Yesterdayを歌って 10

 六曲ばかり立て続けに演奏された曲目の最後の一音が消えるか消えないかのうちに、わっと拍手が上がる。
 無論、コンサートホールではないのだから、満場の拍手と言ってもささやかなものだった。だが、店中に響くその温かな音が、彼の音楽がこの店に集う人々に愛されていることを如実に臨也に教えて。
 ───シズちゃん。
 温かな拍手に、人々の笑顔に、少しばかり照れながら、ぎこちなくお辞儀をする静雄の姿が目に見えるようで、臨也は一気に自分の体が冷えてゆくのを感じた。
 ───こんな風に沢山の人に愛されて。
 ピアノを愛して。
 彼は、ここで生きている。
 臨也には全く関係のない、縁のない世界で。
 臨也のいない世界で。
 そうすることを三年近く前、彼は選んだ。
 三年間重なっていた二人の道を違えることを。
 臨也から遠く離れてしまうことを。
 こうして目の当たりにしてみれば、確かに、これは臨也には与えられない世界だった。
 元より音楽には興味などない。彼のピアノの凄さも分からない。
 あの頃も、受験生のくせにそんなにピアノばかりに夢中になってどうするの、馬鹿じゃないのと、揶揄半分に常々そう高言していた。
 彼のピアノが好きでも素直にそうとは言えず、その価値も、ピアノと共に生きたいという彼の願望も、かけらも理解できていなかった。
 そんな自分に、どうして進路を違えることへの弁明の言葉が与えられるだろう。
 ましてや、共に来て欲しいと望まれるはずもない。そんなことを期待する方がおかしい。
「そっか……、そうだよね……」
 最初から二人は違う世界の人間だったのだ、と今になって、初めて臨也は悟る。
 同じ高校に在籍していようと、学年首位を争っていようと、静雄は最初から臨也とは同じ次元にいなかった。
 彼は彼の音楽の世界に生きていて、高校時代の臨也は、その世界の一端を垣間見せてもらっただけだった。
 あの頃強く感じていた、彼のことを誰よりも理解し、誰よりも傍にいるという自負も、ただの錯覚──少年時代にありがちな単なる思い上がりに過ぎなかったのだ。
 静雄は確かに臨也を大切には思っていたかもしれない。だが、必要とはしていなかった。
 少なくとも、ピアノに対する想いを理解しない人間など、傍に置いておく必要などなかったのだ。
「今更分かるなんて……」
 何と愚かだったのだろうと、溢れ出す悲嘆と絶望を押し殺して、臨也は唇を噛み締める。
「……でも。それでも、さ」
 俺は君が好きだったし、君のピアノだって好きだったんだよ、と呟く傍から、こらえ切れなかった涙が零れ落ちる。
 理解できなくても、求められなくても。
 素直になどなれなくても。
 裏切られても。
 それでも好きだった。
 どうしようもない、初めての恋だった。
「馬鹿みたいだ……」
 どうやっても届かないのに、今でも彼のピアノを聴いてしまえば、こんな風に胸が詰まる。
 心臓が、一打ち毎に好きだ好きだと訴える。
 ───本当は、ずっと傍にいたかった。
 ずっと彼のピアノを聴いていたかった。
 他愛のないことで言い争っては仲直りし、またピアノを弾いて、傍で耳を傾けて。
 そんな風にずっと過ごしたかった。
 けれど、もう叶わない。
 同じ大学に進むことが大事なのではなく、ただ傍に居たいのだと、あの頃に告げていれば、また何か違っていたのだろうか。
 だが、それすらも、もう確かめる術はない。
 唇を噛み締めて頬を濡らす涙をぬぐい、臨也は窓を見つめて、さよならシズちゃん、と口の中で呟く。
 そして踵を返し、歩き出そうとしたその時。




「臨也!!」




 乱暴な音と共に店のドアが開き、内から背の高い青年が飛び出してくる。
「臨也っ」
 必死に名を呼ぶ、その血相を変えて切羽詰まった表情に、反射的に「何故?」と思う間もなく。
 臨也は、彼の手に左腕を掴まれていた。
「――――」
 言葉も無いままに至近距離で向かい合う。
 彼の吐く息が白い。臨也の吐息もそうだった。
 射殺しそうな鋭いまなざしと、涙の名残をとどめたまま戸惑うまなざしが間近で絡み合ったのは、僅かな間のみのこと。
 直ぐに、ぐいと腕を強く引かれた。
「来い」
 短い言葉と共に大股に歩き出した静雄に引っ張られて、つんのめりそうになりながら臨也は店内に連れ込まれる。
 そしてそのまま、カウンター内の店主らしき壮年の男に、「控え室、借ります。戸締まりは俺がしますから、先に上がって下さい」と声をかけた静雄に、『PRIVATE』と書かれたドアの奥に引きずり込まれた。
「シ、ズちゃん」
 控え室、というより事務室だろうか。狭い室内に、事務机と着替え用のロッカーと古ぼけたソファーが詰め込んである。
 だが、それ以上の確認をする余裕は与えられず、手を離してと言うよりも早く、くるりと振り返った静雄に、臨也はドアを背にした体勢で追い詰められた。
 またもや、先程よりも遥かに至近距離で目と目が合う。
 二年十ヶ月ぶりに見る静雄は、記憶にあるよりも頬や顎の線が削げて、男くさく精悍な印象を増していた。
 加えて、あの頃にはなかった煙草の匂いがほろ苦く彼を包んでいる。
 五感で感じる彼の全てが臨也を圧倒して、心臓を激しく騒がせたが、静雄の方はそれに気付いているのかいないのか。
 色合いばかりは変わらない鳶色の瞳が、じっと臨也を見つめて。
 ゆっくりと上がった静雄の右手が、臨也のこめかみ辺りに落ちかかる髪に、躊躇いがちに触れた。
「臨也、だよな……」
「――他の誰に見えるってのさ」
 確認するような低く小さな声に、返す声が震えないようにするのが精一杯だった。
「――そうだな。お前だ」
 一つまばたきした静雄はそう応じ、前触れなく両腕を臨也の背に回して、その身体を広い胸の中に抱き込んだ。


「――シズちゃん……!?」
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 誰だって理解などできないだろう。あんな別離を経た相手に、二年十ヶ月ぶりに再会した途端に抱き締められるなんて、どうして想像するだろうか。
 かつて恋人同士であったわけではない。思い返せば、互いに何かを感じ取っていたように思えるものの、言葉で気持ちを確認したことも無ければ、ハグをしたこともされたこともない。
 なのに今、臨也は明らかに静雄に抱き締められている。
「臨也」
「……な、に……?」
 状況が良く分からないまま、心臓だけが狂ったように脈打っているのを感じつつ、臨也は辛うじて応じる。
 しかし、次に耳元で響いた静雄の低い声に、全てを吹き飛ばされた。

「好きだ」

 その言葉は、まるで異国の言葉を聞いたかのように理解ができなかった。
 或いは、ファンタジー小説やゲームに良くある石化の呪文を唱えられたかのように、臨也は静雄に抱き締められたまま硬直する。
 だが、静雄は構う様子もなく、告白の言葉を繰り返した。
「好きだ。次にお前に会えたら、絶対に言おうとずっと思ってた」
「――な、に……それ……」
「願掛けみたいなもんだ。もしお前がこの店に来ることがあったら、ってよ。もし、もう一度、お前が俺のピアノを聴きに来てくれたら……そんな奇跡が起きたら、もう絶対にお前を離さないって決めてた」
 何それ、と臨也は心の中で繰り返す。
 さっぱり訳が分からなかった。
 そもそも臨也を捨ててピアノを取ったのは、静雄の方ではないか。
 なのに、何故、願掛けだの離さないだのという話になるのか。
「何、馬鹿なこと言ってるんだよ。一体、何様気取り?」
 口を開き、反論の言葉を紡ぎ出せば、急速に腹立ちが沸き上がってくる。
「ねえシズちゃん、分かってる? 俺は物じゃないんだよ。君の気まぐれで拾ったり捨てたりできる玩具じゃない! そもそも俺と一緒の大学じゃなくてピアノを取ったのは、シズちゃんじゃないか……!」
 言いながら全身に力を込めて、静雄の体を突き放す。が、膂力の差の悲しさで、かろうじて抱き締める腕の力は緩み、互いの顔が見えるようになったものの、静雄の両手は、まだ往生際悪く臨也の背に触れていて。
「離せよ!」
「嫌だ」
 再度の抗いは、一言で却下された。
 好きだと言えば何をしても許されるとでも思っているかのような、あまりの勝手さと理不尽さに、臨也は心底からの怒りを込めて静雄を睨みつけた。



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