RAINY CITY  02

「シズちゃんこそ、もう帰れば? いつも一緒の先輩さんもロシア娘も居ないってことは、今日の仕事は終わったんだろ? もう夜も遅いし、良い子は寝る時間だよ」
「帰るのは手前の方だろうが!」
「だから、嫌だって」
 ついと一歩後ろに下がり、臨也はその場でくるりと回る。たったそれだけのことで目がくらみ、がんがんと痛む頭に座り込みたくなったが、根性でこらえた。
「シズちゃんこそさあ、一体何がしたいんだよ。俺が熱を出してて、何の問題がある? そこらで俺が野垂れ死にしようが、君は何の関係もないどころか、万々歳だろ。君の大嫌いなノミ蟲が、君が手を下さなくても消えるかもしれないんだよ? もっと喜ぶか、とどめを刺すかしたらどうなのさ?」
 そして、挑発的に下から静雄の顔を覗き込む。
 にやりと、彼の一番嫌いな顔で笑った。

「とどめ、刺してみたら? すっきりするかもよ?」

 間近で、ギリ、と静雄が歯軋りする音が聞こえた。
 彼の顎の力に耐え得る歯は、一体どんな頑丈さなのだろうかと場違いなことを考えながら、臨也は静雄が右手に握ったままの道路標識を振り上げるのを待つ。
 そして、三秒後。
 アスファルトと金属がぶつかり合う激しい音が、薄汚れた路地に響くと同時に、臨也の体は宙に浮いていた。
「──え、ええっ!?」
 道路標識を投げ捨てた静雄に、胴体をがっちり掴まれて肩の上に抱え上げられた、と気付くには、一秒ほどの時間が必要だった。
「何すんだよ! 俺はとどめ刺せって言ったんだよ!?」
「うるせぇ!!」
 怒鳴りつけた声の倍の声量で静雄が怒鳴り返してくる。
「手前みたいなノミ蟲のためなんかに犯罪者になれるかよ! このまま新宿まで送り届けてやるから、寝言言ってねぇで、とっとと寝ろ!!」
「馬鹿なこと言うなよ! そんなのは君じゃないだろ! とどめ刺せばいいじゃないか、千載一遇のチャンスなんだからさ! っていうより下ろせ!! 下ろせってば!!」
 両拳で背中や後頭部を殴りつけ、膝蹴りと革靴での爪先蹴りを胴体に叩き込んで、力の限りに暴れる。
 そうしたところで臨也の拳や蹴りが効いているはずもなかったが、暴れる生き物を運ぶのは、圧倒的な膂力を誇る静雄にしてもやりにくいのだろう。盛大な舌打ちの音と共に、臨也の両脇を掴んで勢いよく前方に──臨也からしてみれば後背に──両手を下ろす。
 その勢いに、投げ捨てられるのかと臨也は反射的に目を閉じて衝撃に備える。が、背中に感じたのは、とん、といった感じで押し当てられた硬い壁の感触だけだった。
 ───え…?
 思わず目を開けて、背後にどこかのビルの壁があることを横目で確認してから、正面へとまなざしを向ける。
 だが、おそらくそれは失敗だった。至近距離で見つめていた静雄に、視線を絡め取られる。
 両手をビルの壁について臨也を閉じ込めた彼の真っ直ぐな目に浮かぶのは、苛立ちと、それから何だろうか。読めない、と思いながら、ただ臨也はその目を見つめ返す。
 そのまま、息の詰まるような沈黙が一体、何秒続いたのか。
 先に溜息をついたのは、静雄の方だった。
「ったく……。何なんだ、手前は」
「……何って、何が」
「熱出してるくせに、こんな雨ん中をふらふらしてるわ、俺が殴りかかっても避けようとしねーわ、挙句、とどめ刺せとか……。訳分かんねぇんだよ」
 手前には自殺願望なんかなかっただろ、と言われて、臨也はその通りだと思う。自分は決して、死にたがりなどではない。むしろ、人一倍保身には気を使う、高みの見物が大好きな卑怯者だ。
 けれど。
「シズちゃんこそ何してるのさ。目の前に弱った俺がいるんだよ? 今なら簡単に踏み潰せるし、首の骨を折るのだって簡単だろ? 何を新宿に返品しようとしてるんだよ」
「だから、俺は犯罪者になる気はねーっつってんだろ。俺が犯罪者になっちまったら、どんだけ周りに迷惑がかかると思ってんだ」
 その言葉に。
 思わず笑いが込み上げる。
「ははっ、迷惑だって? これまで散々かけてきたじゃないか。何を今更、善人ぶってんだよ。馬鹿馬鹿しい」
「そんなこたぁ、俺だって分かってる。だが、傷害や器物損壊と人殺しじゃ、話が全然違うだろ。手前も分かって言ってんだろうが」
 臨也の嘲りに取り合わず、静雄はまなざしに力を込めた。サングラス越しの瞳が、夜目にもはっきりと分かるほど鋭く光る。
「臨也」
 ひどくくっきりとした声で、静雄は名前を呼んだ。
 まるで、それが唯一無二の名前であるかのように。
 そう思った瞬間、臨也はまた笑い出したくなる。
 ───本当にどうかしているのだ、今夜は。
 今日は家から出るべきではなかった。池袋などに来るべきではなかったのだ。
 それでも、体調が悪いことを自覚していながら、仕事のついでだと理由をつけて、新宿からここまでやってきた。
 気を抜いたら崩れ落ちてしまいそうなほど具合が悪いのに、帰らなかったのは自分だ。
 何故か?
 答えを考えようとするだけで、反吐が出そうな気分になる。
 だが、そんな臨也の内心に、静雄は気付いているのか、いないのか。

「一体どうしたんだ? 何かあったのか?」

 ひどく真摯な声で、そう問われて。
 それが限界、あるいは引金だった。
 込み上げるヒステリックな笑いに口元を歪めながら、臨也は素早くコートの右袖を振る。そして瞬時に手の中に現れた折り畳みナイフの柄を広げ、馴染んだそれを握り締めて、渾身の力で目の前の相手を刺した。
 刃など殆ど刺さらない。だが、思いがけない攻撃に驚いたのか、静雄が瞬間的に顔をしかめて臨也を睨みつける。
「……どういう真似だ?」
「どうしたんだなんて訊くからだよ」
 低く獰猛な問いかけに、狂気めいた笑みを閃かせながら、臨也は手にしたナイフをぐっと捻じり込む。だが、どれ程渾身の力をこめても、刃先はそれ以上入らない。さほど力を入れている様子もない静雄の腹筋が、凶悪な刃を跳ね返している。
 そのことが、言葉にならないほど悔しく、憎かった。
「ねえ、シズちゃん。今、俺は渾身の力でナイフを君に刺してるんだよ。なのに、君は殆ど傷付いてない。不公平だと思わないか、そんなのは」
 嗤い、臨也はナイフから手を離す。小型のそれはあっさりとアスファルトに落ちて、高い音を響かせた。
「いつもいつも、そうだ。俺はいつも、一人で空回りしてるだけ。策を弄して、君を陥れることはできる。化け物呼ばわりして、心を傷付けることもできる。
 でも、君を本当に傷付けて苦しめるのは、君の力だ。決して俺じゃない。俺は本当の意味では、決して君を傷付けることも、苦しめることもできない」
 とうとうと語る臨也の目を、軽く眉をしかめたまま静雄はじっと見つめている。
 その瞳に浮かぶものが何であるのか、臨也には分からない。
 静雄について分かるのは、自分に向けられる憤怒と嫌悪、苛立ち、それくらいのものだ。他の感情は全く分からない。分かったためしなどなかった。
「ねえシズちゃん、不公平だと思わないか」
「──意味が分からねえ」
 ぼそりと静雄の低い声が、臨也の問いかけを遮る。
「俺を傷つけたり苦しめたりするのが、俺の力だってのは分かる。それは事実だからな。だが、その先が分からねえ。何が不公平なんだ」
「何って──」
「手前の言葉を聞いてると、」

「まるで俺が、手前を傷付けて、苦しめてるみたいに聞こえる」

 そう言われて。
 思わず臨也は、目を見開く。
 ───俺は今、何を言った?
 突然、熱に浮かされて遠くなっていた現実が戻ってくる。
 そう、これは現実だ。
 なのに、自分は何を言った? 何をした?
 霧雨の中を体調が悪いにもかかわらず彷徨い、静雄にとどめを刺せと挑発して。
 その挙句。
「───…」
 愕然となりながら、目の前の相手を見上げる。静雄は相変わらず、彼には似合わない、何かを考えているような小難しい顔で、臨也を見つめていた。
「臨也」
 そして、臨也の様子になど構うことなく、耳に残る低い声が名前を呼ぶ。
「俺は、お前を傷付けてんのか?」
 ひどく懐疑的に、そんなことがあるのかと静雄が問いかける。
 その声に、臨也はまた笑い出したくなった。
 現実に戻ったはずなのに、まだ違う世界にいるようだった。発熱のせいなのか、日常の感覚が戻らない。
 否、それともとうにそんなものは失くしていたのか。
 あの遠い春の日、この化け物に出会ったその瞬間に。
「は…、はは、あははは……っ」
 下らない。何もかも下らない。
 自分がしていることには何一つ意味がない。熱に浮かされた狂人が踊っているようなものだ。必死に身振り手振りしても、相手には何一つ伝わらない。
 伝わるはずもない。
 そう思うと、笑わずにいられなかった。
「おい……」
 突然笑い出した臨也に戸惑った静雄が、声をかけてくる。

「傷付けてる、よ」

 唐突に笑いを納め、うつむいたまま臨也は告げた。
「君は俺を傷付けてるし、苦しめてる。出会った時から、ずっと」
 そして、ゆるゆると顔を上げて、静雄のまなざしを捕らえる。
 サングラス越しに透けて見える瞳は、明らかに驚き、戸惑っていて、そのことに少しだけ溜飲が下がる気がした。

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