Yesterdayを歌って 05
―――窓から差し込む夕日に染まった狭い音楽準備室。
その隅に置かれた、うっすらと埃をかぶった古いアップライトピアノ。
切々と情感たっぷりに、それでいて不意打ちのように強い音が混じりながら紡がれるメロディー。
完璧、という言葉が現実に存在するとしたら、まさにこの瞬間だった。
だが、時はあっという間に過ぎ去り、深い余韻を残して静雄が最後の一音を引き終え、こちらを振り返る。
「――折原?」
呆と立ち尽くしている臨也を不審に思ったのだろう。怪訝そうに苗字を呼ばれたが、咄嗟に反応することができなかった。
「……あ、うん」
そんな曖昧な相槌を打ち、どうしよう、と臨也は言葉を探す。
言うべき言葉は、ある。
だが、あまりにも自分には……これまで彼に向けてきた言動にはそぐわない。
けれど、言いたい。
そんな風に葛藤していると、静雄が不意に肩をすくめるようにして、小さく笑んだ。
そして、ピアノの蓋を閉めながら口を開く。
「手前って、本当に妙な奴だよな」
「……どこが」
「全部だろ。初対面で喧嘩売ってくるわ、変な仇名つけるわ、一から十まで張り合ってくるわ……。そのくせ、俺のピアノの音を聞きつけてこんなとこまでやってきて、もっと弾けとか言ってみたりよ」
「俺は、明日から中間なのにピアノなんか弾いてる馬鹿の顔を見に来ただけだよ」
「聞いてる奴だって馬鹿だろ」
くくっと低く笑う。その声が不思議なほど臨也の耳に響いた。
「帰るぜ。そろそろ五時だ。玄関が閉まっちまう」
「あれ、もうそんな時間?」
「気付いてなかったのかよ」
呆れたように言いながら、立ち上がった静雄はピアノの足元に置いてあった学生鞄を取り上げる。臨也の鞄と同じく、問題集が数冊と筆記用具くらいしかまともに入っていないのだろう。そんな薄さだった。
歩き出した静雄に何とはなし付いてゆきながら、臨也は、ねえ、と声をかける。
「また弾くの?」
「ピアノか? まあ、今日みたいに音楽室が空いてる時だけ、気が向いたらな」
「そう」
普段ならば当然、吹奏楽部が音楽室で活動している。今がテスト期間中だからこそ、準備室にも自由に出入りしてピアノを触れたということなのだろう。
「家にもピアノあるんだろ? なのにテスト期間中に学校でも弾くって、シズちゃん、どれだけピアノ馬鹿なわけ?」
「うっせ」
ピアノ馬鹿、の自覚はあるらしく、静雄は少しばかり拗ねたようにそっぽを向いて言い返した。
これまでひたすらに険悪な口論ばかりしてきたために、その反応はひどく新鮮で、臨也はまた胸が小さくざわめくのを感じる。
「じゃあさ、なんで音楽室のグランドピアノ使わないの。あっちの方が断然、音はいいんだろ」
「あー、まぁな。準備室のアップライトはずっと調律されてねぇから、少し音も狂ってるし……。でも、やっぱ気が引けるんだよ。俺は吹奏楽部や合唱部でもねぇし」
この学校は課外活動にはさほど熱心でないため部活動も強制ではなく、静雄も臨也も、どこの部にも所属していない。放課後は教室や図書室で勉強し、夕方になれば帰宅する。毎日がその繰り返しだった。
「遠慮なんてシズちゃんに似合わないよ。気持ちわるーい」
「――てめ…っ」
「ははっ、怒った? 鬼さんこちら、手のなる方へ」
節をつけて歌いながら臨也は駆け出す。
「待ちやがれ!」
猛然と追撃し始める静雄の足音を背後に聞きながら、臨也もまた俊足をさらに加速して廊下を駆け抜け、階段を駆け下りるのではなく手摺りに手をかけて階下へ飛び降りる。その後を静雄も同様にして追い、二人は正面玄関へ向かってひたすらに校舎を走り抜けてゆく。
「待て、折原あああぁ!!」
頭脳も運動神経も臨也と互角以上に張り合う静雄に欠点があるとしたら、このキレやすさだった。
性格自体は温厚なのに、どこがどうスイッチが入るのか、感情の沸点が異様に低い。
もっとも怒りが冷めるのも早いため、ひとしきり怒鳴り、暴れれば落ち着くのが常で、それを承知している臨也は、敢えて正面玄関の下足箱の前で足を止めて、くるりと振り返った。
「シズちゃん」
「だから、その名前で呼ぶなっつってんだろ!!」
「やだ」
振りかぶられる拳をするりとかわし、懐に入り込んで、いつになく近い距離から静雄を見上げる。
「ねえ、シズちゃん。明日もまたピアノ弾く?」
「――は?」
そう問いかけると、静雄は目を丸くして動きを止めた。
「明日から中間試験だから、しばらく吹奏部も休みだろ。明日も弾く?」
重ねて問えば、静雄は感情のスイッチが切り替わったのか、戸惑ったような顔をした後、目を逸らして後頭部の髪を掻き上げる。
「……弾くっつったら、また聞きにくんのかよ」
「さあ? もっとも、シズちゃんが試験中でもピアノを弾いちゃうような馬鹿かどうかについては興味あるけど」
「――手前な……」
茶化すような臨也の言葉に静雄は眉をしかめたものの、キレはしなかった。そして、小さく息を吐き出して自分の下足箱に向かい、上履きと革靴を取り替える。
「ピアノの音が聞こえたら、弾いてるってことだろ」
ぶっきらぼうにそう言い、じゃあな、と玄関を出て行く。
え、と自分の革靴を取り出していた臨也が振り返った時には既に遅く、その後ろ姿は既に開け放たれたガラス戸の向こうだった。
「……じゃあな、って……」
まるで友人のような挨拶だ、と臨也は思う。
自分たちが親しかったことなど、出会ってこの方一度もない。あの一番最初の試験結果発表の日から半年間、ひたすらにいがみ合い、張り合ってきたのだ。
なのに。
「何だよ、これ…っ」
頬がひどく熱い。
思わず手の甲で顔を擦る間にも、先程の音楽準備室の光景が脳裏に蘇る。
完璧だと感じた、オレンジ色に染まった空間。
ひたすら叙情的に、切なく流れたYesterdayのメロディー。
自らの作り出す音の世界に没頭していた静雄の横顔。
驚くほどなめらかに動く長い指。
「俺は……別に、シズちゃんのこと何とも思ってないし、嫌いだし」
逸ったままの鼓動が居心地悪くて、自分に言い聞かせるように声に出して呟いてみる。
が、それは自分でも呆れてしまうほど、負け惜しみに良く似ていた。
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