Yesterdayを歌って 09

 静雄の働くジャズバーは、二人が通っていた高校からさほど遠くない商店街の裏側にあった。
 賑やかな表通りから一本入った角にあるバーは、古い喫茶店のような外観で、木製の壁に塗られたスチールブルーの塗料が年月と共に色褪せているのが、ややみずぼらしい半面、不思議にいい味を出している。そんな建物だった。
 その裏口のドアの鍵を開けて、静雄は中に入る。彼の後について店内に足を踏み入れると、壁や天井に染み付いているのだろう煙草とアルコールの残り香が、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「休みの日は、自由に弾いていいって言われてんだ」
 そんな風に言いながら、静雄はテーブルの上に椅子を上げたフロアの奥へと進み、少ない明かりにも艶々と光っているグランドピアノに手を触れる。
 いかにも大切そうなその仕草に、臨也はそっと目を細めた。
「うちのピアノはアップライトだし、住宅地ん中だからよ。思い切り弾けねぇから……」
 マスターの好意はとてもありがたいのだと、静雄は慣れた手つきで重いはずの天蓋を持ち上げて低い位置で固定し、鍵盤にかぶせられていた深紅のフェルトを器用に小さく折りたたんで端に寄せる。
 そして、ひどく愛おしそうな目をしながら鍵盤に触れて、感触を確かめるようにスケール(音階)を流し引いた。
「リク、あるか?」
「ううん。シズちゃんの好きなの弾いて。その間に弾いて欲しいの考えるから」
「そうか」
 臨也が何でもいいと応じると、静雄は数秒だけ考えるそぶりをしてから、おもむろに白黒の鍵盤に指を走らせ始める。
 決してジャズに詳しくはない臨也には、その曲名は分からなかったものの、何となくクラシックで聴いたことがあるような気がして、首をかしげた。
 勿論、ジャズスタイルに崩してあるから、確かなことが言えるわけではない。
 だが、先程見た映画に彼が触発されているのは確かだっただから、クラシックがベースの選曲になるのは、別に不思議でも何でもないことだった。静雄にはそういう単純というか素直な部分があることを、臨也は良く知っている。
 照明を絞った薄明るい店内で、静雄が作り出す音の世界に意識を半分浸しながら、臨也は物音をたてないように、テーブルの上に伏せて上げられた椅子を一脚、床に下ろしてそこに座る。
 そして、組んだ足に頬杖をついて、瞬く間にピアノに引き込まれていった静雄の横顔を見つめ、狭い店内を眺めた。
 個人で経営しているだけあって、小さな小さな店だ。バーらしくテーブルや椅子は小さめだが、カウンターを含めても四十人も入ればいっぱいになってしまうくらいのキャパシティーしかない。
 それでもジャズファンというものはどこにでもいるらしく、臨也が店を覗く時には大体、七割から八割の席が埋まっている。
 誰もが長居するために決して回転率は良くないが、何とか経営は成り立っている。そういう印象の小さな店だった。

 静雄がこの店に就職を決めたと臨也が知ったのは、大学の入学直後のことだった。
 臨也が意識的に調べたわけではない。単にお節介な元同級生が知らせてくれたのである。学年トップを臨也と争っていたはずの平和島静雄がジャズバーで働いている。一体どうしたのか、と。
 だが、そんな風に問われても、臨也は答えるべき言葉を一つも持ってはいなかった。
 そもそも何も教えてもらえなかったのに、答えられようはずもないのだ。
 だから、知らないよ、とだけ事実を冷淡に繰り返しているうちに、皆、その話題に飽きたのか、程なく誰も何も問わなくなった。
 あるいは、進路を違(たが)えた元級友のことなど、軒並みこぞって名門大学へ進学した彼らは、どうでもよい話として直ぐに忘れてしまったのかもしれない。
 そんな風に、静雄の名を誰も口にしなくなり、臨也も何も言わないまま、ただ一ヶ月、半年、一年と時だけが過ぎてゆき。
(魔が差した……っていうのが正しいのかな)
 再会は、そうとしか言いようの無いような形で、ある日突然、訪れた。



 その日、臨也は珍しくも酔っていた。
 さほど酒に強い方ではないため、コンパに参加してもビールをジョッキに一杯か、薄いカクテルを二杯程度でとどめるようにしていたのだが、その日は何となく、いつもの倍量近くを体内に流し込んだのだ。
 そんな無茶をしたのは、おそらく天気のせいだった。 
 本格的な春にはまだ幾らか間のあった天気の良くない寒い日で、しんしんと冷え込む空から舞い落ちる雪が、臨也を芯から凍えさせ、過度のアルコールを求めさせたのだ。
 そして、その帰り道。
 ほろ酔いのまま、自宅最寄りの駅で電車を降り、普段ならば選ばない道を、何故か選んで歩き出した臨也は、ぽつりぽつりと街灯のともる商店街の裏通りをそぞろ歩いてゆくうち、不意に明るい光の零れている窓を見つけた。
 その時、その明かりに何を感じたのかは、今もって分からない。むしろ、酔っ払って何も考えていなかったというのが正解だろう。
 ともかくも臨也は、温かそうな光を夜道に投げかけているその窓に、夏の羽虫のようにふわふわと吸い寄せられた。
 そして、窓のほぼ正面に立った時。


 ───とてもよく知っている音が、聞こえた。


 明るい窓の向こうから聞こえる、力強く、それでいて情感にあふれた破調のメロディー。
 なめらかに踊る装飾音符と小気味のいいビート、自由自在なフェルマータが、聴く人間の心までを震わせる。
「シ、ズ…ちゃん……」
 その音の創造主を、臨也は良く知っていた。
 どれほど音楽への造詣が浅かろうと、何年その音から遠ざかろうと、聞き間違えるはずがない。
 間違いなく、三年間聞き続けた音であり、メロディーであり、リズムだった。
 雷に打たれたようにその場に立ち尽くしながら、臨也は無意識に口元を両手で覆った。そうでもしなければ、叫び出してしまいそうだった。
 或いは、大声で泣き出してしまいそうだった。
 ───シズちゃん。
 曲は合間に一呼吸ずつを挟みながら、次から次へと続けざまに演奏されてゆく。
 知っている曲もあれば、知らない曲もあった。
 だが、どれもこれも『平和島静雄』だった。
 彼にしか出せない音で、彼にしか弾けないメロディーだった。
 ───シズちゃん、シズちゃん。
 どうして、と思う。
 あの初春の日以来、臨也はずっと音楽からは遠ざかってきた。とりわけピアノの音は聞きたくもなくて、店舗のBGMでピアノ曲が流れればすぐに店を出るのも、ピアノの練習音が聞こえる道を避けて通るのも、もはや日常の習慣だった。
 それほど聞きたくないと……厭わしいと思っていたのに。
 どうして彼の音が分かってしまうのだろう。
 音楽に興味などないのに、どうしてこんな風に胸が震えてしまうのだろう。
 ───シズちゃん。
 聴きたかった、と軋む胸から絞り出すように、心の一番奥底で凍て付いていたはずの想いが、灼熱の溶岩のような激しい熱を帯びてせり上がる。
 そう、音楽になど興味なくとも、ジャズのことなど何も分からなくとも。
 彼のピアノだけは聴きたかった。
 ずっと自分の傍で弾き続けて欲しかった。
 同じ大学への進学など、本当は口実でしかなかった。どんな形であっても、ただ静雄が傍に居てくれれば、もうそれだけで良かった。
 それだけで満ち足りることができた。
 なのに。
 ───どうして。
 どうして自分達は、離れてしまったのだろう。
 どうして進路について何も言ってもらえず、そして、自分もまた、正直な気持ちをぶつけることができなかったのだろう。
 どうして今、自分は、彼がいる建物の中ではなく、こんな窓の外に立ち尽くしているのだろう。
「どう…して……? シズちゃん……」
 分からない、と臨也はただ窓の外に立ち尽くす。
 凍てた空からはらはらと粉雪が舞い落ち、肩に白く積もってゆくことすら気付かず、ただ明るい窓を見つめ、聞こえてくる音を全身で飲み干すように受け止める。
 だが、そんな魔法のような時間は、ごく僅かな間しか続かなかった。



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