Yesterdayを歌って 04
ピアノの音が聞こえる、と臨也が気付いたのは、問題集に一段落が付いて、そろそろ帰ろうかと思った時だった。
集中していた時は気付かなかったのだが、細めに開けた教室の窓から、細く遠いピアノの音が聞こえてくる。
明日から中間試験だというのに悠長なことだな、と思いつつ、荷物を片付けた臨也が音源と思しき音楽室に足を向けたのは、その呑気な奴の顔を拝んでやろうと思ったからだった。
進学校であるだけに、全ての部活動は試験の一週間前からテスト休みに入る。つまりは、この時期に音楽室から楽器の音が聞こえるはずがないのだ。
物好きの正体は誰だろうかと、光に惹かれる羽虫のように特別教室の集まる西館の三階にある音楽室へ近づけば、音はますますはっきりと聞こえてくるようになる。
だが、ビートルズだろうか、と曲名が曖昧な断定になったのは、そのメロディーがずいぶんと破調なせいだった。
聞き覚えのある曲調ではあるのに、まるで別の音楽になってしまっており、それでいて元曲の哀愁は残している。
人によって好き嫌いはあるだろうが、それは見事なジャズアレンジで、うちの学校の生徒にこれだけ弾ける人間がいたのかと感心しながら、臨也はそっと音楽室を出入り口のガラス越しに覗き込む。が、その教壇横に据えられたグランドピアノに人影はなく、臨也は小さく首をかしげた。
「……音楽準備室の方かな」
ピアノの音はより一層クリアに聞こえてきているのだから、音源はここのはずなのだ。
余計な音を立てぬよう気遣いながら音楽室の引き戸を開れば、更に音は鮮やかになり、臨也は誘われるように教室の奥にある小さなドアのガラス窓を覗く。
そして、そのまま絶句した。
「え……?」
女生徒ではないだろうと思っていた。音の力強さやリズムの刻み方から、十分過ぎるほどに男性的なものは感じ取れていた。
だが、しかし。
「……シズちゃん?」
驚愕に駆られたまま、ノックも無しに準備室のドアを開く。
と、古ぼけたアップライトピアノに向かっていた静雄が、びくりと手を止めて振り返った。
「折原?」
臨也の姿を認めた途端、静雄のまなざしが険を含んで鋭くなる。だが、臨也はそんなものに構ってはいられなかった。
「シズちゃん、ピアノ弾けたんだ」
「……悪いかよ」
「ううん、悪くない」
まだ驚愕から逃れられないまま、臨也は吸い寄せられるようにピアノの傍まで歩み寄る。
そして、鍵盤の上に置かれたままの静雄の手をしげしげと眺めた。
指の長い、大きな手だ。
爪は白い部分が見えないぎりぎりまで摘んであって、指先はやや不自然に丸い。確かに、幼少時からピアノを弾き続けてきた人間の手に見えた。
「……何だよ」
いつも挑発的な臨也が大人しいからだろう。静雄は居心地が悪そうに、怪訝な表情を浮かべる。
だが、構わず臨也は、湧き起こる衝動のままに尋ねた。
「さっき弾いてたのって、The Long And Winding Road?」
「――ああ」
問えば、静雄は戸惑った顔ながらもうなずく。
「ビートルズ、知ってんのか」
「有名なのだけね。赤盤と青盤はうちにあるから」
「へえ」
その臨也の受け答えで、静雄は肩の力を抜いたようだった。
右手が小さく動いて、数音のコードを奏でる。
「シズちゃんはビートルズ、好きなの?」
「だから、シズちゃんって呼ぶな」
臨也が嫌がらせでつけた仇名に顔をしかめながらも、静雄はぽつりぽつりとピアノの鍵盤に指を滑らせて、メロディー未満の音を響かせた。
「好きっつーより、ガキの頃から聞かされてたから身に染み付いてる感じだな。うちは母親がビートルズ好きなんだ」
「へえ」
「で、父親はジャズマニア。両方足したら……分かるだろ」
「ああ、だからジャズアレンジだったんだ」
メロディーがずいぶんと破調だった理由が分かって、臨也はうなずく。
「楽譜とか、あるの?」
「ビートルズのか?」
「じゃなくて、さっき弾いてたやつ」
「ああ、それはない」
「ないの?」
「ジャズに楽譜なんてねぇよ。まあ、元曲の楽譜はあるけどよ、楽譜通りに弾いたらジャズじゃねぇし」
「――じゃあ、さ」
最も気になっていたことを、そっと唇に上らせる。
「シズちゃんのオリジナル?」
「あー、まあ、そういうことになるかな」
何の気もなさそうに、静雄は鍵盤に指を置きながら答えた。
「楽譜があっても、つい好き勝手弾いちまって駄目なんだよな。だから、ピアノも基礎しか習ってねぇんだよ。クラシックは基本、楽譜通りだろ。勿論、曲の解釈はそれぞれなんだけどよ。音の長さを変えたり装飾音符をつけたりのアレンジは御法度だから」
ピアノ教室を追い出されちまったんだよな、とわずかな自嘲交じりに静雄は言う。
「でも、一応、楽譜の読み方と運指法は覚えたから、あとはうちのピアノで好き勝手弾いてるんだよ」
「……そうなんだ」
うなずきながら、臨也は会話しながらも自動書記のように鍵盤を押している静雄の手指から視線を外し、その横顔にまなざしを向けた。
「ねえ、シズちゃん」
「だから、俺は平和島静雄だっつってんだろ」
「もう一回弾いてよ。て言うか、他のも聴いてみたい」
「は……」
臨也がねだれば、静雄は呆気にとられた顔になる。
「なんで……」
「だから、ビートルズは嫌いじゃないんだってば」
その物言いで納得したのか、静雄は戸惑いながらも合点した表情になり、それなら、とピアノに向き直る。
そして、自己流のThe Long And Winding Roadを弾き始めた。
ポールとジョンの間に生じた亀裂が決定的になった頃の憂いに満ちたメロディーは、静雄の指によって力強い響きと新たな切なさを孕みながら、狭い音楽準備室に溢れ出してゆく。
その音に耳を傾けながら、やっぱりカッコいいな、と臨也は思った。
何がと言われても、上手く説明できない。
だが、その音楽は静雄そのものだった。力に満ち溢れていて、傍若無人で、それでいて時折甘い響きが混じって、聞いている臨也をどこか切なくさせる。
ピアノを弾く横顔、滑らかに動く長い指。
眺めているうち、じわりと溢れてくる感情が何であるのか。
気付きたくない、と臨也は反射的に思う。
けれど。
曲調をアップテンポに変えて、Lady MadonnaやOb-La-Di, Ob-La-Da
を自由自在にアレンジしつつ弾いた静雄が、次で最後な、と言い置いて弾き始めたYesterdayの最初のフレーズを耳にした時。
臨也は、そのどうにもならない感情に完全に囚われた。
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