Yesterdayを歌って 14
「臨也」
ひどく戸惑っているような、悔いているような声で、静雄は臨也の名前を呼ぶ。
そして、温かな指がそっと頬に触れて、後から後から零れ落ちる涙をおずおずと払った。
「ごめんな。ごめん……臨也」
どうすればいいのか分からないというように躊躇いながら詫び、涙を拭う。
だが、その優しさを臨也はむずかるような仕草で、泣きながら拒否した。
「やだ……触んないでよ」
「臨也」
「嫌い。シズちゃんなんか大嫌い……!」
臨也の言い分を多少のところは理解したかもしれない。
だが、それで静雄の本質が変わるわけではないのだ。彼自身、どうすれば良いのかは分からないだろう。
それなのに謝られても、臨也の気が収まるわけが無かった。
なのに。
「大嫌い、か。お前は昔っから、それしか言わねぇよな」
ぽつりと静雄が呟くから、臨也の涙は更に止まらなくなる。
「俺は……どうすりゃいい? どうすれば、お前が一番大事だって伝わる?」
途方に暮れた声に、嫌々をするように臨也は首を横に振った。
そんなことは知らないし、信じられない。
信じられるようになる方法があれば、それこそ知りたかった。
静雄を丸ごと信じられたら、どんなに楽になれるだろう。
どんなに幸せになれるだろう。
だが、今のままでは、それは見果てぬ夢だった。
「クソッ」
小さく吐き捨てて、静雄は臨也を乱暴に胸に抱きこむ。
こんな時なのに、変わらず静雄の腕の中は温かく、ほのかな煙草の残り香が臨也の胸に染みて。
「好きだ。すげぇ好きだ。高校の時からずっと好きだ。見せられるもんなら、俺の心ン中を手前に見せてやりてぇよ」
「──だったら、」
そんなことを言うのなら、と臨也は思う。
「だったら、どうして三年前、何も言ってくれなかったんだよ。どうして何にも言わないで、あんな……っ」
三年前のあの日。
たった一本の電話で、別れを告げられた。
共には行けないと言われた。
自分はずっと待っていたのに。
あの試験会場で、静雄が来てくれるのをずっと待っていたのに。
電話しても電話しても繋がらなかった。そのことが、どれ程不安と恐怖を煽ったか。
静雄は、何も知らない。
知ろうとすら、しなかった。
意味のない願掛けをして、ただ臨也を待っていたばかりで。
会いに来ることすら、してくれなかった。
「シズちゃん、ずるい。本当にずるい……! 肝心なことは何にも教えてくれないくせに、それじゃどうやって俺はシズちゃんを信じればいいんだよ……!?」
「臨也……」
「このまま俺は、シズちゃんは俺を好きなはずだって、ずっと自分に言い聞かせ続けてなきゃいけないわけ!? そうやってシズちゃんの傍にいるしかないの!? そんな形でしか俺はシズちゃんと一緒に居られないのかよ……!?」
「俺だって怖かったんだよ!!」
責め立てる臨也の言葉に、耐え兼ねたように静雄が叫んだ。
「あのまま一緒に居たら、どうやっても俺は、お前を傷付けちまうと思った。自分がピアノしか選べねぇロクデナシだってことは、あの頃にはもう分かってたんだよ!」
「シ、ズちゃ……」
臨也を抱き締めていた静雄の両手が臨也の両肩を掴み、ぐいと自分から引き離す。
途端、二人の間にできた空間に大気が入り込んできて、臨也から静雄の温もりを奪った。
「シズちゃん」
顔を背けた静雄は、ひどく辛そうな表情をしていた。
苦しくて苦しくてたまらないと訴えかけるような表情に、もしかしたら、と臨也は思う。
もしかしたら、あの日の電話の向こうでも彼はこんな顔をしていたのだろうか。
だとしたら。
本当に馬鹿だと思った。
こんな顔をして別れを告げて、好きだった相手を泣かせて、挙句、後悔して。
その過程で彼が得たものは、果たしてあったのだろうか。
あったのならいい。だが、無かったのだとしたら、静雄は本物の馬鹿だった。
「高校の頃、お前にもよく言われたよな、ピアノ馬鹿だって。でも、その通りだ。あんな進学校に通ってたのに、俺は自分の進路に全然興味が持てなかった。大学行って、就職してサラリーマンになって? 親を安心させるにはそれが一番いいんだって分かってたけど、心の底では、そんなのは俺じゃねえと思ってた」
苦々しく語る静雄に、知ってた、と臨也は心の中で呟く。
知っていた。けれど、それでも一緒に大学に行く夢を見ずにはいられなかったのだ。
静雄の言う通り、二人の通っていた高校は進学校だったから。それが自然だった。
「それなのに無理して大学行けば、きっと俺は駄目になっちまうと思った。俺はこういう性格だから、こんなのは自分のやりたいことじゃねえ、そう思っちまったら最後、きっと我慢できなくなる。毎日苛々して周りの連中に……お前にも当たり散らすようになるんじゃねぇかって思った」
「……だから、その前に離れようと思ったの?」
「ああ」
うなずき、静雄はやっと臨也へまなざしを向ける。
鳶色の瞳は、初めて見るひどく傷ついた色をしていた。
散々に苦しんで疲弊したその色は。
臨也が鏡の前に立った時に見る瞳の色に、とても良く似ていた。
「いつでも苛々して、不機嫌で、頭ん中はピアノのことばっかで……。そんな俺はお前だって嫌だろ? そんな形でお前を傷付けるくらいなら、その前に離れた方がいいと思ったんだよ」
「……そんな風に考えてたんなら、どうしてそれをきちんと話してくれなかったんだよ。きちんと言ってくれたら、俺だって考えたよ? そりゃ最初は怒ったかもしれない。でも、シズちゃんが真剣に言ってるのが分かったら、俺はちゃんと考えたはずだよ」
そう告げると、静雄のまなざしが惑った。
そこに困惑でなく躊躇いを見て取った臨也は、シズちゃん、と少しきつい声で名前を呼ぶ。
「きちんと話してよ。話してくれなきゃ、俺だってシズちゃんのこと分かんないんだよ!」
「───…」
言いつのれば、止むを得ないとばかりに静雄は小さく溜息をついて。
ゆっくりと口を開く。
「……俺だって、お前と一緒に居たかったんだよ。このまま大学に行けば、また四年、お前と一緒に居られる。そう思ったら、なかなかピアノを選ぶ決心がつかなかったんだよ」
まなざしを背け、苦く打ち明けられた告白に。
臨也は目をみはった。
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