまばたかせた。
「どうして杯がこんなに要るんです?」
卓の上には既に鬼灯が贈った酒杯がある。酒は二種類あるから、味や香りが混じらないよう替えの杯を用意するのは理解できる。だが、どうして三つも杯が載っているのか。意味が分からない。
何故と白澤を見れば、白澤はおかしそうな顔で鬼灯を見ていた。
「お前の分だろ」
「私の分?」
問い返すと、白澤は更に面白げに笑んだ。
「何、お前。酒を持ってきて自分は飲まずに帰るつもりだったの?」
「それは……そうでしょう」
これは白澤への返礼品だ。自分が飲むことなど考えてもいなかった。
だが、そんな鬼灯の発想がおかしくてならないらしく、白澤はとうとう声を立てて笑い出す。
「お前って時々、ずれてるよな」
「どこがです」
「だから、酒を持ってきて自分は飲まずに帰ろうとするところとかさ」
「貴方以外の相手に持参したんでしたら、一緒に飲みますよ」
「それもそうか」
憮然となりながら答えると、成程と納得した様子を見せた白澤は、ふと、鬼灯を透かして背後の戸口へとまなざしを向けた。
「いい夜だ。外で飲むか」
「はあ」
どこで酒を飲もうと彼の勝手である。曖昧に鬼灯がうなずけば、白澤は一旦は卓上に下ろした盆に結晶釉の酒杯を加えて、再び持ち上げた。
「お前はその酒を持ってきて」
なんで私が、と言いかける言葉を何とか飲み込み、鬼灯は二本の一升瓶を取って白澤の後を追う。
店外へ出ると、白澤は軒下にある縁台に酒席を設(しつら)えていた。どうやら本気で鬼灯と飲むつもりらしい。
酒瓶を下ろしたものの、自分はどうすべきなのか判断しかねて鬼灯が立っていると、白澤は何でもないことのように言った。
「座れば?」
「……どういう風の吹き回しですか」
「んー。気まぐれ?」
質問に疑問形で答えて、白澤は結晶釉の酒杯を取り上げる。
「お前、今夜は喧嘩する気ないだろ。だったら、手土産の酒くらい一緒に飲んでもいいかなってさ」
「―――…」
貴方は私のことを嫌いでしょう。白澤の言葉に、反射的に鬼灯はそう思う。
だが、目の前の神獣は、明らかに自分に対して好意的だった。それが何故なのか分からない。
酒に懐柔されたのだとしたら、幾らなんでも安すぎる。そこまで安易な男だっただろうかと記憶を探ったが、単純さと狡猾さ、間抜け顔と極稀に見せる超越した表情が交互に入り乱れて、結局、印象は捉えどころがなかった。
「いいから座れよ」
立ち尽くす鬼灯の葛藤を読んだのか、白澤は小さく笑う。
「二人がかりで飲めば、二升くらいあっという間だろ。一時間やそこら、僕とお前が友好的に過ごしたって罰(ばち)は当たらないさ」
涼やかな夜風にも似た、さらりとした言葉だった。
それを聞いて、確かにこれ以上思い悩むのも馬鹿らしいことかもしれないと鬼灯は思う。
白澤が良いと言っているのならば、飲めばいい。そう結論付けて、鬼灯は縁台に腰を下ろす。そして、白澤が用意してくれた酒杯の一つを手に取った。
ふっくらとした端正な形の表面には、極々細い筆で緻密な花紋が描き込まれている。一目でそれと分かる第一級の品だった。
「白薩摩ですか」
「そう。少し前にね、気に入って買った。うちの国にも滅茶苦茶細い筆で絵付けする技法はあるけど、ここまで端正で狂いのない線を引ける職人は中々いないよ」
「……貴方って日本贔屓ですよねえ」
「お前だって何のかんの言いながら、僕の国のことは嫌いじゃないだろ」
「それは、まあ」
あの世に裁判制度や官僚制を取り入れたのは、日本地獄よりも中国地獄の方が先だ。十王制や各王の呼称も大陸に倣(なら)っている。
生活習慣や宗教観の差異があるから、当然ながら地獄の種類や刑罰の基準も異なるなど、違いはそこここにある。しかし、似通っているところを数え上げたらきりがなかった。
「すごい国であり、文化であると思いますよ、素直に」
「だろう? 日本だって興味深さじゃ負けちゃいないけどね」
小さく笑いながら白澤は結晶釉のぐい呑みに手酌で酒を注ぐ。そして鬼灯にも酒瓶の口を向けた。
僅かに酒瓶を揺らしての誘いかけるような仕草に鬼灯は一瞬ためらったものの、素直に酒杯を差し出す。すると白澤はその小さな器を酒で満たした。
乾杯の言葉はない。互いに目線だけ見交わして、それぞれの酒杯を煽る。
封を解かれた時から馥郁(ふくいく)と薫っていた吟醸香が、口に含んだ途端、更に豊かに広がる。嚥下すれば、美しい華を百も集めたような香りが喉を滑り降りて体内一杯にふくよかに満ち、二人共に思わず感嘆の吐息を漏らした。
「お前、本当にいいのを持ってきたね」
「一応、御礼ですから」
借りは返す。それが鬼灯の昔から変わらぬ主義だ。白澤相手であっても揺らぐことはない。
だからといって、この男相手に今回のように嬉々として返礼することは稀で、不承不承ながらも手は抜かないというのがせいぜいではあったが。
「それじゃあ、僕もありがたく受け取っておくよ。そっちの酒も開けようか」
白澤は手を伸ばして、まだ封を切っていなかったもう一本の酒瓶を取り上げる。そしてラベルを確かめてから、栓を開けた。
「うーん。また全然香りが違うな。これだから酒は面白いよねえ」
「ええ」
日本酒で言うならば、米と米麹と水。これだけの材料しか使わないにもかかわらず、出来上がる酒ごとに風味が違う。
「理屈ではさ、説明できるんだよ。今回はこの菌が良く働いたとか温度湿度がどうだったとか。でも、酒を飲む時にそんな薀蓄(うんちく)はいらない。一つ一つ美味いものは美味い。ありがたくいただけばいいんだ」
「……まったくもって正論ですが、そう言う割には、貴方は随分と勿体ない飲み方をされてますよね」
嬉しそうに語る白澤が何となく鬱陶しく思えたので、少しばかり水を差してみる。案の定、白澤はむっと顔をしかめた。
「お前ほどじゃないよ。どれだけ飲んでも酔わないなんて海に酒を捨てるようなもんだ。ああ、勿体ない」
「翌朝には全部吐き戻しする貴方よりマシですよ」
「僕は少なくとも楽しく酔ってる!」
「酒に飲まれてるの間違いでしょう」
「美味いし楽しいからいいんだ!」
むきになって言い返してくる白澤に鬼灯は肩をすくめ、盃を替えて花莽紋が美しい高麗青磁の逸品に手酌で新たな酒を注ぐ。
二本目の酒も、また趣の異なる豊かな香りを持ち、舌の上に濃厚な旨味が長く残る。深い余韻のある佳い酒だった。
白澤も忌々しげな顔をしつつも、透き通った紅色が鮮やかな切子硝子の盃に替えて手酌で酒を注ぎ、その香りを楽しんでからゆっくりと口に含んだ。
「あー。お前はムカつくけど、酒は美味い。ものすごく」
「全く同感です。隣りにいるのが貴方でなければ、もっと美味かっただろうと思うと大変残念ですよ」
「僕だって残念だ。お前じゃなくて可愛い女の子だったら百倍楽しかったのに」
互いにふんとそっぽを向き、酒肴に手を伸ばす。
憎らしいことに、佃煮も大根の醤油漬けも水晶肴肉も素晴らしく美味かった。
「黙って薬と料理だけ作っていればいいものを……」
「お前だって、黙って真面目に仕事をしてりゃいいんだよ」
互いのことが嫌いでも、能力を認めていないわけではない。口々にけなし合いながら、二人は二種の酒を交互に飲み続ける。
そして、瓶の中身が半分ほどになった時、あ、と白澤が声を上げた。
「何です?」
「いや、今ちょうど盃に月が映っててさ」
「え?」
確かに上空には少しばかり欠けた十六夜の月が昇っている。月の位置を確認し、白澤の手元を覗き込めば、彼の言う通り、酒の水面に小さな月が浮かんでいた。
ゆらりと揺れる美酒の底には、月の光を受けてキラキラと光るガラスの結晶がある。まるで小さな杯の中に月と星が煌めいているような、それは美しくも不思議な景色だった。
「綺麗ですね」
思わず鬼灯は呟く。
すると、白澤もうなずいた。
「うん、綺麗だ」
酒杯の中を見つめたままそう言った声はいつになく深い響きを帯びているように聞こえて、鬼灯は彼の横顔を盗み見る。
目線を落とした白澤は仄かに微笑み、満ち足りているように見えた。
彼のこんな表情を見るのは珍しい。そう思うと何となく茶化しにくくて、鬼灯は黙ったまま新たな酒を高麗青磁の盃に注ぐ。
それから隣りに倣(なら)って天頂にある月を小さな水面に映せば、美しい花莽紋と相まって、まるで極楽の蓮池に月光が差しているかのようだった。
しばしそれを見つめてから、ぐいと呑み干す。
「いい酒です」
「ああ」
呟いた言葉に白澤も再びうなずき、自分の酒杯を呑み干す。
そしてまた自分の盃に酒を注ぎ、鬼灯の盃も空になっていることに気付いて酒瓶の口を向けた。
「―――…」
またわずかに躊躇ったものの、鬼灯は黙ってそれを受け、注がれた酒を干してから今度は自分が酌に回る。
差し出された酒杯に対し瓶を傾けようとして、ふと目線を上げる。すると、白澤と目が合った。
彼は先程と同じく盈(み)ちた月のように笑んでおり、何、とやわらかく問われて、いえ、と鬼灯は逸らす。そして酒を注いだ。
奇妙な酒盛りだった。
隣りには大嫌いなはずの神獣が満足げにくつろいでいる。だが、不思議と嫌ではない。酒は美味いし、僅かに欠けた月も美しい。
一体これは何なのだろうと思いつつ、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、鬼灯は最後の一滴が亡くなるまで白澤と共に佳酒を飲み続けたのだった。
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