RAINY CITY 01
嫌いだ、と思う。
考えるだけ、その姿を思い浮かべるだけで、恐ろしく気分が悪くなる。苛々して、何かを傷付けないではいられないような衝動が全身を駆り立てる。
耐え難い苦痛に似た、何か。
出会ったその瞬間から、ずっとその何かが自分の中で渦を巻き続けている。
限界だ、とこれまでに何度思っただろうか。
嫌いだ、苦しい、消えろ、死んでしまえ。
そんな言葉を呪うように吐き捨てながら、幾つの季節を越えたのか、もう考えたくもない。
なのに、無情にも世界は巡り続ける。
何をどうやっても、あの男の息の根は止まらない。
どうしても、あの男を消せない。
この世界からも、自分の中からも。
どうしたら消えるのか、どうしたら消せるのか、これまで散々に考え続けてきた。もういい加減、許されてもいい頃ではないか。
もう、何も考えたくない。
あの男のことなど、もう何一つ感じたくはないのに───…。
馬鹿なことをしている、という自覚はあった。
体調が最悪なことは、どうにもならない寒気や頭痛、体の重さで嫌でも分かる。一歩一歩、濡れたアスファルトを踏みしめて歩く、それだけのことが恐ろしく億劫で、少しでも気を抜くとふらつきそうになる。
帰るべきだと分かっていた。
今すぐ踵を返して、駅前でタクシーを捕まえて新宿まで帰り、アスピリンでも飲んで寝てしまうべきだと理性は訴えかけている。
もうお前は限界だろうと。
無様に倒れる前に安全な巣に帰れと、本能が命令する。
だが、臨也は、それらのシグナルを全て無視し続けていた。
何故だと問われても分からない。ただ、大人しく従うのが嫌だった。
それが他人ではなく自分の内なる声であっても、安全な場所に逃げろという命令になど、絶対に従いたくない。そんな言い訳にならない言い訳を、ぼんやりと頭痛と共に脳裏に巡らせながら、ただ歩く。
しかし、かといって、どこに向かっているというわけでもなかった。
霧雨の降る中を傘も持たずに、目深にコートのフードを被り、目的地も当てもなく、足に任せて歩き続ける。
池袋の道は、どんなに細い路地であっても把握しているが、今の臨也は自分が今どこを歩いているのかを全く意識していなかった。
その気になれば、現在地など周囲の建物を見るだけで分かるし、表通りに出れば、いつでもタクシーは捕まえられる。
土地勘があるからこそ、臨也は無防備に、そしていっそ無謀なほどに歩き続けていた。
そして、幾度目の角を曲がった時か。
「いぃぃーざぁぁーやぁぁーくうぅぅぅん!!」
地を這うようなドスの聞いた怒声が、正面からいきなり降ってくる。
「池袋に来んなって、一体何度言いや分かるんだぁぁあああっ!?」
本来は端整な顔に、凶悪に過ぎる青筋を幾筋も引き攣らせながら、平和島静雄が傍らの道路標識を発泡スチロールか何かでできているかのように、たやすく折り取る。
街灯が遠く灯っているだけの細い路地に、スチールが引き千切られる何とも言えない鈍い音が響く。その様を、臨也は足を止めて、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、他人事のように眺めた。
───シズちゃん。
名前を呼んだつもりだったが、実際には喉から音は出なかった。
ただ、しっとりと霧雨に濡れたフードの中から、仇敵を見つめる。
静雄もまた、傘は持っていなかった。後背の街灯に照らされてキラキラと輝く霧雨の中、うっすらと濡れているらしい金髪が光っている。
その様子を眺め、ああこんな感じか、と思った。
何がと言われても困るが、ただ、この時の臨也はそう思ったのだ。
キラキラと輝く霧雨を背景に憤怒の形相を浮かべ、薄金色の髪を街灯に光らせた死神。あるいは鬼神。
自分を叩き潰し、押し潰そうとするもの。
禍々しさはないが、圧倒的に危険な何か。
そんな仇敵の姿を、ただ見つめていた。
とはいっても、時間にすればほんの数秒の話だ。刹那、と呼ぶのが相応しい時間の間だけ、臨也は静雄を見つめていた。
だが、それで十分だったのか、あるいは十分に過ぎたのか。
こちらに向かって加速しながら大きく振りかぶり、薙ぎ払われた道路標識の軌道が、臨也を直撃する五十センチほど手前で、ぐいと強引に曲げられる。
そのまま臨也の側頭部を掠めるようにして斜め上方に空気を切り上げる鋭い音が、臨也の鼓膜を打った。
鼓膜が傷付くほどではなかったが、瞬間的に受けた圧迫に耳の奥が鈍く痛む。
反射的に目を細め、眉をしかめた臨也は、しかし、直ぐに元通りの無表情を取り戻して、目の前で向かい合う静雄を見上げた。
「どうしたの、シズちゃん。俺は今、抵抗してなかったけど?」
口の端を小さく持ち上げ、彼の一番嫌いな笑みを形作る。それは考えて行動した結果というより、反射と言うべきものだった。
静雄を目の前にすると、臨也の表情筋は反射的にこの表情を作り出す。
そして、それを受けて静雄は、こめかみに青筋を引き攣らせ、眦(まなじり)を吊り上げる。それがいつもの自分たちの関係だった。
だが、目の前の静雄は、ひどく嫌そうな顔をしていたものの、こめかみに青筋を引き攣らせてはいない。
あれ、おかしいな、と笑みを崩さないまま、臨也は内心で首をかしげる。と、静雄はうんざりしたような、持って行き所がないような仕草で道路標識を持ち替え、空いた右手を自分の首筋にやった。
濡れた髪から伝い落ちる雫をうっとうしげに手で払い、それから低い声で、どうかしたの?はこっちの台詞だ、と告げる。
「ナイフは家に忘れてきたのか?」
言われて、そういえばそんなものもあったな、と思い出す。
家に忘れてきたわけではない。いつもと同じように、コートの袖口に仕込んである。忘れていたのは、それを取り出すことだ。
だが、それを馬鹿正直に答える必要などどこにもない。
「へえ、シズちゃんは俺のナイフで刺されるのが趣味だったんだ? そんなに気持ちいい? 癖になっちゃうくらい?」
嫌味たらしく笑いながら、もしかしたら本当にそうなのかもしれないと臨也は思う。静雄くらいに頑丈な体にとっては、ナイフなど孫の手と変わらないのかもしれない。
だとしたら、これまで自分がしてきたことは、本当にただの無駄だったということになる。
無論、そんなことはとうに分かっていたし、今更なことではある。ただの人間である臨也の力は、天与の異能を持つ静雄には決して通用しない。それこそ出会った時から分かっていたことだ。
だが、それでも重苦しく苦いものが心にじわりと染みてゆく。
「本当に嫌になっちゃうね。いつもいつも俺は本気で刺してるんだよ? それが気持ちいいだなんて、どこまで化け物なんだか、君って奴は」
あははと嘲(あざけ)りと蔑みに満ちた笑い声を上げる。この笑い声も、静雄がひどく嫌っている臨也の部分の一つだ。
彼が何をどう嫌っているのかなどということは、臨也はとうに知り尽くしている。
知り尽くしているはず、なのに。
「臨也」
ノミ蟲ではなく臨也と、耳に心地良い低さで響く声が呼び、静雄の左手が臨也に向かって伸ばされる。
目の前に迫る手のひらに、思わず臨也は身を引きかけるが、体調の優れない体は即座には反応せず、間合いを取るよりも早く静雄の手のひらが臨也に触れる。
ぺたり、と額に手のひらを押し当てられて。
雨に濡れてほんのり冷たく感じるそれに、臨也は呆けた顔でまばたきした。
「……シズ、ちゃん?」
どうして殴らないの、と急に上手く回らなくなった舌を動かして呟くように問いかける。すると、静雄は忌々しげに舌打ちした。
「やっぱ手前、熱があんじゃねーか」
「──熱?」
そりゃあるだろうと臨也は思う。
この寒気とだるさと頭痛で、平熱だと言われたら、その方が驚きだ。
「俺は体温が高い方なんだぞ。その俺の手のひらより、手前のでこの方が熱いったぁどういうことだ、あぁ?」
「……君が平熱で、俺が熱を出してるってことだろ。考えるまでもないじゃんか」
そんな分かりきったことで凄まれても困る、と臨也は静雄を見上げながら、半ばぼんやりと答える。が、静雄的には、その回答はアウトだったらしい。
「だったら、なんで手前はこんなところをふらふらしてんだ! とっとと新宿に帰れ!!」
怒鳴られて、臨也は考える。
───帰る?
帰ってどうにかなるのか。
一人きりの部屋に戻って、何か楽になるというのか。
答えはNOだった。
何も変わらない。
このまま新宿に帰ったところで、何一つ、楽にはなれない。
何一つ、救われない。
この街を立ち去って安全な巣に帰ることで、もし何かが変わるというのなら、とうに帰っていた。
だが、自分は今もここにいる。
体調の悪さを自覚しながら、それでも池袋の街を歩き続けていた。──目の前のこの男に遭遇するまで。
それが答えだ。
だからといって、この霧雨に濡れた街に何を求めていたのか、本当のところが分かっているわけではないのだが。
「嫌だよ」
「あ"ぁ!?」
「帰っても仕方がない。何にも変わりゃしないんだからさ」
吐き捨てるように言うと、静雄のこめかみがぴくりと引き攣る。あと二、三語吐けば、完全に怒らせることができそうだった。
それでいい、と臨也は思う。
こちらの体調が悪かろうが何だろうが、手加減されるのも、気を遣われるのも、全く持ってありがたくない。
先程から頭痛も悪寒も、耐え難いほどに酷くなってきている。とどめを刺して楽にしてくれる気がないのなら、さっさと立ち去って欲しかった。
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