NOISE×MAZE
09:守るべきもの
「──ただいま」
鍵を開けて玄関に入り、条件反射的に照明のスイッチを入れながら、そう奥に呼びかけて靴を脱ぐ。
だが、返事が返ってこないことに気付き、静雄は眉をしかめた。
いつもなら明るく弾むようなサイケの声と、穏やかな津軽の声が出迎えるはずなのに、今日は何の物音もしない。
そればかりでなく、奥の部屋の明かりも付いていなかった。
何かあったのか、と表情を険しくしてしまうのは、自分には敵が多いと知っているからだ。最大の敵である臨也とは、ここ一ヵ月半ほどの間は平穏を保っていたが、決して安心できる相手ではない。
ましてや臨也は、今現在、静雄が預かる形になっているサイケの保護者でもある。
彼が何かをしでかしたのでは、と静雄が考えたのは、これまでの経験上、無理からぬことだった。
照明を順番に付けながら、用心深く奥へと進む。
狭くて小さな部屋は、やはりがらんとしていた。
初めから誰も居なかったかのような静けさだったが、部屋の隅には、三組の布団が積まれたままになっている。ただ、クローンズだけが居ない。
今日は一度も携帯電話は鳴らなかったから、二人が自分の意志で外出したということはないだろう。津軽は慎重な性格だし、サイケもそこまで馬鹿でも無謀でもない。
ならば、と視線を移して、静雄はコタツテーブルの上に白い紙が載っているのを見つけた。
「──何だ?」
身を屈めてみれば、B5サイズの紙と共に一枚のプラスチックカードが置いてある。キャッシュカードのようなそれと紙を取り上げ、ざっと眺めると、紙に示されていたのは地図だった。
地図の下に『3601』と手書きの走り書きがある意外、他に何の署名もメッセージもない。
だが、臨也だ、と静雄は断じた。
カードが何なのかは分からないが、地図は、ここにクローンズが居るということだろう。示されている町名や道路名は池袋内のもので、仕事上、普段から街を歩き回っている静雄は、大体の場所を思い浮かべることができた。
「面倒くせぇな」
はあ、と溜息をつきながらも、カードをベストのポケットに納め、もう一度地図を一瞥してから、玄関へと回れ右する。
普段なら、決して臨也の指示になど従いはしない。その結果、面倒事が十倍に膨れ上がって雪崩落ちてきたことは何度もあるが、その度に静雄はきっちりと切り抜けてきた。
だが、今回ばかりは、ただの喧嘩ではない。というよりも、喧嘩沙汰にする気が静雄にない以上、溜息をついてでも従うしかなかった。
地図が示していたのは、静雄のアパートから徒歩で十五分ほどの場所だった。
池袋といっても駅からは少し離れ、主にビジネスビルとマンションが林立している区域である。
「この角を右で……ここか?」
足を止め、その建物を見上げる。
白っぽい外壁のその建物は、新築間もない超高層マンションだった。五階までは商業テナントが入っており、その上が居住部分となっていて、静雄が今居るのは、居住部分へ直接繋がるエントランスの前である。
ここにきてカードの正体が分かり、静雄は眉をしかめながらポケットからカードを取り出す。
そうして、カードをエントランス横にあるカードリーダーにかざした。一秒ほどの間を置いて、ピッと電子音が鳴り、自動ドアがするすると開く。
溜息をついて静雄はドアを通り抜け、エントランス内の空間を見渡した。
取立ての仕事で高級マンションに足を踏み入れたことは何度もあるし──高いマンションに住んでいても、だらしのない奴はいるのだ──、新宿にある臨也のマンションに通ったこともあって勝手は分かっていたから、目を凝らして三十六階行きのエレベーターを探す。
案の定、一番端にそれはあった。
臨也のことだから、おそらくは最上階かそれに近い物件で、エレベーターも専用か、せいぜいが二世帯共有のものに違いないと踏んだのだが、当たりだったらしい。
エントランスにあったものと同じカードリーダーにカードキーをかざすと、エレベーターは大人しくドアを開く。
まるで、開けゴマだなと思いながら、静雄はエレベーターに乗り込み、一階と三十六階の表示しかない筐体の上部を眺めつつ、体が運ばれてゆくのを待った。
そしてドアが開き、降り立つと、そこはやわらかな照明に照らし出された細長く小奇麗な空間で、隅の方にゴミを出すスペースと──そこに置いておけば業者が片付けてくれるのだろう──非常ドアがあり、エレベーターから数歩の所には洒落たドアノブのついたドアがある。
うぜぇ、と心の中で、何度目か知れない溜息を零しながら、静雄はそのドアノブに手をかけた。
すんなりとドアは開き、中に入ると。
「やあ、シズちゃん。迷わずに来られたみたいだね」
いつもの胡散臭い笑顔の臨也が、上がり口に待ち構えていた。
おそらくは専用エレベーターが作動した時点で、室内に知らせが行くようになっているのだろう。
「──手前なぁ」
「あ、文句言うのは無しだよ。今回は俺が最大限、譲歩したんだから、むしろ褒めてもらわなきゃならない。なにしろ、不動産屋にねじこんで無理矢理、一日で契約を済ませたんだから」
普通なら収入証明とか色々居るんだよー、それでも登記とかで数日かかっちゃったけど、と笑う臨也が最大限に鬱陶しい。だが、ギリギリのところで静雄は自重した。
新宿に根城を持つ臨也が、よりによって池袋のマンションに居ること、サイケと津軽も連れてきているらしいということが、全ての答えだったからだ。
やり方は気に食わない。だが、怒るほどのことではない。
だから、目を閉じて深呼吸を数度繰り返し、気を落ち着けてから、目を開け、臨也を見つめた。
「二人も居るんだろ」
「勿論。シズちゃんが来るの、待ってたんだよ。今日は早く帰る予定だって津軽に聞いてたから、それなら御飯もまだだろうと思ってさ。いつまでもここに居ても仕方ないし、上がりなよ」
「──分かった」
確かに、玄関先で話していても腹が膨れることはない。
臨也のことだから、引越し記念日とでも理由をつけて豪勢な料理を作っているだろうと踏んだ静雄は、靴を脱いで用意されていたクマさんスリッパに足を通す。
どうしてクマさんなのかとは聞くだけ無駄だ。目の前の臨也は、新宿のマンションと同じくウサギさんスリッパを履いているのだから。
ちなみに、サイケはにゃんこスリッパ、津軽はわんこスリッパである。
「本当はさぁ、もっと高いとこが良かったんだけど、今すぐ入れる物件で一番高い場所がここでさ。俺としては、来年完成予定の四丁目の超高層の最上階を狙ってたんだけど、計画が狂っちゃったよ。まあ、また引っ越せばいいんだけどさ」
「池袋に来んなっつってるのに、なんで池袋の物件を狙うんだよ。それ以前に、手前は、どうしてそんな高いところが好きなんだ。高層マンションなんて不便なだけで、住むメリットねえだろ」
「えー、だって気分良くない? 俺、見下ろされるの嫌いなんだよね。だからシズちゃんも大嫌い」
「手前が低いだけだろ」
「俺は低くないよ。175cmは平均身長を軽く超えてる。シズちゃんがでかすぎるんだ。ウドの大木って知ってる?」
「──手前、本当に殴られたいらしいな。ピカピカのマンションをボロボロにして欲しいのか?」
「やめてよね、俺にとっても安い買い物じゃないんだからさ。必要なくなったら売るんだから、綺麗に使ってよ?」
「手前の持ち物の資産価値なんざ知るかよ」
口喧嘩未満の言い合いをしながら、臨也が廊下の突き当たりのドアを開ける。そこは十畳以上はあると見える広いリビングだった。奥にはダイニングキッチンがあるらしい。
そして、何よりも早くサイケが飛びついてきた。
「シズちゃーん!」
正面から抱きついてきて、静雄の胸に頭をすりつけながら猫のように甘える。
「今日からね、皆でここで一緒に住むんだよー。嬉しいなぁ嬉しいなぁ」
サイケのその言葉に、やっぱりか、と静雄は溜息をついた。
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