「おい、臨也」
「何ー?」
 ダイニングキッチンの臨也に向かって呼びかけると、暢気そうな声が返ってくる。
「俺の意見は無視なのか」
「そんなの当たり前じゃん。どうして俺がシズちゃんの意見なんか聞かなきゃならないわけ? ていうより俺は譲歩しただろ? 俺の事務所は新宿なんだよ? 通勤手当ももらえない問題社員のシズちゃんの事情を十分すぎるくらい考慮してあげたじゃん」
「──手前とは一度、きっちり話しつけなきゃなんねぇなぁ」
「はいはい、いつかね」
 ムカつく野郎だ、と心の中で毒づきながらも、胸元に抱きついたまま、こっちを見上げているサイケに静雄は怒りを殺(そ)がれた。
 サイケの頭を、安心させるようにぽんぽんと撫でてやりながら、傍に来た津軽に目を向ける。
 すると、津軽はきまり悪げにまなざしを伏せながら言った。
「アパートを出る時、連絡しなくて悪かった。臨也がするなって言うから……」
「ああ、ノミ蟲ならそう言うだろうな。いいぜ別に。あいつがいつもしてることに比べたら、今回のことは可愛すぎるくらいだしな」
「……そうなのか?」
「おう。だから、サイケも心配すんな。俺は怒ってねぇから」
「……ホント?」
「ああ」
 うなずくと、良かった、とサイケは笑顔で離れる。
 抱き付いていたのは歓迎に加えて、破壊神のストッパーの意味もあったらしい。
「あ、そうだ。静雄の分の着替えとかも持ってきてあるから、取りに帰る必要はないぜ」
「そうなのか。そりゃ助かるな」
「シズちゃんのお部屋はあっちだよ。荷物は、俺と津軽で荷造りして運んだから大丈夫。臨也は悪さしてないから」
「そうか、悪かったな」
 よしよしと褒めて欲しそうなサイケの頭を撫でてやる。
 するとサイケは嬉しそうに目を細めたから、ますます仔猫っぽい印象になった。

「シズちゃーん、御飯の用意手伝ってよ。お客さんじゃないんだからさぁ」

 ダイニングキッチンから臨也が呼び立てる。
 仕方ねぇな、と静雄はそちらへ向かった。
 テーブルの上を見れば、案の定、料理の山である。昔から、臨也はマイイベントやマイ記念日が好きだったが、その性癖は今も変わっていないらしい。
 ざっと眺め、あとは盛り付けだけらしいと見当をつけた静雄は、ワイシャツの袖をまくり上げて手を洗った。
 それから並べてある鍋の蓋を順番に開けて中身を確認してゆき、正体はカボチャらしいポタージュをスープ皿に取り分け、バットの上の揚げ物を大皿に盛り合わせる。
 そうして一通りの作業が終わったところで、臨也はクローンの二人も呼んだ。
 四人で豪勢な食卓を囲み、手を合わせる。

「いただきまーす」

 臨也の性格がどうあれ、作る料理は間違いなく美味い。
 黙々と箸を口に運びながら、静雄は向かい側に座る臨也の様子を窺った。その視線にすぐに気付いて、臨也は険のあるまなざしを向けてくる。
「何?」
「いや。この生春巻き、美味いな」
「そりゃ今朝、築地に上がったばかりのピチピチの車海老が入ってるからね。これをまずいって言ったら放り出すよ」
「言わねぇよ」
 答えながら、静雄はかすかに口元に笑みを刻む。
 ──同意もないまま、なし崩しに同居に持ち込まれたものの、しかし、臨也自身は決してそれを楽しんでいるわけではない。
 不動産屋との契約をごり押しししたのも、この豪勢な料理も、すべては策略ではなくヤケクソの結果だ。表面上はひどく楽しそうな臨也の瞳に、それとはかけ離れた色を読み取って静雄は少しだけ満足する。
 同居には賛成だったが、だからといって好き勝手されて嬉しいわけがない。
 だが、臨也の方が心底面白くないと思っているのなら、今回はそれ以上の不満のない自分の勝ちである。
「この変わり揚げも美味いな」
「俺が作ったんだから当然でしょ」
 本当に美味い、と満足して、静雄は咀嚼したものを飲み込んだ。

*       *

 超高層マンションに住むメリットというのは、実のところ、あまりない。
 窓はほんの少ししか開けられないし、開けたら風は強いし、都会の上空は全ての騒音が壁面を反響して登ってくるせいで、驚くほどうるさい。
 ガスがなくIH調理器しかないから調理の仕方には工夫がいるし、目の前のコンビに行くのでさえ、いちいちエレベーターを使わなければならないし、万が一、エレベーターが止まったら自力で階段を下りる以外に脱出方法はない。
 ここは最新かつ最上階なだけあって、エレベーターが各駅停車になることもないし、ゴミ出しも備え付けのディスポーザーに入らないサイズのものは、玄関横のスペースに置いておけば良いのだから、まだマシな方である。
 だが、この先ここでずっと暮らすのかと思うと、元より物ぐさではないものの、さほどマメでもない静雄は、毎日エレベーターを昇降することを考えてげんなりする気分を抑えることはできなかった。
「確かに部屋も広いし、風呂も広かったけどよ……」
 平均身長を遥かに超える長身の静雄が手足を伸ばして入れる風呂は、普通のアパートには存在しない。人体工学が駆使された不思議な形のたっぷりとした湯船は確かに気持ち良かった。
 そして、静雄のために用意された部屋は、東向きの部屋で八畳ほどの広さがある。
 クローゼットは作り付けで、小さなライティングディスクとセミダブルベッド、小型のハイビジョン液晶テレビが載ったサイドテーブル以外、今は何もない。
 他の三人の部屋も造りは同じということで、玄関からリビングに続く廊下を挟んで向かい側の二部屋がサイケと津軽、隣りが臨也の部屋ということになっていた。
 全体としては広々とした4LDKで、四人で暮らすには何の問題もない。壁の厚みも確保されているようで、隣りの部屋の物音は殆ど聞こえなかった。

 エレベーターは面倒くさいが、専用ではあるし、良い物件なのだろうな、とベッドに腰掛けた静雄は、煙草に火をつけながらぼんやりと考える。
 この部屋だけでは煙草を吸ってもよいと臨也が許可したのは、将来的にはここを転売する気らしい彼としてはギリギリの譲歩だろう。徹底的にハウスクリーニングをしない限り、壁や天井に染み付いたヤニ臭さは消えるものではない。
 だから、静雄も一応の譲歩として、室内ではあまり吸わないようにしようとは思っていた。今も換気のための窓は開けてある。
 もともと、どちらかというと気分転換の目的で吸い始めた煙草であり、味が特に好きというわけでもなければ、ニコチン中毒でもない。
 以前、給料日前に三日ほど禁煙を強いられたこともあるが、別に苦にはならなかった。だから、その気になればいつでも止められるだろう。
 ただ、手持ち無沙汰な時や、気に食わない客の前で気分転換を図りたい時、あるいは無言の威圧感を出したい時には良い小道具だったから、今のところ、禁煙するつもりはなかった。
「そろそろ寝るかな」
 これまで住んでいたアパートに比べると職場までの距離は少しだけ遠くなったが、徒歩での通勤時間が五分程度伸びたくらいで、苦にするほどのものではない。
 先程クローゼットの中を確認したら、トレードマークになっているバーテン服も丸ごと持ち込まれていたから、明日はこのままここから出勤していけば良かった。
 朝食を作るのもこれまでと変わるわけではないから、目覚ましは同じ時間でいいか、と静雄は煙草を消して、ベッドサイドの時計のアラームを確認する。
 そして明かりを消そうと、照明リモコンを手に取った時。
 ノックの音が二度、響いた。

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