Yesterdayを歌って 17
「シズちゃん、コーヒー入ったよ」
曲の合間を見計らって、臨也はピアノの前の静雄に声を掛ける。
「なに弾いてたの?」
「all the things you are。邦題は『君こそ我が全て』。歌詞だと、この後にmineが付くんだよ」
「へえ」
また甘ったるそうな雰囲気のタイトルと詞だな、と臨也は思いながら、カフェオレの入ったマグカップを静雄に渡した。
そして、自分のブラックコーヒーを啜りながら、静雄の背中にとんと寄りかかって体重を預ける。
「何だよ?」
「何にも」
今日も朝から静雄がピアノばかり構っているから、少し邪魔をしてやろうと思っただけだ。
一緒に暮らし始める前から見当の付いていたことではあるが、静雄は起きている時間の大半をピアノ相手に過ごし、合間に少し本を読んだり、ぼーっとしたりするのがせいぜいという生活をしているため、どうしても臨也が強引に存在を割り込ませなければならないのである。
だが、臨也がこうして『構え』と意思表示した時は決して邪険に扱わないし、彼なりに精一杯に甘やかそうともしてくれる。
それが分かっているから、臨也も面白くないと感じることはあっても、腹が立つところまで行くことはない。
それよりもむしろ、あの手この手で静雄の気を引くのを楽しんでいるというのが最近の実情だった。
昨日は焼きプリンで面白いように釣れたから、近いうちに今度はホットケーキでも焼こうか、と考えていると、「おい」と呼ばれる。
「何?」
「リク、ねぇの?」
「あー、そうだねえ」
朝から晩までピアノを聴いているのに、リクエストもへったくれもないというのが正直なところだったが、ともかく臨也は考えてみる。
「……サイモン&ガーファンクルの気分かなぁ」
「──お前の好みって、結構渋いよな」
「その方がいいだろ。邦楽ヒットチャートの上位占めてるような曲を弾けって言って欲しい?」
「いいや。俺としては助かる。オールディズから七十年代くらいまでだと、ジャズにアレンジしやすい曲が多いしよ」
「だろ?」
「じゃあ、ちょっとだけ離れとけ」
「うん」
さすがに臨也に寄りかかられたままでは弾けないという静雄に、臨也は素直にうなずいて、ピアノ横のフローリングに置いた巨大なビーズクッションに腰を下ろす。
すると、静雄は少し考えた後、臨也を見下ろした。
「Mrs.RobinsonとThe Boxerでいいか?」
「いいよ。ついでに冬の散歩道もつけて」
「おう」
うなずいた静雄は、そのままピアノに向き直り、鍵盤に指を走らせ始める。
三曲のいずれも、ややスピード感のある展開を持つだけに静雄としては弾きやすいのだろう。サイモン&ガーファンクルのメロディーが持つ叙情性は残しながらも、小気味よくビートを刻んでゆく。
どの曲もラブソングではない。だが、臨也のために弾かれるそれらは、どれもこれもただ心地良かった。
静雄の紡ぎ出す音の世界に浸りながら、開け放たれた窓から入ってくる爽やかな風を感じて、臨也は目を閉じる。
新生活を始めるに当たって二人が新居として選んだのは、静雄の働くジャズバーもある駅前商店街の店舗に挟まれた小さな空き家だった。
築年数が古い上に手狭だが、周囲が賑やかなだけに、昼間であれば好きなだけピアノを弾いても苦情がくることは無い。
臨也としては防音完備のマンションを借りて、家賃分は株かFXで荒稼ぎすることも考えたのだが、静雄が分不相応な住まいは嫌だと反対したためにこうなったのである。
だが、いざ暮らし始めてみれば食料品や日用品は近所で全て間に合う上に、駅も静雄の職場も至近距離で、色々な意味で便利な物件だったから、今は臨也もこの借家暮らしを気に入っていた。
ほどなく、鋭く力強いタッチで『冬の散歩道』を弾き切った静雄は、なあ、と臨也を呼ぶ。
「今度の休み、どっか行くか?」
「デート?」
「おう。たまには出かけねぇとよ、こうしてピアノ弾いてるばっかになっちまうし……どっか行きたいとこ、考えとけよ。お前の行きたいとこ、付き合うからよ」
「……うん」
一緒に暮らし始めてから時々、静雄はこういうことを言う。
プロポーズの時の約束を律儀に守ってくれているのが嬉しくて、臨也はそっと口元に笑みを刻み込んだ。
「ねえ、シズちゃん」
「ん?」
「もう一曲、リクエスト」
「おう」
「stand by me、弾いて」
有名過ぎるスタンダードナンバーをリクエストすると、静雄は一つ目をまばたかせてから、笑顔でうなずいた。
「いいぜ」
そしてまた流れ出すピアノの音に、臨也は目を閉じて耳を傾ける。
傍に居て、と彼流のアレンジで想いの丈を込めて何度も力強く繰り返されるフレーズが、ただ愛しくて。
「シズちゃん」
「ん?」
「好き」
自由自在に紡がれる間奏の合間に告げれば、臨也の性格を知り尽くしている静雄は、嬉しさよりも面白さが勝る表情で笑った。
「俺とピアノと曲の、どれがだよ?」
「んー。何て言って欲しい?」
「聞くあたりで嫁失格だろ」
「誰が嫁だよ」
「お前以外の誰がいるんだよ。つか、お前以外いらねぇよ」
軽やかにピアノを弾きながら、さらりと言われて、臨也は思わず言葉に詰まる。
時々こういうことを言うのが、この男の厄介なところだった。
「シズちゃんて時々、すごく性質が悪いよね……」
「あ?」
「もういいよ。全部です。そういうことにしといてあげる」
溜息交じりにそう宣言すれば、静雄は小さく吹き出した。
「じゃあ、俺も、お前もピアノもこの曲も、全部好きだってことにしといてやるよ」
そう言い、静雄はstand by meのフレーズをもう一度、この上なく甘く、そして力強く繰り返す。
その愛おしい音に、シズちゃんの馬ー鹿、おたんこなす、と呟きながら、デートの行き先はどこにしようかな、と臨也は二人で過ごす休日に思いを馳せた。
End.
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