Yesterdayを歌って 06

(結局は、あれが始まりだったんだよね)
 映画館の一番後ろの席──背の高い静雄は、背後の人の視界を気にして、いつも一番後ろを選ぶ――で静雄と並んでスクリーンを見つめながら、臨也は全く別のことを考えていた。
 否、全く別ではないかもしれない。スクリーンの中の女主人公の弾く荒々しくも美しいピアノの音は、ほんの少しだけ静雄の弾くピアノの音に似ている。
 でもシズちゃんのピアノの方がずっといい、と思いながら臨也は、そっと隣りを盗み見たが、静雄は真っ直ぐなまなざしをスクリーンに向けており、臨也の密やかな視線には気付かない。
 心の中で溜息をついて、臨也は再びスクリーンに目を向けた。
 本当に静雄はピアノが絡むと、周りが見えなくなる。そういう所も含めて好きになったのだし、今も好きなのだが、時々寂しいと感じることは止められない。
(だってさ、シズちゃんは俺よりピアノの方がずっと好きだろ)
 静雄なりに臨也を大切に思っていることは、一応は分かっているし、言動の端々からも感じ取れる。
 だが、現実に三年前に静雄に捨てられたのは、ピアノではなく臨也なのだ。
 もっとも、静雄としては臨也を捨てたつもりはないのかもしれない。それでも臨也を失う覚悟でピアノを選んだには違いないし、あの受験の日の夜以来、一度も臨也に連絡をしてくることもなかった。
 そういう意味では、臨也にとって見ればピアノは憎い仇でしかない。
 だが、一方では静雄との距離を縮めてくれた恩人でもある。
 高校の音楽準備室の古いアップライトピアノ。あれがなければ、臨也は本当の意味では静雄に惹かれなかっただろうし、自分の感情を認めることもできなかっただろう。
 あの日以来、臨也は静雄のピアノの音が聞こえる度に、音楽準備室に足を運ぶようになり、急速に静雄と親しくなった。
 静雄も最初の頃こそ身構える素振りを見せたが、彼は元々、尖った神経の持ち主ではない。
 ごく自然に臨也の存在を受け入れてそのまま一緒に帰るようになり、やがて、放課後は図書室の同じ机で向かい合って勉強するようになり、下校後や休日に互いの家を行き来するようになり。
(そういえば、俺の家に初めて来た時から、俺のことを名前で呼ぶようになったんだっけ)
 きっかけは何ということもない。折原家のリビングでお茶を飲んでいる時に、静雄が何気なく「折原」と呼んだら、傍にいた臨也の双子の妹たちも「「はーい」」と無邪気にサラウンドで返事をしたのだ。
 それで静雄は少しばかり困ったような顔をした後、「俺が呼んだのは臨也だ」と言ったのである。
 その瞬間の面映ゆさと嬉しさを臨也は未だに忘れていない。
 否、覚えていることばかりだ。さすがに何もかもとまでは言わないが、それでも心をざわつかせた数え切れないほどの思い出は、今も胸に鮮やかに焼きついている。
(シズちゃんはどうなのかな。俺の半分でも覚えてる?)
 芸術家肌の静雄は、ピアノに集中してしまったら最後、他のことは全て忘れてしまう。臨也といる時でも思考がピアノに向かってしまったら、臨也の発した言葉は届かなくなる。あの頃も何度、悪い、聞いてなかった、と言われたことか。
 しかし、だからといって、大切にされていなかったとは思わない。
 人付き合いのあまり得意でない静雄が、自発的に声をかけ、傍に居ようとした相手は高校時代では臨也だけだった。単に過ごした時間の長さで言えば、臨也は高校時代の静雄の傍に最も長くいた人間だろう。
 間違いなく好かれていたのだと思うし、当時の臨也も静雄のことを信じ切っていた。
 傍にいると空気が心地良かったし、じゃれあいの延長になった喧嘩も、ただひたすらに楽しかった。
 かといって、恋心の告白はどちらも一度もしなかったのだが、それでも二人の間にふとした拍子に通い合う温かな想いは、どちらも感じ取っていたように思う。
 だから、告白をしなかったというよりも、あの頃の二人にはそれは必要なものではなく、濃密な友情にも似た両片想いを二人して楽しみ、いとおしんでいたという方が正解なのだろう。
 だが、静雄にとっては、それらはどれ程の意味があったのか。
 ずっと好きだったと言われても、つい心の中で、ピアノの次にだよね、と言い返してしまう程度にしか臨也が静雄を信じられないのは、詰まるところは、過去の積み重ねゆえだ。
 静雄の中でピアノはあまりに大きなウェイトを占めていて、臨也の入る余地などほんのちょっぴりしかないのだと、あの頃は分かっているつもりで分かっていなかった真実を、今では嫌というほどによく分かっている。
 もっとも、そんな性分の持ち主に、人間の中では一番好きだと思われているのなら、それはそれで喜ばしいことかもしれない。が、臨也にしてみれば到底足りないのである。
(俺は、シズちゃんがこの世界で一番好きなのにさ)
 再会して、好きだと言われて、こうして一緒に居られることは、多少の複雑さは伴うものの素直に嬉しい。
 けれど、あの凍えてしまうほどに寒く感じられた受験の日からずっと抱え続けてきた寂しさは、幾分薄らぎはしたものの消えることはないのだ。
(ねえ、シズちゃん。俺はさ、シズちゃんの一番になりたいんだよ。昔からずっと)
 でも、この世にピアノがある限り、それは叶わない。
 臨也の立ち位置は、人間の中では一番でピアノの次、にしかなれない。
(それでも好きだなんて、本当に馬鹿だけどさ)
 裏切られたと知ったあの日以来、恨みも憎しみもしたけれど、それでもどうしても恋心を捨てることだけはできなかった。
 どんなに忘れようとしても、他の誰かを好きになろうとしても、心はひたすらに静雄の方へと向かうばかりで、嫌いだと繰り返し呟きながら、夢に見て涙と共に目覚めることを止められなかった。
 それは臨也の内にある掛け値なしの真実だ。
 出会った瞬間に静雄の天衣無縫ぶりに惹き寄せられ、音楽準備室で聴いたYesterdayに打ちのめされて。
 愚かしいほどの想いに心を焦がすことしかできなかった。
 そして、それは今でも変わらない。
 そのことを少しだけ悲しいと思いながら、臨也はラストのクライマックスに向かうスクリーンをただ見つめた。



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