RAINY CITY 05
「七日の二十二時って……、俺がシズちゃんと会ったのって六日じゃなかった?」
「おう。そろそろ二十四時間、経つな」
「嘘……。俺、丸一日、寝てたの?」
「そうだ。新羅は、ただの風邪だと言ってたぜ。あと不摂生が何とか。栄養が偏って、失調気味とかとも言ってたな。どうせ無茶苦茶な生活してたんだろ」
「──まあ、ねえ。あんまり健康的じゃなかったかもね、最近忙しかったから」
「健康的じゃねえから風邪引いてんだろうが」
溜息をついて、静雄は立ち上がる。
臨也は、自分が寝ていた間の着信とメールを確認するのに夢中になって、しばらくの間、静雄が何をしているのか気付かなかったが、ふと顔を向けると、開け放した引き戸の向こうの狭いキッチンで静雄が立ち働いていて。
「? シズちゃん?」
「ちょっと待ってろ」
何をしているのだろうと思ったものの、手の中の携帯の方が気になり、再びメールを開く作業に没頭する。
そうして数分が過ぎた頃、静雄が戻ってきた。
「食欲ねぇだろうが、ちょっとは腹に入れとけ。でないと、またすぐに熱がぶり返すぞ」
「へ?」
布団の直ぐ横の畳の上に置かれたのは、大きな梅干の載った白粥、だった。
ほこほこと温かそうな湯気を立てている。
「レトルトのやつを温めただけだけどな。食わねえよりはマシだろ」
寝転がった姿勢で片手に携帯電話を持ったまま、臨也は穴が開くほどに白粥を見つめ、それから静雄を見上げた。
「……まさかと思うけど」
「ぁん?」
「俺のために、買って来てくれたとか……?」
静雄が粥が好きだなどと聞いたことがない。いや、もしかしたら朝は粥派なのかもしれないが、しかし。
「他に病人に食わせられるものなんかねぇだろ。いいから、とっとと食え」
「全然よくなんか……っ、」
当たり前のことのように言う静雄に、臨也は思わず上半身を跳ね起こす。が、それだけのことに、ぐらりと世界が回った。
「馬鹿か。昼頃まで熱にうなされてた奴が、そんな簡単に動けるようになるかよ。ったく……」
思わず布団の上に手をついて体を支えた臨也の背中を、落ち着かせようとでもするかのように静雄の手が撫でる。
そうして、ぐらぐらと揺れる視界を持て余しながら、やっと臨也は気付いた。
自分の腕を包む、だぼっとした白のトレーナー。
自分が身につけているのは、自分の服では、ない。
「シ、シズちゃん」
「何だよ」
「俺の服は……?」
「ンなもん、昨夜のうちに手前の汗でぐしょぐしょになっちまったから、今朝、洗濯機に放り込んだぜ。ったく、感謝しろよな」
つまりそれは。
静雄の手で、着替えさせられたということだ。しかも、もしかしたら夜通しの看病を受けて。
在り得ない現実に、臨也は世界が崩壊してゆく音を聞き付ける。
在り得ない。
あってはならないのだ、こんなことは。
「ちょっと……待ってよ、シズちゃん」
「あぁ? 何がだ」
ゆっくりと臨也は、布団を凝視していた視線を静雄の方へと向ける。
布団の傍らの畳の上に胡坐をかいた静雄は、サングラスもない素の瞳で、真っ直ぐに臨也を見つめていた。
その明るい鳶色の瞳には──嫌悪も殺意も、見当たらず。
「一体、君は何してんだよ。熱出してフラフラの俺にとどめを刺すどころか、新羅のところに連れて行って、うちにお持ち帰りして、看病して、着替えさせて、食べるものまで用意して……。こんなのおかしいだろ!?」
違和感の全てを込めて臨也は叫ぶ。
だが、静雄は表情を動かさなかった。少しだけ肩をすくめるようにして、口を開く。
「まぁな。昨日までだったら、気でも狂わない限り、俺はこんなことはしなかったと思うぜ」
「だったら何で……!」
そう叫びかけて、臨也は答えに気づいた。
昨日までだったら。
静雄は、はっきりそう言った。
昨日。
愕然となりながら、臨也は静雄を凝視する。初めて目にするような静雄の平静な顔が、ひどく恐ろしく感じられ始めて、今すぐこの場から逃げ出したくなる。
だが、臨也が逃走の体勢を整えるよりも早く、静雄は臨也を真っ直ぐに見つめたまま、言葉を紡いだ。
「俺なりに考えたんだよ。手前の言ってたことをよ。結局、手前は何をしたかったんだ、俺にどうして欲しかったんだ、ってな」
その言葉に、ざわりと臨也の背筋が総毛立つ。
嫌だ、と思った。
それは或いは、怖い、という感情に似ていたかもしれない。
自分と静雄との間にあったもの。恒久的に壊れることのないはずの何か。
それに今、ひびが入ろうとしている。
「な…んで、そんなこと考えるんだよ。必要ないだろ。君は化け物で、君にとっての俺はノミ蟲で、それでずっとやってきたじゃないか。今更何を……」
「そうだな。俺もそれしかないと思ってた。──でも、違うんだろ。それじゃ嫌なんじゃねぇのか。少なくとも、俺には昨夜、そう聞こえたぜ」
怖い、と心の底から臨也は思った。
怖い。怖い。
目の前の男が、自分たちの間にあったものが変わってしまうことが──怖い。
変わらないことに苛立ち、自棄になるほど追い詰められていたというのに。
いざ、それが崩れゆくのを目の当たりにすると、変化に怯えずにいられない。
「あれは熱でどうかしてただけで……!」
「熱で本音が出た、の間違いだろ」
あっさり切り捨てられ、違うという声さえ聞いてはもらえない。
これまでにないほど酷い焦燥を覚えながら、臨也は必死に言葉を探した。
「本音? そうかもしれないね、それくらいは認めてもいいよ。でも勘違いされたら困る。俺は別に、君と普通の関係になりたいわけじゃないんだ。俺が何をしても君は傷付かないことの不公平を、どうにかしたいだけなんだよ。
君は俺の愛する人間じゃない。化け物の君と仲良くお手々繋いで、お友達ごっこしたいわけじゃないんだ!」
一息に言い切って、ぜい、と息をつく。こんな風に激昂して言葉を吐き出すのは、滅多にあることではない。
どうにもならない苛立ちのままに睨みつけると、静雄は青筋を浮かべるでもなく、むしろ何を考えているのか分からない無表情でこちらを見つめていた。
「昨夜も言ってたよな、普通なんか面白くも何ともねえってよ」
「言ったよ。俺は普通なんか欲しくない。君と馴れ合うことは勿論、友達になる気なんか、これっぽっちもないんだ」
そう告げると、静雄は大きく溜息をついた。
何かを持て余すような表情で目線を下ろし、右手を首の後ろに持っていって、首筋にかかる髪を掻き揚げる。
昨夜もしていたこの仕草は、もしかしたら、癖なのかもしれない、と臨也は気付く。
気持ちを持て余している時、あるいは、言葉を選びかねている時の。
いずれにせよ、臨也の知らない癖だった。それも当然で、こんな風に向き合ってまともに話したことなど、数えようにも記憶に殆どないのだ。
そうして臨也がじっと見つめていると、静雄は目線を落としたまま、低く呟くように言った。
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