Yesterdayを歌って 13

「シズちゃんの中で、俺がピアノより大事なんて有り得ない」
「はあ!? なんで有り得ねぇんだよ!?」
 臨也の返しに、静雄はまなじりを吊り上げる。
「俺の感情を、なんで手前が断言すんだよ! 何にも分かってねぇくせに……!!」
「分かってないって……何をだよ!」
 静雄の激昂に触発されて、臨也の感情も瞬く間に氷点下から沸点まで駆け上がる。
 元より不安定な状態だっただけに、その変化は自分でも止めようがないほどに急激だった。
「君の何を、これ以上分かれって言うわけ!? 俺はこれ以上、何を分かればいいわけ!?」

 ───初対面の時は、能力を鼻に掛けた嫌な奴だと思った。
 けれど、それは本当は間違いだった。
 次に、ピアノが三度の飯より好きなのだと知った。
 そして、ピアノさえあれば、折原臨也という存在など無くとも生きてゆけることを知らされた。
 それでも、傍にいて欲しいと言うから。
 そして自分も、ずっと傍にいたかったから。
 静雄にとっての一番がピアノでも仕方が無いのだと、ずっと自分に言い聞かせてきたのに。
 そういう静雄が好きなのだからと、ずっと諦めていたのに。

「シズちゃんはピアノが大事なんだから、それでいいだろ! そりゃ時々辛くなることがないって言ったら嘘になる。でも、ピアノを弾いてないシズちゃんなんてシズちゃんじゃないんだから、俺はそれでいいんだよ!」
「はぁ!? なんだそりゃあ……!!」
「優しい嘘をつかれても嬉しくないって言ってるんだよ! 俺をどれだけ惨(みじ)めな気分にさせたら気が済むの……!?」
 ───そう、惨めだった。
 愛されているわけでもないのに、愛していると言われる。静雄の言葉はそれに等しかった。
 静雄の中で、折原臨也の存在がピアノと同等以上であるはずが無い。もしそうであるのなら、どうしてこんなに苦しむことがあるだろう。
 もし百歩譲って静雄の言い分を認めるとしても、到底そうとは感じられなかったというのが臨也にとっての現実だった。
 あの日から今日まで、静雄にピアノ以上に大切にされていると感じたことは一瞬たりとも無い。
 大切にしようと努力してくれていることまでは、さすがに否定しないし疑いもしない。
 だが、努力しなければならない時点で、既に及第点には遠く及ばないことを静雄は分かっていない。
 それが生来の芸術家である静雄と、普通の人間でしかない臨也の決定的な差であり、越えることのできない溝なのだ。
 それを理解しない限り、静雄もまた、臨也の言い分を理解することはできない。臨也が、静雄の言い分を理解できないのと同じように。
「シズちゃん。シズちゃんの感覚と俺の感覚は違う。どうしようもないくらい、違うんだよ。俺は、シズちゃんが俺を大事にしようとしてくれてることは分かってる。でも、シズちゃんの小さな仕草を変換しなきゃならない部分が、どうしてもあるんだよ」
 どう言えば伝わるのか。
 必死に言葉を選びながら、臨也は告げる。
「変換って……何をだよ」
「端から見たらつまらない、ささやかなことばっかりだよ。たとえば今日だったら、映画を一緒に行こうかって言ったのを断らなかったのは、シズちゃんも俺と一緒に居たいと思ってくれたからなんだろうとか、手を繋いだのは、恥ずかしい思いをしても俺がそこにいることを感じていたいからで、それはつまり好きってことなんだろうとか」
「……分かってるじゃねぇか」
「分かってるよ。分かってるって言っただろ。でも、どうして俺が一々そんなことを思わなきゃいけないか、シズちゃんは分かる? 分からないだろ?」
 大事な話だった。
 だから、こんな時に泣きたくなかったのに、堪え切れない涙が零れ落ちる。零れ落ちてしまう。
 卑怯な涙だと自分でも思った。
 涙の相手をするのが得意な男などいない。静雄だって例外ではない。
 なのに、どうしても堪えることができなかった。
「シズちゃんにとって、俺がピアノより大事だとは思えないからだよ」
 告げた途端、静雄の顔色が変わる。
 それは怒りというよりも衝撃の色だった。
 そんな静雄を見つめながら、臨也は言葉を紡ぐ。
 一言告げる毎に零れる涙が、どうしようもなく厭わしかった。
「思えないから、俺はいつも自分に言い聞かせなきゃいけない。シズちゃんはちゃんと俺を好きなんだって。俺を大事にしようとしてくれてるんだって、いつもいつも自分に言い聞かせてる。──その意味が分かる?」
「意味、って……」

「足りないんだよ、全然」

 告げる声には、恨みが籠もってしまったかもしれない。
 傷付けたいわけではない。だが、少しでもいいから痛みを感じて欲しいと思う心を抑えることはできなかった。
 ずっと辛かったのだ。
 ずっとずっと辛くて、苦しくて。
 傍にいても、ほんの一滴の水を必死にかき集めるばかりの日々に、飢えて干からびてしまいそうだった。
 好きだというのなら、満たして欲しかった。
 一滴の雨粒ではなく、溢れんばかりの海が欲しかった。
「足りない。全然足りないよ、シズちゃん……!」
 右手の拳を振り上げて、どんと静雄の胸を一回打つ。
 もう一度。
 だが、静雄は避けもせず、臨也の拳をただ受け止めた。



NEXT >>
<< PREV
<< BACK