「シズちゃん、まだ起きてる?」

 間違えようがない。臨也の声だ。
 サイケの声も同じなのだが、何故か静雄は聞き間違えたことがなかった。口調や抑揚が似ているようで微妙に違うからかもしれない。
 それは臨也も同じで、津軽と静雄の声を混同されたことはなかった。
「──チッ」
 短く舌打ちしながらも、静雄は立ち上がる。放っておけば、静雄が根負けするまでドアを叩き続けるだろう。臨也はそういう奴である。
「──なんだ」
「あ、良かった。起きてたね。もう十一時半だから、寝ちゃったかと思ったけど」
 ドアを開けると、パジャマの上にカーディガンを羽織った臨也が笑顔で言った。
 静雄はどちらかというと早寝早起きタイプで、その気になれば徹夜など何ともしない体力の持ち主ではあるが、基本的に生活は規則正しい。だから、仕事が遅くならない限りは、日付が変わる前に就寝してしまうのが普通だった。
「ちょうど寝るとこだ。──何の用だ?」
「うん、ちょっとお話。立ち話でもいいけど、とりあえず入れてくれない?」
 にっこり笑って言いながら、臨也は素早く背後に目線を走らせる。
 後ろにあるのは、津軽の部屋であり、その隣りはサイケの部屋である。二人に聞かせたくない話か、と静雄は合点した。
「入れ」
 仕方がない、とドア前の空間を譲って、臨也を室内に招き入れる。そして、ドアを閉めた。
「あー、早速煙草吸ってたね」
「窓は開けてた」
「まあいいけど。部屋でなら吸っていいって言ったのは俺だし」
 ぼやくように言いつつ、臨也は部屋を横切ってベッドに腰掛ける。静雄はその隣には行かず、ドアに寄りかかるようにして向かい合って立った。
「こっち来ないの?」
「御免こうむる」
「本当に情緒がないよねえ、シズちゃんって」
 わざとらしく溜息をつくが、本当に静雄が隣りに腰を下ろしたら、それはそれで嫌な顔をするのだろう。予想は付いたが、しかし我が身をもってしてまで嫌がらせをする気は起きず、静雄はただ臨也を見つめる。
 すると、肩をすくめて臨也は口を開いた。
「話ってのは、あいつらのことなんだけどさ」
 手持ち無沙汰なのか、臨也の左手がぽんぽんとクッションを確かめるように羽毛布団の上で軽く跳ねる。
「あの二人って四六時中、いちゃいちゃしてるけど、その割には何にも知らないみたいなんだよね」
「──?」
 意味が掴めず、静雄が軽く眉をしかめると、臨也は呆れたのか諦めたのか判じがたい仕草で肩をすくめた。

「二人の関係は、キス止まりのプラトニックなままだってこと。性的なことは多分、全然知らない」

 あからさまな言葉で言われ、しかし、静雄はますます眉をしかめる。
 それが一体どうだというのだろう。ラボ育ちのクローンで、誕生から四年しか経っていないのであれば、別段おかしなことではない。普通に生活しているうちに、追々その辺りの知識も覚えてゆくだろう。──具体的に、性行為の仕方や赤ん坊の作り方を訊かれたら、返答には窮するが。
 だが、そんな静雄の反応を見て、臨也の方は顔をしかめた。
「シズちゃん、全然事態の重要さを分かってないね」
「重要さって何だ。そんなものあるか?」
「あるよ! じゃあ訊くけど、シズちゃんはあの二人が一線を超えて平気なわけ? 俺たちのクローンが裸でくんずほぐれず絡み合ってるのを想像できる?」
 言われ、想像する前に、想像しようとする事すら静雄の本能が拒絶した。
 けれど。
「──想像なんかできねぇよ。でもお前、何か勘違いしてねえか? あいつらはあいつらで、俺らじゃねえ。誰を好きになろうと、誰とそういうことしようと自由だろ」
 まあ相手がお前のクローンってのがアレだが、サイケは悪い奴じゃねえし、男同士だけど二人は好き合ってるみたいだし、と言うと、みるみるうちに臨也の眦(まなじり)がつり上がる。
「いいわけないだろ! 俺は嫌だよ、俺のクローンがシズちゃんのクローンにどうこうされるなんて!」
「津軽は俺じゃねえだろ。手前自身がヤられるってわけじゃなし、どうしてそんなに血相変えてんだ」
「俺自身がどうこうされるくらいなら、どんな手を使ったって君たちを殺すよ!!」
「だからしねぇっての。落ち着けよ」
 あまりの馬鹿馬鹿しさにキレる気にもならず、静雄は溜息をついてドアから離れ、部屋を横切ってサイドテーブルに置いたままだった煙草を手に取った。
 その間、臨也は、シズちゃんに落ち着けって言われるなんて……!、とプルプルしている。
 プライドが傷付いたとでも言いたいのだろうが、知ったことではない、と静雄は細く明けたままだった窓に向かって紫煙を吐き出した。
「──で? そんな話のために手前は俺の安眠を妨害しに来たのか」
「そんな話のためだけど、まだ終わってないよ。──俺が言いたいのは、余計な知識を二人に与えるなってことだ」
 気を取り直したように、臨也は静雄に向き直る。
「テレビには有害チャンネル防止フィルタを付けてあるし、そのうちパソコンを玩具代わりに渡そうと思ってるけど、インターネットには接続させない。シズちゃんも、そういったネタを日常会話に持ち込まないように気をつけてよ」
「……俺は元々、その手の話をするのは苦手だ」
「そうだろうね、君の彼女の話なんて聞いたことないからさ。とにかく、シズちゃんが風俗行くのは勝手だけど、デリヘルをうちに呼ぶのは禁止。ピンクちらしや街頭で配ってるティッシュを持ち込むのも禁止。いい?」
「誰がデリヘル呼ぶんだ誰が!」
「シズちゃん」
「呼ばねぇよ!!」
「あ、風俗行くのは否定しないんだ? そうだよねえ普通の女の子じゃ怖がって付き合ってもらえないもんねえ。風俗のお姉さんたちの世話になるしかないだろうと思ってたら、やっぱりそうなんだ。そっかー、シズちゃんって本当に素人童貞なんだー」
「っ、人の下半身事情なんざどうでもいいだろうが!!」
「シズちゃーん、そこは否定しなきゃ。それじゃ肯定してるのと変わんないよ」
「うるせえ!! とっとと出て行けノミ蟲!!」
 ブチンと堪忍袋の緒を切った静雄は、臨也のパジャマの襟首を猫の仔よろしく掴み上げる。
 そのまま、苦しいよ喉が絞まるってばとうるさく騒ぐのも構わず、ドアを開けて廊下に捨てた。
「二度と入って来んなボケ!!」
「あ、とにかくシズちゃん、約束はよろしくねー」
「知るか!!」
 廊下に座り込んで喉をさすりながらの臨也の言葉を切り捨て、荒々しくドアを閉める。
 そして気分を落ち着けようと、頭をがしがしと掻いた。
「ったくあのノミ蟲は……!」
 どっかりとベッドサイドに腰を下ろし、目を閉じて二十から数字を逆順に数える。気分転換にいいらしいぞ、とトムに教えられた方法だ。
「……ニ、一、ゼロ」
 最後まで数え終えて息を吐き出すと、少しだけ落ち着いた。
 そして改めて、風俗云々の部分は抜いて、臨也が言ったことを考える。
「──どう考えたって余計な世話だろ」
 ラボは無菌状態の温室だったかもしれないが、俗っぽさの極地で踊っている臨也と共に暮らして、俗な知識と無縁でいられるはずがない。
 加えて、おっとりした津軽はともかくもサイケは馬鹿ではない上に、目敏い。惹かれ合っている二人が共に成熟しつつある思春期後半の肉体を持っていれば、自然とそういうことにも目覚めていくだろう。
 当たり前のことなのに、どうしてああも臨也は拒絶反応を示すのか。
 少し考えて、もしかしたら、と静雄は一つの可能性に思い当たった。
「あいつんとこは妹たちしかいねぇからなぁ。サイケのことも妹と同じように考えてんじゃないのか?」
 静雄の方は弟が一人で、弟の異性関係がどうなっているかには基本的に興味がない。初体験がいつなのかも知らないし、今の相手は聖辺ルリかもしれないが、とにかくいい人と上手くやっていればいいな、とその程度だ。
 だが、臨也の方は、妹たちには──兄の危惧など何の意味もないとしても──ある程度の貞操観念を持っていて欲しいと思っているのかもしれない。少なくとも、妹たちが男とどうこうなっている図は想像もしたくないのではないか。
 そして、その延長線上にサイケも居るのではないか、と静雄は想像してみる。
「……妹の兄貴ってのも大変なもんだな」
 姉や妹という響きに憧れたこともあるが、自分のところは男二人で良かったのかもしれない。少なくとも、がさつな自分には姉妹の世話は無理だろう。
 そう結論付けながら、静雄は立ち上がって窓を閉め、明かりを消す。
 曲がりなりにも同居を始めた以上、ある程度のことは妥協も仕方がないと思っているが、この件に関しては馬鹿馬鹿しすぎる。
 なるようになればいいだろ、と呟いて、静雄はゆっくりと眠りの世界へと落ちていった。

to be contineud...

東池袋四丁目には、2011年に53階建の超高層マンションが完成するそう。
臨也は絶対、最上階に入居したがると思います。

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