Yesterdayを歌って 12

「何、って……」
 唐突な問いを突きつけられた静雄は、本気で戸惑っているように臨也の目には見えた。
 涙を零しつつも、臨也は決して感情を昂ぶらせているわけではなかった。むしろ、精神的には疲れて果てていたという方が正しいだろう。
 そのせいか、頭の中の一部はひどく冷静で、静雄の表情も実に良く見えた。
 問われた意味が分からず、答えようにも言葉が見つからないという風情で、静雄は臨也を見下ろしている。
 内心の困惑を示すように、指の長い大きな手が所在無く握られたり開かれたりするのを、臨也は見るともなしに見つめ、問いを繰り返した。
「恋人だとか大事だとか、そういう答えが聞きたいわけじゃないよ。そんな記号じゃなくて、シズちゃんの中で俺はどういう位置にいるのか、それが分からないだけ。シズちゃんにとって俺は何? どういう存在?」
「どういう位置って……」
 ますます分からないと言いたげな静雄に、分からないだろうな、と臨也は心の中で一人ごちる。
 静雄には決して分からないだろう。
 これまで素振りすら見せたことはないのだ。そんなことに臨也がずっと苦しんでいることですら、気付いているはずがない。
 そうと分かっているのに、「何でもないよ」とこの場をごまかしてしまうには、もう疲れすぎており、臨也の口は止まらなかった。
「シズちゃんがシズちゃんなりに俺を大事にしてくれてることは、俺だって分かってる。そんなことも感じ取れないくらい馬鹿でも鈍くもないからね。でも……」
 どう言ったものかと、臨也は少しだけ躊躇う。
 静雄を責めたい気持ちは、確かに自分の中にある。
 けれど、傷付けたいわけではなかった。
 ただ、分かって欲しいだけだ。だが、どんな言葉を使えば、傷付けることなく正しく思いを伝えることができるだろう。
 どう言っても傷付けてしまいそうで、続きを口に出すことを、少しだけ躊躇わずにはいられなかった。
「シズちゃんはピアノなしじゃ生きられないだろ?」
 そう告げた途端、静雄の顔色が変わる。
 それはおそらく、静雄の罪悪感と後ろめたさから来る反射的な怒りで、その反応を引き出してしまったことを臨也はひどく哀しいと思う。
 その一方で、静雄の反応は自分を大切に思っていてくれるからこそのものだとも理解していたから、かすかに嬉しいと思うことも抑え切れなかった。
「臨也……」
「責めてるわけじゃないよ。ピアノが無かったら、俺は今、こうしてここには居ないし、ピアノを失くしたらシズちゃんじゃない。それは分かってる。どうしようもないことだって分かってる。けど……」
 今度こそ本気で臨也は躊躇う。
 だが、今度は静雄が待たなかった。
「けど? 何だよ。言えよ」
「…………」
「言えよ、臨也。言ってくれなきゃ、俺は分かんねーんだよ。知ってるだろ、ンなことはよ」
 苛立ったような静雄の言葉を聞きながら、知っている、と臨也は思う。
 ピアノ以外のことについてはとんと気が回らない静雄の性格を知っているからこそ、言わなかったことは沢山ある。昔も、今も。
 そうやってやり過ごしながらでも静雄の傍に居ることはできたから、意地とプライドを盾にして、敢えて言わずにきたことがどれほどあるだろうか。
 良いことも悪いことも押し隠して、どうでもいい皮肉やからかいばかりを口にしていた。そのツケが積もり積もった結果が、今だ。
 ツケは、いつか支払わなければならない。
 その支払いの時が来ているのだろうかと、今更ながらに臨也は自問する。
 答えは。
 是、だった。
「……シズちゃんがピアノを大事なのは知ってる。昔から分かってる。それでいいんだ、それで。……でも、」
 己を叱咤して、ともすれば、かすれてしまいそうな声を絞り出す。


「そのピアノに比べたら、俺はどうなんだろうって思うと……時々、たまらなくなる」


 静雄の目を見て言う勇気はなかった。
 だが、それでも静雄が目を見開くのが見えるようだった。
 臨也といてもピアノに思いを馳せてしまうことを済まないと思っているのに、それを取り沙汰されるのは辛いことだろうし、衝撃でもあるだろう。
 そうと分かっていても口にしなければならない現状を、それを作り出してしまった自分を、臨也は心の中で呪った。
「シズちゃんはピアノを失くしたら生きていけないだろ? でも、俺のことは……俺が、居なくなっても、」
「平気なわけねぇだろ!!」
 生きていけるだろう、と続けるのが辛くて口調がゆっくりになるのに被せるように、静雄が叫ぶ。

「言っただろうが! お前が居ないとピアノ弾いてても楽しくねぇんだよ!! それだけでどっちが大事か分かるだろうが!!」

 勢いよく両二の腕を掴まれて、思わず臨也は静雄を見上げる。
 静雄の目も表情も恐ろしいほどに真剣で、そして怒りとも哀しみともつかない感情が渦を巻いていた。
 けれど。
「それは……嘘だ」
 対照的に、臨也の感情は急速に凍り付き、渇いてゆく。
 からからに干からびた声とまなざしで、臨也は静雄を見つめた。



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