Yesterdayを歌って 08

 久しぶりに食べるピザは、美味しかった。地元でも、そこそこ評判の美味しい店を選んだのだから、当然と言えば当然だろう。
 だが、食べる間に交わした会話といえば、見たばかりの映画のことが少しと、運ばれてきたピザのことが少し。
 それ以外は、臨也の感覚によれば会話と呼ぶのもおこがましい、話した端から忘れてしまうような断片的な言葉のやり取りばかりだった。
 だが、それも無理からぬことであって、高校時代には問題集や試験といった共通の話題が常にあったのに比べ、今は共通項らしき共通項が何もないのだ。
 今の臨也は理系の大学生だし、静雄はジャズバーのバーテン兼ピアニストであって、社会的な立場は全く違う。臨也が酒好きかジャズ好きであれば、まだ話は繋がるだろうが、あいにくとどちらも嫌いではないという程度で、話題にできるほどの知識は有していない。
 むしろ、それ以前の問題で、諸悪の根源ともいえる音楽の話に自ら水を向けるほど、臨也は親切でも自虐的でもなかったから、只でさえ乏しい話題は更に限られて、貧しさを極めているような状態だった。
(俺って、結構つまんない奴だったのかもな……)
 およそ四十分程度のランチ中に話が途切れたのは、十回か十五回か。
 数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの会話の続かなさに、臨也は食後のカフェラテを傾けながら、ふと、そんな風に感じて考え込んでしまう。
 それは、普段ならば、まず思わないことだった。
 友人と呼べる人間は数えるほどしかいない臨也だが、外面が良くて誰とでも分け隔てなく話すために、男女を問わず知人は多い。どんな相手とでも様々な場でさりげなく話を繋ぐのは、苦手どころか自他共に認める得意技だった。
 なのに、静雄の前でだけは、それが上手くいかないのだ。
 といっても、臨也が話を振れば、それが天気の話でも食べ物の話でも、静雄はきちんと聞いてくれる。臨也が余計なことを言えば鬱陶しそうな顔をすることもあるが、基本的に相手の話は目を見て聞くタイプだ。
 だが、静雄が寡黙な性分であるだけに、話せば話すほど言葉が上滑りをしているような気がして、結局、臨也は適当にお茶を濁して自分から話を打ち切ってしまう。その繰り返しで、まともな会話になる回数の方が遥かに少ないのである。
(シズちゃんは、自分からはあんまり話さないしなぁ)
 静雄は暇さえあればピアノを弾いているピアノ馬鹿であるが、弾けない時は、ぼんやりと本を読んでいることが多く、決して内にある語彙が少ないというわけではない。
 ただ、どちらかといえば内向的な性格で人付き合いが得意でないため、自分から積極的に他人に話しかけることは、あまり多くはないのである。
 人嫌いではないから、水を向ければそれなりに言葉を返すし、楽しそうな表情もする。だが、放っておけば、すぐにピアノの世界へと入っていってしまう。それが静雄の持っているどうしようもない性分なのだ。
(だからって、別にシズちゃんに変わって欲しいとは思わないんだけどね……)
 ピアノ馬鹿でなくなったら静雄ではないということは、臨也は十分に分かっている。
 そもそもピアノを弾いている彼を見て恋に落ちたのだから、たとえ一時といえどもピアノを忘れて欲しいと思うのは、本末転倒もいいところだろう。そういう自戒は、きちんとある。
 だから、静雄に変わって欲しいとは思わない。
 思わないのだが。
 さりげなく目線を落とせば、ぼんやりと窓の外にまなざしを向けている静雄の右手指は、テーブルの上で小さくタップしている。おそらく、先程の映画で触発されたメロディーを頭の中で弾いているのだろう。
 常々何を考えているのか今一つ分からない彼であるが、その程度のことならば、臨也にも容易に察しが付く。
 けれど、そんな静雄を見ているうち、妙におかしいような寂しいような気分に囚われて、ふと臨也は笑い出したくなった。
 結局、こうなのだ。
 いつでもどこでも、静雄は決してピアノのことを忘れられない。彼の心は、常に彼の音楽の世界をたゆたっている。
 目の前にいても、そこにはいないのが、静雄なのだ。
 けれど。
「シズちゃん」
「ん?」
 臨也が意図的にはっきりと発音して名前を呼べば、静雄は直ぐに戻ってくる。
 窓際の明るい席で、静雄の鳶色の瞳が外の光に透けて甘やかな色合いにとろけるのを、臨也は、念入りに翳りを消した綺麗な微笑みを浮かべて見つめながら、告げた。
「そろそろ行く? ピアノ弾きたいだろ?」
「──あー、まぁな」
 質問形で誘えば、うなずいたものの、少しばかりきまり悪げに静雄は視線を彷徨わせる。
 それは本当に小さな仕草だった。
 だが、その仕草だけで、臨也と一緒に居るにもかかわらずピアノに思いを馳せてしまうことを彼が悪いと感じていることが知れて、臨也は胸の奥から、言葉にしようのない切なさが込み上げてくるのを感じる。
 ───いっそのこと、恋人を省みないことに何の罪悪感も抱かないような彼であったならば。
 臨也は、決して低い矜持の持ち主ではない。それどころか、プライドと負けず嫌いの権化だ。そうでなければ、有名進学校の特進クラスで首席を争ってなどいられたはずがない。
 だから、もし静雄がピアノが上手いだけの身勝手な人間であれば、とっくの昔に嫌いになることができていただろう。否、最初から彼に恋などしなかったと断言できる。
 しかし、現実はこうなのだ。
 彼なりに臨也を大切にしたいと思っていることが言動のあちこちに透けて見えるから、どうしても嫌いになれない。それどころか、その度毎に──自嘲めいた感情と抱き合わせではあるが──好きだと思ってしまうのである。
 だが、その苦い思いを綺麗に押し隠して、臨也は皮肉っぽく肩をすくめてみせた。
「なに痩せ我慢してるわけ?」
 静雄のことは、今も昔も、これ以上はなれないほどに好きだった。
 しかし、だからといって、一旦は自分を裏切った静雄に、その気持ちを馬鹿正直に見せようという気にはなれない。
 本当に好きだし、こうして一緒にいられることも本当に嬉しい。だが、それであの日のことを全て許せるかといえば、否だ。
 だから、全てを理解しているような涼しい顔で、臨也は笑ってみせる。
 君がそうしたがっているから合わせてあげるんだよ、感謝しなよね、と。
 高校時代、いつも彼に見せていた、どこか驕慢で悪戯な雰囲気のままに。
「シズちゃんのピアノ馬鹿は死んだって治らないだろ。さっきからずっと指が動いてるのに、俺に気を遣って我慢するなんて、むしろ気色悪いよ」
 ね?、と駄目押しすれば、それ以上我慢しても仕方がないと思ったのか、静雄はうなずいて立ち上がった。
 入店前に、臨也が一方的に昼食は静雄の奢りと決めたが、どうやらその通りにしてくれるつもりらしい。レシートを手に持って、真っ直ぐにレジに向かう彼の後を臨也も追い、支払いを終えるのを待って、一緒に店の外に出た。
「ご馳走様」
「おう」
 礼を言うと、静雄は短く応じてから、ごく自然な動作で右手を差し出す。
 先程の今だから、その意味が判らないはずがない。
 しかし。
「……あのさ、シズちゃん。恥ずかしくないわけ?」
 差し出された手のひらを見つめ、静雄の目を見つめると、あー、と呻りながら、静雄は後ろ髪を掻き上げた。
「……まあ、全然恥ずかしくねぇとは言わねーけどな」
「あ、そうなんだ。良かった」
 恥ずかしくないと言われたらどうしようかと思った、とこれは揶揄ではなく、むしろ本心から呟くと、静雄は嫌な顔をする。そして、臨也の左手を、素早い動きで半ば強引に自分の手の中に収めた。
「シズちゃん……っ」
「お前と一緒に居るのに、ピアノのことばっか考えちまうのは嫌なんだよ」
「は……?」
 抗議を込めて名を呼べば、拗ねたような口調でそんな風に言われて、思わず臨也は絶句する。
 そして、繋がれた手をまじまじと見つめた。
 つまり、これは錨(いかり)なのか、と思う。
 静雄の意識を臨也の傍にとどめておくための錨。そのために、この手は役に立つのか。
 そう思うと知らず知らず、口元に喜び半分切なさ半分の笑みが浮かぶ。
「……変なの」
「うるせぇ。行くぞ」
 口調が乱暴になったのは照れ隠しだろうか。ぐいと軽く引っ張られて、歩き出しながら臨也は絡まる指先にそっと力を込める。
 すると、それよりも少し強い力で握り返されて。
 胸の奥が温かくなるような、少しだけやるせなさが混じるような、何とも言えない気分に臨也は小さく笑った。



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