Yesterdayを歌って 11

「一体、何なわけ? 気でも違ったの、シズちゃん? いきなり人をこんなとこに引っ張りこんで、訳の分かんないことするわ、言うわ……」
「だから、決めてたっつっただろ。すげえ後悔したんだよ、あの後」
「はあ? 後悔って……」
「もう嫌なんだよ、後悔すんのは。だから、離さねえ」
 聞けば聞くほど、訳が分からなかった。
 会話を得意としない静雄が言葉足らずなのは昔からのことだが、どうやら三年弱の時を経て、それに拍車がかかったらしい。
 異星人と会話しているような言葉の通じなさに更なる苛立ちを募らせながら、臨也は険悪に目を眇める。
「勝手すぎるだろ、そんなの。大体、何を後悔したっていうんだよ。おまけに俺の意志は完全無視なわけ?」
 厳しい声で問えば、静雄は何とも言えない表情で臨也を見下ろした。
 その鳶色に瞳に映っている感情が何であるのか、臨也には分からなかった。
 後悔? 切望?
 あるいは、ままならない渇き、だろうか。
 そして紡がれた言葉は、やはり理不尽なものだった。
「――無視って訳じゃねえ。でも、お前が逃げようとしたら無視するかもな」
「なんで!」
「お前が居ないと、ピアノ弾いてても、つまんねぇんだよ」
 初めて静雄の声に苦いものが混じった。
「は…あ……?」
 だが、声以上にその言葉の意味を捉えかねて、臨也は呆然と静雄を見上げる。
 そんな臨也の様子をどこまで理解しているのか、静雄は苦い声のまま、告白を続けた。
「ずっとピアノだけ弾いていられればいいと思ってた。お前と会うまでの俺は、本当にそうだった。ピアノさえありゃ良かったんだ。でも高校の三年間で変わっちまったんだよ。お前が聴いててくれねぇと、どれだけ好き勝手弾いても楽しくねえ」
 痛みを堪えるような表情をかすかに覗かせて言い切った静雄が、ゆっくりと右手を上げる。
 そして、ぎこちない手つきで臨也のこめかみの辺りの髪を、そっと梳いた。
「好きだ、臨也。気付くのが遅かったのは分かってる。でも、遅過ぎたとは言わないでくれ」
「……何、それ……」
 高校時代、ずっと見つめていた、指先の丸い、長い指。
 この指が信じられないくらい器用に動いて、美しい音を作り出すことを知っている。
 この指が温かいことも知っている。
 そして、こんなにも優しく人に触れることも、今、教えられて。
「言うに……決まってんだろ。つまんないって……、願掛けって何だよ。そんなの、気付いた時点で土下座しに来いよ……!」
 引き攣れるように、喉の奥と目の奥が熱く、痛くなる。
「臨也」
「遅過ぎるよ! 俺が許すわけないだろ……っ」
 とうとう堪えきれない涙が零れ、頬を伝って板張りの床に滴り落ちる。
 嬉しいとは思えなかった。むしろ、悔しさや怒りの方が遥かに勝った。
「シズちゃん、勝手過ぎる……!!」
 胸を焼く激情にたまらずにうつむけば、髪を梳いていた温かな優しい指も追いかけてきて。
「悪かった、臨也」
 躊躇いがちに髪を梳き撫でながらの短い、だが、精一杯の想いの込められた謝罪に、もうそれ以上は声にすることもできず、臨也はただ嗚咽を殺して泣き崩れた。
 その様子をどう見たのか、静雄の腕が再び背に回り、強く抱き締めてきて。
「ごめんな。──好きだ。本当は、あの頃からずっと好きだった」
 そう耳元で囁かれて、知らない、と臨也はかぶりを振った。
「俺は、嫌い…っ、シズちゃんなんか、大嫌い……!」
「ああ」
 それでもいい、という静雄の声は、ひどく優しかった。
「傍に居てくれ。もう絶対に手を離したりしねぇから」
 そんなの知らない、嫌だ、と言おうとしたのに、何故か声にはならず。
 静雄の温かな腕の中で、臨也は、ただ泣き続けた。




(でも結局、全部うやむやのまんまだよね……)
 再会の時のことを思い返しながら、臨也はピアノに向かっている静雄を見つめる。
 好きだと言われて謝られもしたが、肝心なこと──何を思ってあの日、受験会場に来なかったのか、そして、どうして臨也に何も言わなかったのかということについての説明は、まだ一言も受けてはいない。
 それに対抗するかのように、臨也もまた、好きだという一言を、これまで一度も口にしたことはなかった。
 大げさかもしれないが、その一言は、自分の心の一部を明け渡すのと同義であるような気がするのだ。おいそれと口に出せるものではない。
 かといって、絶対に言わないと決めているわけではなかった。それどころか時折、衝動的に告げてしまいたくなる瞬間もないわけではない。
 だが、今はまだ言えない、と臨也は思う。
(まあ、言うとしたらシズちゃんが全部白状して、それに俺が納得できたら、かな)
 強情だと言われても仕方がないが、少なくとも自分から全面降伏するような真似は嫌なのだ。
 加えて、今の状況では、やはり静雄を信じ切ることは難しい、というのが臨也の正直な心情だった。
 臨也が居なければピアノを弾いてもつまらないと言われたが、それでも静雄の中におけるピアノのウェイトは重過ぎるのである。比べたら、臨也の存在など、静雄が大切にしているCD一枚程度の重さも、あるかどうか知れたものではない。
 一応は恋人という立場である以上、そこまでは軽くないと信じたいが、もし本当にそうであれば、業腹すぎて到底、素直な気持ちなど口にできるはずもなかった。
(シズちゃんにしてみれば、俺の告白自体、どうでもいいのかもしれないけどさ……)
 言葉では何も言っていないとはいえ、再会の夜、抱き締められても碌に抵抗しなかったのは事実だ。その後、キスをされても大人しく目を閉じたのだから、臨也の気持ちそのものは、とっくに静雄に伝わってしまっていると見ていいだろう。
 それどころか、ピアノ馬鹿な静雄の単細胞さを考えたら、もうそれだけで、臨也は自分のものだと安心してしまっている可能性も低くはない。
 そう考えると、つくづく悔しいと思わざるを得なかった。
 静雄は、おそらく臨也が居なくなっても、ピアノさえあれば生きてゆけるだろう。
 それこそ、臨也が傍に居ない間も、ピアノは弾いていたのと同じ事だ。最初のうちこそはつまらないと感じていても、そのうちにきっと慣れて一人が平気になる。
 或いは、この先、臨也に対して思った以上に、聴いて欲しいと思う人と出会うかもしれない。
 つまりは、静雄が臨也に対して抱いている気持ちは、その程度のもの──水があれば流れていってしまう浮き草程度の感情なのだ。
 静雄は静雄なりに臨也を大切にしようとしてくれているが、どうやっても臨也はピアノ以上の存在にはなれない。
 改めて考えれば、本当にひどい話だった。
 なのに。
(好きだなんて……本当に馬鹿みたいだ)
 言葉にすることなく呟けば、胸の奥がずきりと痛む。
(ねえシズちゃん。俺は、ものすごく欲張りなんだよ)
 ずっと傍に居たかった。
 ずっと彼のピアノを聴いていたかった。
 だが、それだけでは足りないのだ。
 ―――愛して欲しい。
 誰よりも何よりも好きだと、大切だと言って欲しい。
 自分が想う以上に想って欲しい。
 そんな感情は、ただの我儘だと分かっている。たとえ両想いであっても、感情は個々のものであって、同等に釣り合うものではないし、天秤に載せて測れるものでもない。
 けれど、それでも。
 ただ好きだと言うのではなく。
 ただ抱き締めて、キスをするのではなく。
 もっと全身全霊で、自分と同じくらいに。
 彼がとてもとても大切にしているピアノと同じくらいに。
 それ以上に。



 愛して、くれたら。



「――臨也……!?」
 何曲目かの曲を弾き終えて振り返った静雄が、驚いたように目を瞠る。
 そして、慌てたように立ち上がり、臨也の元へと歩み寄った。
「どうした?」
 気遣わしげにうろたえた静雄の表情と、頬を伝う熱いとも冷たいともつかない感触に、ああ、いま自分は泣いているのだと、臨也は他人事のように思う。
 どうして泣いているのかは、自分でもよく分からなかった。
 もしかしたら、あの三年前の初春の日以来、積み重なった感情が胸の内で飽和して、とうとう制御が利かなくなってしまったのかもしれない。
 その証拠に、
「ねえ、シズちゃん」
 自然に唇が動き、決して表に出すつもりの無かった言葉が滑り出す。

「俺って、シズちゃんの何?」

 問いかけた途端、静雄はひどく驚いた顔になる。
 涙を拭うことも思いつけないまま、臨也は、ただその顔を真っ直ぐに見つめた。



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