星屑カレイドスコープ

一、金魚泳ぐ

 白澤は、ひどく途方に暮れていた。
 森羅万象に通じる神獣、それも吉祥の兆しがこんな風に困り果てることなど滅多にないことである。
 後先を考えない享楽的な性格ゆえに、実生活では度々窮地に陥っているのだが、白澤には窮地を窮地とも思わない図太さと楽天さと、信憑性が薄いことはなはだしいがずば抜けた叡智がある。よって、途方に暮れるなどという表現とは基本的に縁がない。
 にもかかわらず、先日から白澤はひどく困っていた。
「あーもう、なんでこんなもの買っちゃったかなー」
 カウンターの上に転がしたままの物体を見つめ、白澤は大きく溜息をつく。そしてカウンターに突っ伏した。
「確かに綺麗だと思ったよ。でも誰かに見せる当てとかないし。見せたい相手とか全然ないし。これはもう倉庫にしまってしまうべきだよ、うん」
 ぶつぶつとぼやく声が昼下がりの薬局内に響く。
 この場に桃太郎が居たら間違いなく、仕事をして下さいと叱られただろう。だが、彼は今、桃園で芝刈り中だ。白澤は心ゆくまで怠惰に伸びていることができた。
 午後の日差しはうららかで、窓の外に広がる桃源郷の景色は常と変わらずゆったりと美しい。
 しかし、幾らも経たないうちに、からりと乾いた音と共に極楽満月の戸が引き開けられた。
「あ、いらっしゃ――、お前か」
「ええ、私ですよ」
 反射的に客を迎えかけた白澤だったが、のっそりと入ってきた常闇色の相手を見て盛大に顔をしかめる。
 この客が来て良いことがあったためしがない。しかし、単純に売上高を見れば、閻魔庁は五指に入る上得意でもある。
 嫌々ながらも身体を起こし、「何の用」と白澤は問いかけた。
「薬の注文に決まってるでしょう」
 これを、と差し出されたメモを手を伸ばして受け取る。白い紙にボールペンの細かい字で薬の名前がびっしりと書かれており、見るからに面倒くさそうだった。
「いつまで?」
「明後日の昼までに」
「寝言は寝てから言え」
 一見したところ、どの薬も処方はさほど難しいものではない。材料を揃えて調薬するだけだが、量が量である。おまけに大半が煎じ薬ではなく丸薬だ。
 薬研(やげん)に一度にかけられる量は限りがあるし、材料を刻んだり削ったりの下準備も必要となる。出来上がったら薬包紙に包む必要があるものもある。
 それを営業時間だけで言えば十五時間程度で何とかしろというのは、横着もいいところだった。
「無理」
「やれ」
「できるか」
「それを間に合わせるのがプロってものでしょう」
「僕はプロだが、可愛い女の子相手ならともかく、お前相手にプロ根性を発揮する気はない」
 きっぱりと答えながらも、白澤は頭の中で必要時間を計算する。
「五日、寄越せ」
「遅い」
「遅くない。うちの客はお前んとこだけじゃないんだ。桃タロー君には桃園の手入れの仕事もあるしな。かかりっきりでやるんならともかく、通常営業をしながらなら四日はかかる。確実な納品は五日後の夕方だ。これは譲らない」
「……チッ」
 ひどいしかめっつらで常闇色の鬼神は舌打ちをする。だが、他の客に優先しろとまでは言う気はないようだった。その程度の良識はわきまえているんだよな、と白澤は思う。
 そもそも白澤の見立てでは、明日までという納期期限そのものがこの鬼の嫌がらせだった。注文書きを見る限りでは、緊急性のある薬など一つもない。
 たとえば今現在、地獄で悪性の疾患が流行りでもしているのならば、鬼灯ははっきりとそう言うし、そんな場合には白澤も必ず他の注文に優先して応じる。一応の協力体制はできているのだ。
 しかし、注文の薬はどれもこれも常備薬の類(たぐい)である。無茶に応えてやる謂(いわ)れはなかった。
「ったく、嫌がらせじみた注文ばっかり持ってくるなよな。温厚な僕もしまいにゃキレるぞ」
「そんなにこの金棒の錆になりたいですか」
 ああ言えばこう言うとは正にこのことだろう。まったくもって可愛げのない鬼である。
 すっかり鼻白んだ白澤は、しっしっとばかりに手を払った。
「用が済んだんなら、帰れ帰れ」
「言われなくても帰ります」
 客商売にはあるまじき態度で追い出しにかかった白澤に、鬼灯もすまし顔で応じて踵(きびす)を返しかける。
 が、ふと何かに気付いたかのように動きを止めた。
「?」
 何に反応したのかと白澤は反射的に鬼灯の目線を追い、そして、げっ、と心の内で呟く。
 鬼灯が、よく見知った人間にはそれと分かるきょとんとしたまなざしで見つめているのは、カウンターの隅に転がっている長さ一尺ほどの筒状の物体だった。
「これは……?」
 太さは二寸程。艶消しの漆黒の地に、鏡面仕上げの漆黒で描かれた図案は――デフォルメされた金魚と金魚藻のシルエット。
 名の知れた金魚マニアでもある鬼灯が目に留めたのも当然の代物である。しまっておくのを忘れた、と心の内で舌打ちしたものの、もう遅い。
「何ですか?」
 言葉ばかりでなく目でも問われて、白澤は渋々と答えた。
「万華鏡だよ」
「万華鏡?」
 これが?、と鬼灯は不思議そうに、そして興味を惹かれたように漆黒の筒を見つめる。
 だが、手は出さない。理不尽の極(きわ)みを平気でやるくせに、この鬼は他人の物にむやみやたらに触れるような不躾な真似はしないのだ。
 あるいは、あの世には呪具法具が当たり前に転がっているとわきまえているが故の用心であるのかもしれない。
 ともかくも、じっと見つめているばかりの鬼灯に、なんだか急に馬鹿馬鹿しさを感じた白澤は、いいよ、と告げた。
「手に取ってみれば? 現世の日本で買ってきた代物だから、別にヤバい呪いもかかってないよ。ただの、フツーの万華鏡」
 説明する白澤を見つめ、それから再び万華鏡に視線を移した鬼灯は、ゆっくりと手を伸ばす。そして、丁寧な手つきでそれを取り上げ、表面の造形を確かめてから筒を掲げて中を覗いた。
「――金魚ですね」
「うん、そう」
 短く爪の摘まれた、形のいい指がくるりくるりと万華鏡を回す。その度にどんな風景が広がるのか、白澤はよく知っていた。
 小さな赤い金魚の形をしたビーズが泳ぎ、金魚藻の形をした翠色のビーズが揺れる。泡沫(あぶく)のような水色のカットビーズがきらきらと煌めく。涼しげで可愛らしい、けれど、ただそれだけの他愛のない玩具だ。
 だが、それだけのことが覗き込む者をこの上なく魅了する。神仙や化生(けしょう)のものですら例外ではない。
 白澤がこの万華鏡を見つけたのは、五日ほど前、現世に下りた時だった。
 現世でしか手に入らない生薬を買い付けるついでに、あちらこちらを覗いて回った。そのうちの一軒の店が、万華鏡の専門店だったのだ。
 おそらくは古い店舗を改装したのだろう。少しばかり懐かしさを感じさせる飾り窓に並べられていた商品に気を惹かれて、白澤は店内に足を踏み入れた。
 有名な作家の手による一流品を中心に取り揃えているらしい店内は、かすかにオルゴールの調べのCDが流れている以外はしんと静かで、店主らしい女性も物静かに微笑んでいるばかりだった。
 店内をじっくりと見て回り、大切に並べられた一つ一つを手に取って覗き込んでは、三角鏡の中に広がる小宇宙や花畑に感嘆して。
 一番最後に、この漆黒の万華鏡を見つけたのだ。
 黒ずくめの外装に施された金魚の意匠にまばたきし、手に取ってからは、まるで金魚鉢を覗き込んだようなシンプルで愛らしい内側の風景に夢中になった。
 そう、今の鬼灯とまるで同じだった。
 たかが鏡細工。されど鏡細工。
 完全に魅了されて何も考えずそのまま万華鏡をレジに差出し、会計を済ませて桃源郷まで大切に持ち帰り、ほくほくと包みを広げ。
改めて金魚の風景を楽しみながら、あいつが見たら喜ぶだろうなぁと一人呟き。
 そこで、はたと我に返ったのだ。
 あいつとは誰であるのか。
 反射的に自問し、瞬時に答えを見出して、とんでもないと首を横に振った。
 あんな奴を喜ばせて一体何の益があるというのか。せいぜいがその時に限っては金棒が飛んでこない、そんな程度のことではないか。
 そう思ったのに、何故か金魚の万華鏡をしまい込んでしまうことはできず、カウンターの上に置いたままにしてしまった。
 日に何度となく目線を向け、物置にしまおうかと迷ったり、いや、でももう少し堪能してからと自分に言い訳をしてみたり、そうこうしているうちに日数が過ぎて、とうとう件(くだん)の鬼に見つかってしまったのである。
 そして今、想像した通りに、あるいはそれ以上に熱心に鬼灯は万華鏡を覗き込んでいる。片目を閉じ、まばたきする間すら惜しむかのように見つめている様は、まるで子供のようだ。
 いつも固く引き結ばれている唇はかすかにほころび、けれど魅入られ過ぎてしまっているのか、感嘆の一言すら出てこない。
 夢中になっている鬼灯を眺めるうちに、ふと白澤の心の内に、そんなに気に入ったのなら、という思いが泡(あぶく)のように生まれて、小さくはじけた。
 その考えは思いもよらなかったもので、白澤は自分の思い付きに少しばかり戸惑い、たじろぐ。
 だが、喜ぶだろうと思ったのは事実だった。鬼灯ならきっとこれが気に入るだろうと――見せてやらねばと一番最初に思った。
 どうしてこの鬼を喜ばせなければならないのかは横に置き、物はより大切にしてもらえる者の所に行くべきだと白澤は常々考えている。
 ならば、この万華鏡もそうあるべきではないか。いや、きっとそれが正しい姿だろう。
 だが、相手は鬼灯だという問題が立ちはだかる。白澤が譲ると言ったところで素直に受け取るだろうか。もし嫌な顔でもされたら、万華鏡がかわいそうである。申し出た白澤自身もだ。
 けれど――。
 白澤の視線の先で、鬼灯はまだ万華鏡を覗き込んでいる。こんなにまでも気に入っているのだ。譲ると言われたら、やはり喜ぶのではないか。
 でも拒否されたら、と鬼灯が万華鏡を回す度に白澤の心もくるりくるりと翻(ひるがえ)る。
 たかが万華鏡、だが、相手は千年来の喧嘩相手である。答えは容易に出ない。
 譲ると言うべきか、言わざるべきか。
 しかし白澤が思い定めるよりも早く、到底満足したとは言いかねる顔で鬼灯がゆっくりと万華鏡を下ろした。
 これ欲しいな、と思っているのが丸分かりの名残惜しげな表情で筒を見つめながらも、そっとカウンターの上に戻す。
 その彼らしくもない未練たらたらの様子を目(ま)の当たりにした瞬間、漣(さざなみ)のように揺れていた白澤の胸の内はぴたりと定まった。
 見せびらかすだけ見せびらかして、このまま意地悪くしまい込んでしまう手もある。この鬼相手にそうしたところで良心など痛まない。
 けれど、それでも。
 こんな横顔を見てしまっては、もう駄目だった。
 一つ息を吸い込み、丹田に気を溜める。
 そして、
「そんなに気に入ったんなら、やるよ」
「え?」
 思い切って言えば、鬼灯は驚きもあらわに白澤を見た。
 きょとんとした顔は、しかし、一瞬で険のある表情に変わった。
「……何を企んでるんですか」
「企んでねーよ!」
 あからさまに疑われて、やはりこいつはひとの厚意を素直に受け取れないのかと、白澤もまた眦(まなじり)を吊り上げる。
「やるっつってんだから、素直に受け取れ!」
「だから、貴方がただでくれるっていうのが疑わしいんですよ」
 守銭奴のくせに、と疑い深く言い返されて、白澤は反射的に言葉を返した。
「金魚好きなのはお前だろ! 物は大事にしてもらえる奴の所に行くのが一番なんだよ!」
 新品の万華鏡は、まだ只の物質であり、付喪神のような意思は持っていない。だが、それでも大切にされれば喜ぶのだ。
 長年大切に愛でられた物は人好きの付喪神になるし、粗略に扱われた物は人に恨みを持つ付喪神となる。そんなことは鬼灯とて、重々承知しているだろうに。
 素直に受け取らない鬼が苛立たしくて睨み付ければ、彼の疑いのまなざしの中にかすかに戸惑いが生まれるのが見えた。
「確かに金魚は好きですけど……。貴方だって、これを気に入って買ったんじゃないんですか」
「――そりゃまあ、そうだけど」
「だったら、いただけません」
 きっぱりとした口調で、鬼灯は告げる。その表情には、もう険はなかった。覗いているのは彼特有の折り目正しさだ。
 でも、と白澤は思う。
 金魚は嫌いではないが、金魚の図案の小物を集めて喜ぶほど愛好しているわけではない。金魚グッズを可愛いなと思いはしても、買ったのはこれが初めてである。
 対して鬼灯は、私物の殆どが金魚柄か鬼灯柄か、さもなくば最悪なことに墓を図案化した柄だ。
 とかく好きなものには子供のように夢中になり、蒐集したがる鬼灯の性癖は、白澤ですら少し可愛いと思う。
 そう、金魚にやたらとこだわっている時の鬼灯のことは、決して嫌いではないのだ。
 そんな鬼灯が、彼にしては珍しく――本当に珍しく、白澤の目の前で物欲しそうな目をした。
 対象が貴重な薬であれば、白澤も商売っ気を出しただろう。自分が苦労して入手し、あるいは調合した薬を高く売りつけることには、何の良心の呵責も感じない。
 けれど、鬼灯が心を動かしたのは万華鏡だった。白澤にしてみれば、一時の気まぐれで買っただけの品である。惜しむほど愛着のあるものでもなく、また転売するほどの価値を感じている対象でもない。
「確かに気に入って買ったけどさ」
 どう言えば伝わるかと言葉の選択に悩みつつ、白澤はゆっくりと紡ぐ。
「物珍しさに惹かれただけだから、多分、そのうちに飽きて物置に放り込むのが関の山なんだよ。でも、お前なら、もっと大事にしてやれるだろ」
 それは口先だけではなく、本心だった。
 実際、極楽満月の倉庫には、それこそ数千年かけて積み上げたガラクタが文字通り山になっている。中には国宝級の芸術品、美術品も少なくないのだが、しかし、白澤がそれらを引っ張り出すことはあまりない。
 綺麗なものは好きだが、一通り愛でてしまえば飽きてしまうことが大半なのだ。かといって、気に入って買ったものをぽいぽいと捨てるのも躊躇われてしまい込む。その繰り返しなのである。
 だが、不思議なもので、そうしてしまい込んだ品が、時折ぴたりと本来の所有主を選んだかのように倉庫から出てゆくことがあった。
 思い付きで倉庫から出して店頭に置いていた品が、偶然やってきた客にあつらえたかのように似合うことがあるのだ。そんな巡り会わせとしか呼べない奇跡が起きた時、白澤は常に喜んでその品を譲り渡してきた。
 今も同じだと白澤は思う。改めて見てみれば、漆黒の外装といい金魚のモチーフといい、この万華鏡を所有する者として目の前の鬼神以上の存在は考えられない。
 これは間違いなく自分のもとに留まるべきものではなく、鬼灯のもとにこそ行くべきものだった。
「その万華鏡は、お前の手元にある方がきっと幸せだ。だから、細かいこと言ってないで持って帰れ」
 そう告げると。
 じっと白澤を見つめていた鬼灯の瞳に、考えるような色が滲む。
 その表情にまなざしを留めつつ、説得できただろうかと右手をぐっと握りしめた時。
 鬼灯の声が静かに響いた。
「そうまで言われるのなら……いただいてゆきます」
「――うん」
 ほっと安堵の吐息が零れかけるのを押し殺しながら、白澤は短くうなずいた。
 鬼灯の方は表情も変えず、懐から愛用の金魚柄の風呂敷を取り出して広げ、万華鏡に手を伸ばしかけて――止めた。
「最後にもう一度、御覧になりますか」
 日本地獄に持って行ってしまったら、白澤がこれを覗くことはもう滅多にないだろう。もしかしたら、今が最後になるかもしれない。
 珍しくこちらを思いやる言葉に、白澤は、僕は十分に堪能したから、という言葉を喉元で飲み込む。
「うん。貸してくれる?」
 手を差し伸べ、鬼灯が万華鏡を渡してくれるのを待つ。そして、金属とガラスでできた芸術品の重みを受け取った。
 美しい漆黒の筒を掲げ、光の方に向けて目にかざす。
 くるくると回せば、透明感のある輝きの中で金魚が泳ぐ。それはやはり、愛らしい光景だった。
 一通り回し終えて、白澤はゆっくりと万華鏡を下ろす。艶のある黒を軽く一撫でし、鬼灯に差し出した。
「――ありがとな」
 他に何と言えば良いのか分からず、礼を告げれば、鬼灯も他に言葉が浮かばないような調子で、いいえ、と応じた。
 万華鏡を受け取った鬼灯は、広げた風呂敷で丁寧に巻いて、両端を金棒の端にしっかりと結わえつける。
 一通りの作業を終えて、顔を上げた鬼灯の闇色の瞳がすっと白澤を見つめた。
「それでは、私はこれで。薬の件はよろしくお願いします」
「分かってる」
 日常生活ではちゃらんぽらんでも、薬作りだけはおろそかにしたことはない。白澤がうなずけば、鬼灯も短く会釈して店を出てゆく。
 戸口が閉まり、ガラスの向こうに闇色の後姿が消えて。
「は――」
 白澤は思わずぐったりとカウンターに伏しながら、椅子に腰を下ろした。
「なんか……すげぇ緊張した……」
 鬼灯との丁々発止のやり取りはいつものことだ。それが穏当なものではないことも。
 けれど――今日は何か、勝手が違った。
 こんな風に物をやったことがないからだろうか。
 付き合いそのものはもう随分と長いが、これまで二人の間で受け渡しがあったものは薬か呪具の類ばかりだった。今のようにプライベートな品物を白澤が鬼灯に譲ったことは一度もない。
 けれど、今日はどうしても渡したいと思ったのだ。
 鬼灯が白澤の持ち物にあれほど興味を示したのは初めてだったし、万華鏡を覗く様は、まるで子供のようだった。
「あんな横顔を見て、やらないなんて言えるかっての……」
 綺麗で愛らしい金魚の万華鏡。どうしても持たせてやりたいと思った。
 きっと大切にしてくれるだろう。多忙にまぎれて、たまにしか手に取ることはできなかったとしても、白澤のように倉庫にしまい込んでそれっきりということには、決してなるまい。
 それだけでも譲った甲斐はあるというものだった。
「けど、僕もなんでわざわざ金魚の万華鏡を買ったんだか……」
 実のところ、同じ作家の手による作品はあの店内に幾つもあり、中には桜花や雪の結晶をモチーフにしたものもあったのだ。
 いずれも金魚に負けず劣らず愛らしく、美しかった。甲乙選び難かったというのが正直な感想である。
 なのに、どうしてよりによって金魚を選んだのか。
 物珍しかったということは勿論、ある。万華鏡の中で金魚を泳がせようという発想が斬新だし、面白い。
 だが、果たしてそれだけだっただろうか。
 金魚のモチーフと花のモチーフ。比べたならば、普段の自分は花の方を採るのではないか。金魚を喜ぶ女性もいるだろうが、花の方がもっと女性受けはするだろう。店内に置くのなら、その方がずっといいに決まっている。
 そこまで考えて、白澤は唐突に、ここ数日、極楽満月を訪れた女性客にはこの万華鏡を触らせなかったことに気付いた。
 彼女たちがカウンターの隅の存在に気付かなかったということもある。だが、白澤もまた、「珍しいものを手に入れたんだよ」と彼女たちの前に万華鏡を差し出すことはしなかったのだ。
「――なんで?」
 そして今日、万華鏡は他の誰の手にも触れられることなく、日本地獄の鬼神のものになってしまった。
 そのことをどう捉えたら良いのだろう。
 真剣に考えかけて、しかし、白澤はその一歩手前で反射的に踏みとどまった。何となく、この件は深く追求しない方が良い気がしたのだ。
 佳い品物が収まるべきところに収まった。それで十分なのであり、それ以上の何が必要だろう。いや、どんな解も必要ではない。
 無理やりにそう思考を断ち切って自分を納得させ、白澤は上体を起こす。
 そして、鬼灯が出て行った戸口へとまなざしを向けた。
「―――…」
 長い付き合いではあるが、子供のように夢中になった鬼灯など初めて見たように思う。
 顔はいつもの鉄面皮のままだったが、ひどく喜んでいたのは伝わってきていた。風呂敷に包む時の手つきも、貴重な金丹を受け取った時よりも遥かに丁寧だったあたり、案外に分かりやすい奴でもある。
 きっと、日本地獄に帰ったら執務に戻る前に風呂敷を開いて、心を躍らせながらもう一度万華鏡を覗いてみるのだろう。
 それから今夜、執務が終わって自室に戻り、寝付く前にも、もう一度。
 その光景がありありと想像できて白澤は小さく笑う。
「ホント、金魚馬鹿な奴」
 金魚が可愛くないとは言わないが、あの魚類のどこにそんなに惹かれているのか。だが、聞いたら最後、白澤が金魚の素晴らしさを理解し、同意するまで滔々と語り続けるに違いない。
 君子危うきに近寄らず、と呟きながら白澤は伸びをする。
 そして、
「さて、働くか」
 受けたばかりの大量の注文をこなすべく、立ち上がって動き始めた。



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