Yesterdayを歌って 16
「いいよ。仕方ないから、許してあげる。俺が居ないと駄目だって言うんなら……ずっと傍に居るよ」
「臨也」
「でも、その代わり、優しくして。ピアノのこと好きなだけ考えてもいいから、その分、俺が傍に居ることを思い出した時は、うんと優しくして甘やかして。そう約束してくれるんなら、俺はずっとシズちゃんの傍に居てあげる」
「約束する」
静雄の答えは迷いなかった。
腕の力を緩められ、正面から目を合わされる。
「お前のこと、すげぇ大事にする。一生大事にするから、傍に居てくれ」
「一生って……」
「一生っつったら一生だ」
真剣に断言する静雄に、臨也は首をかしげる。
「……なんかそれ、プロポーズみたいだよ?」
「馬鹿! プロポーズしてんだよ!」
「は……」
きっぱり言い切られて、臨也は目を見開く。
だが、静雄の瞳は本気だった。
その瞳を呆然と見上げたまま、臨也の脳裏では、まだ二十一歳なんだけど、だの、同性婚は認められてないけど、だのという常識が明滅する。
しかし、同時に、そんなことは静雄も百も承知だということも、臨也には分かっていた。
そもそも彼は、ピアノ馬鹿ではあっても知能が低いわけではないのだ。新聞やニュースを媒体とした一般的な知識であれば、並以上によく知っている。
つまりこれは、全てを承知の上でのプロポーズなのだ。
「……一生、一緒に居るって簡単じゃないよ?」
「あぁ?」
「今の離婚率、知ってる? 神様の前で永遠を誓った夫婦だって、別れるのは珍しくないんだよ? 一生って、俺たちこれから後何年、生きると思ってるの? 男の平均寿命は七十九歳だよ?」
「たかが、あと五十八年じゃねぇか」
「はぁ? たかが、じゃないだろ! 君と俺と出会ってから、まだ六年しか経ってないんだよ!? あと何倍あると思ってんの!?」
「十倍近いのが何だっつーんだよ! この先何十年経ったって、お前より好きな奴なんか現れねぇよ!!」
怒鳴りつけるように断言されて、その勢いに気圧された臨也は目をまばたかせる。
「ったく、ごちゃごちゃ言いやがって……。一生お前のためにピアノ弾いてやるっつってるんだ。黙ってうなずきやがれ」
「……ちょっと、その言い方はないんじゃないの?」
気が長いとは言いがたい性格をしている彼のことだから、臨也が素直にうなずかないことに痺れを切らし始めているのだろう。
それが分からない臨也ではない。
だが、さすがにこの物言いには反応せずにはいられなかった。
「さっき、優しくしてって俺は言ったよね? なのに、早速そういう横暴なこと言うわけ?」
「──っ、でも、俺と俺のピアノがあればいいっつーったじゃねぇか!」
「言ったよ? 言ったけど、でも、うんと優しくして甘やかしてって付け加えただろ」
君だって大事にするって言ったくせに、と切り返せば、静雄はぐっと黙る。
そして、ひどく難しい表情をした後、ぼそりと口を開いた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「……そうだね」
臨也も売り言葉に買い言葉で応戦しただけで、深い考えがあったわけではない。
けれど、静雄が彼なりに自分に合わせようとしてくれていることは、素直に嬉しかったから、さほど焦らすことなく思いついたことを口にした。
「とりあえず、ピアノ弾いてよ。それ聴いてから、プロポーズの返事するから」
「──しょうがねぇな」
ねだれば、静雄は渋々といった表情で臨也から手を離す。
「俺に弾かせるだけ弾かせといて、嫌だとかぬかしたら承知しねぇからな」
「ははっ、どうだろうね」
笑いながら、臨也はピアノに向かう静雄の背中を見つめる。
プロポーズの答えなど最初から決まっていた。
大好きな相手に一生傍にいて欲しいと望まれて、嬉しくないはずがない。
ただ、臨也の性格上、素直にはうなずけなかっただけだ。
「おい、リクエストは?」
「んー」
問われて、考える。
思いついたのは。
「Love me tender」
「プレスリーかよ」
「いいじゃん。あと……、Yesterday、聴きたい」
弾いて、とねだれば、その曲にまつわる記憶を思い出したのだろう。肩越しにこちらを振り返っていた静雄の瞳が優しくなった。
「分かった」
そして、二人しかいない午後のジャズバーの店内に、なめらかに音が流れ始める。
───優しく愛して、ずっと愛して。
彼らしい破調で時折、力強い、それでいて情感に満ちた音で、どこか切なくピアノが歌う。
だが、『love me tender』は、さほど長い曲ではない。臨也を包み込むようなその音の世界に浸っているうち、最後の一音がやわらかく消えて。
「え……?」
続いて『Yesterday』が始まるかと思いきや、全く違うメロディーが流れ出して、臨也は目をまばたかせた。
「……好きにならずにいられない……?」
静雄のことだ。おそらくはプレスリー繋がりで思い付いたのだろう。
───流れる水が海に注ぐように、運命とはそうなってしまうもの。
───この手を取って、俺の人生をお前のものにしてくれ。
『好きにならずにいられない』の歌詞は、『Love me tender』以上に平易かつ短い詞だ。
それに託された呆れるほどに率直な想いが、ピアノの音と共に臨也の心に染み込んでくる。
静雄は、決して口が上手くない。その自覚があるからこそ、想いをピアノに託そうとしているのだろうと臨也は気付く。
だが、それは正しかった。
言葉よりも遥かに雄弁に、静雄のピアノは静雄の心を臨也に伝えてくる。
好きだと。
大切だと。
傍にいて欲しいと、ピアノが静雄の代わりに音の限りに歌っている。
(そっか。俺のために弾くって、こういうことなのか)
静雄の言っていた意味が初めて理解できて、臨也はぎゅっと胸元を押さえた。
静雄の奏でる一音一音。
メロディーの全てが、臨也へのメッセージだった。
言葉ではなく音で綴られたラブレターが、余すことなく臨也に届けられる。
臨也を優しく包み込み、満たしてゆく。
(じゃあ、今、シズちゃんは幸せ? 俺が傍に居て、俺のためにピアノ弾いて。シズちゃんは嬉しい? ちゃんと楽しい?)
背後からでは、静雄の表情は窺えない。
臨也は、ずっと座っていた椅子から立ち上がり、音を立てないようにそっと静雄の側方に回り込む。
すると。
ちょうど、『好きにならずにいられない』の最後の一音を弾き終えた静雄が、臨也が移動してきたのに気付いて目線をちらりと上げ、微笑んだ。
「次、Yesterdayな」
低く告げられた言葉に、臨也は、うん……、とうなずくことしかできなかった。
そのまま、ピアノを弾き続ける静雄の表情にただ見入る。
ジャズは弾き手の気分によって、まったく曲が変わる。だから、この『Yesterday』は、あの日、音楽準備室で聴いた『Yesterday』とは全くの別物だった。
そして、静雄の表情も。
あの日の静雄は、臨也の存在をまだ意識してはいなかった。だから、あの日の『Yesterday』は誰のためのものでもない、彼自身が好きで弾いただけの曲に過ぎなかった。
けれど、今は。
曲の持つ切なさややるせなさはそのままなのに、一音一音は限りなく温かい。
温かくて、包み込むように優しい。
そして、表情もまた。
穏やかに満ち足りて、幸せそうだった。少なくとも、臨也の目にはそう見えた。
臨也がじっと見つめていると、視線を感じ取ったのか、ピアノを弾きながら静雄がちらりとまなざしを向けてくる。
その鳶色の瞳が、ふっと笑むのを見た瞬間。
臨也の中で、何かが弾け飛んだ。
───ああ、昨日までは全てが輝いていたのに。
そんな切ない余韻を長く残して、最後の和音が大気に溶け消える。
そして、鍵盤から手を下ろした静雄がこちらを見るのと同時に。
臨也は躊躇いなく、その胸の中に飛び込んだ。
「うおっ…、臨也……!?」
力任せにしがみつく臨也を、静雄は驚きつつも受け止める。
「シズちゃん」
「お、おう」
「これからも、こんな風に俺のために弾いて。時々でもいいから。そうしたら、俺はずっとシズちゃんと一緒に居てあげる」
「──それって……」
臨也が何を言いたいのか理解したのだろう。
声に驚きを込めて、静雄は臨也の肩を掴んで引き離し、顔を覗き込む。
「OK、ってことだよな?」
期待に染まりつつも、どこか請うような不安を残した真剣なまなざしに、臨也は小さく笑んだ。
「シズちゃんが約束してくれるならね」
「する! するに決まってんだろ!!」
勢い込んで叫んだ静雄は、そのままの勢いで臨也を抱き締めて歓喜の声を上げた。
「すげぇ大事にする! お前が弾いてくれって言ったら、幾らでも弾いてやるよ。一生ずっとだ」
「うん……、うん」
大事にしてあげるから、大事にしてね。そんな想いを込めて、臨也も何度もうなずく。
そして、二人は少しだけ抱き締める腕を緩め、互いの目を見つめた。
それぞれの瞳には互いの姿しか映っていない。そのことに微笑んで、ゆっくりと唇を重ねる。
初めての深いキスは、ただひたすらに甘くて。
やっと手の届いた幸せを、臨也は目を閉じたまま深く噛み締めた。
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