RAINY CITY  04

 出会った時から大嫌いだった。
 なのに、勝てたためしがない。
 自分の肉体も頭脳も最大限まで駆使して、あの手この手で責め続けたのに、この化け物ときたら、せいぜいかすり傷程度のダメージしか負わなかった。
 他の人間は、自分の手にかかれば皆、たやすく踊る。ごく稀に自分以上に狡猾であったり、冷酷であったりして、思い通りにはならない人間もいたが、でも、決して勝てないと感じたことはない。
 単にタイミングが悪かっただけで、機会さえ捉えられれば、必ず篭絡できる。
 そんな他者に対する自信を、いつも微塵に砕いてゆく唯一の存在。
 絶対に認めたくなかった。
 そして、相手に自分を認めさせたかった。
 けれど、どんな手段を使っても、彼はこちらには向かないのだ。
 こちらが悪辣なちょっかいを出した時だけ、あるいは悪意を抱いて彼の街を歩いている時だけ、嫌悪感に満ちた表情で害虫を払うように暴力を振るってくる。
 彼の目は自分を見ないし、彼の耳は自分の声を聞かない。
 自分は、力の限りに叫んでいるのに。
 ずっとずっと、叫び続けているのに───…。






「──シズちゃんなんか、嫌いだ……」
「起きた途端、それか? 御挨拶だな、ノミ蟲君よぉ?」
 ぼんやりと目を開きながら呟いた声に、思いがけない低い声が返ってきて、臨也は目をまばたかせる。
 見慣れないクロス張りの天井に、どこだ?と疑問符を浮かべながら、やっと焦点の合ってきた視線を声のした方に向けた。
「……シズちゃん?」
「おう」
 一瞬戸惑ったのは、布団の真横に寛いだ姿勢で座っている彼が、いつものバーテン服ではなかったからだった。部屋着なのか寝巻きなのか、ともかくもそんな感じの紺色のスウェットの上下を着ている。
 見慣れない姿に、妙な新鮮味を覚えながら、臨也は枕に頭を預けたまま微かに首をかしげ、自分の記憶を辿った。
「……新羅のとこに連れてくって言ってなかったっけ?」
「何だ、覚えてんのか」
「シズちゃんがそう言ってたとこまで。何がどうなって、俺はこんなとこにいるわけ? ここ、シズちゃんの部屋だろ」
 初めて目にする安アパートらしい内装に、部屋着の静雄とくれば、場所の見当が付かない方がおかしい。
 そう思いながら尋ねると、静雄は肩をすくめた。
 何気ない仕草であるのに、見栄えのするスタイルの持ち主がやると妙に映える。シズちゃんのくせに、と内心で苛立ちながら、臨也は答えを待つ。
「新羅のとこには連れてったぜ。でもあいつが、うちには入院設備はないとか何とか言い出しやがってよ。手術台の上なら寝かせておいてやらなくもないけど、布団はないから、こじらせて肺炎起こすかもとか言われちまったら、仕方ねぇだろ。あいつんちから、ここまでは直ぐだしよ」
 静雄にしては珍しく、言い訳がましく聞こえるのは、彼自身もらしくないことをしたと思っているからだろう。
 確かにどうかしている。臨也を新羅のところに連れて行った上に、自宅にお持ち帰りするなんて。
「──なんで、その辺に捨てておかなかったのさ。野垂れ死んだら、化けて出てやったのに」
 生身では殺せない相手も、死んだ後なら取り憑いて、祟り殺せてやれたかもしれないのに、と思いながら減らず口を叩く。
 が、すぐには返事は返ってこなかった。
 あれ?、と思いながら、静雄の顔を見直そうとする。
 と、ぼそりとした声が降ってきた。
「話が途中だっただろ」
「話?」
 話って何だ、と思うが、すぐに思い出した。熱に浮かされた自分が語った与太話だ。
 瞬間的に羞恥と焦りが込み上げるのを、意志の力で抑え込む。
 静雄の目の前で赤面するなど、死んだって御免だった。
 そもそも、あれは話と言うほどのものではない。酔っ払いの愚痴のようなもので、続きのあるものでは決してない。
「俺が意識を失う前にしてた話なら、続きなんかないよ。あれで終わり。どうでもいいことだから、忘れてよ、シズちゃん。それに、どうせ直ぐ忘れちゃうだろ、その皺の少ない、つるんつるんの脳味噌じゃさ」
 冷めた表情で、嫌味たらしく告げる。
 だが、そんなポーズが通じる相手であれば、この八年間余り、臨也は苦労などしなかったのだ。
「──あのな、臨也」
 呆れきった声で名前を呼び、静雄は片手を伸ばして、臨也の前髪をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
 思いがけない接触に、反射的に臨也はフリーズする。
 ───シズちゃんが、俺に触った。
 暴力ではなく、ごく普通に。
 初めて……ではない。高熱で意識を失う前にも、確か、触れられた。
 霧雨の中で、この手のひらを温かいと、感じた。
 けれど、これは。
 こんなのは。
「そういう物言いすんなら金輪際、構ってやるもんかと思っちまうだろ。馬鹿か、お前は。つーより馬鹿なんだな、マジで」
 在り得ない!、と臨也は心の中で叫んで、静雄の手を自分の手で鋭く払い落とす。
「馬鹿馬鹿って連呼しないでくれる!? ていうより構ってやるって何だよ! シズちゃん何様のつもり!?」
 思い切り挑発的に言い放つ。
 普段なら、静雄はそれだけでキレてもおかしくなかった。
 否、必ずキレるはずだ。
 不器用な優しさ?らしきものを、手荒に……それもノミ蟲に振り捨てられたのだから。
 だが、静雄は今度も臨也の予想に反し、小さく溜息をついただけだった。
「馬鹿を馬鹿っつって何が悪い」
「全部悪いよ! そもそも俺の何が馬鹿なのさ!?」
「全部だろ。自分の方を向いて欲しくて、ナイフで切りつけるなんざ、どう考えたってまともじゃねぇだろうが」
「っ……!」
 いきなり爆弾を放り投げられて、臨也は咄嗟に反応できない。
 確かに自分が言ったことを要約すると、そういうことになってしまうのかもしれない。だが、そんな編集能力が静雄にあったとは、想定外だ。
 心の中で静雄を罵倒する一方、静雄に要約されてしまうような隙だらけの台詞を吐いた、数時間だか十何時間だか前の自分を、臨也は心底呪う。
 しかし、そうしながら、ふと今がいつなのか気になった。
 室内のカーテンは引かれており、明かりがついていて、静雄は部屋着だ。少なくとも、真昼間ではない。
「ねえ、シズちゃん。全然話変わるけど、今、何時?」
「あ? ああ」
 気分の切り替えが早いのは、ある意味で静雄の美点だ。時と場合によっては、その気分の移り変わりの速さに苛々させられるが、気まぐれという意味では臨也も人後に落ちない。
 何にしても引き摺らないのはいいよね、と自分の都合のいいように結論を誘導しながら、壁際のコンセントから伸びている携帯の充電器を、静雄が取り上げるのを見守った。
「あれ、それって俺の携帯?」
「ああ。ひっきりなしに着信してブルってたからな、今朝方、それが充電切れ起こしてピーピー鳴る音で俺は起こされたんだぜ。壊さなかったことを感謝しやがれ」
 言いながら、静雄は充電器から臨也の携帯電話を外して、軽く放ってくる。
 咄嗟に手を伸ばして受け取り、開いて、日付と時刻を確認した臨也は、驚きに目を瞠った。

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