NOISE×MAZE
05:目と目が合ったその瞬間に
久しぶりに訪れた池袋は、よく晴れており、相変わらず大勢の人間が行き交っていた。
足早に過ぎてゆく者、道を探すかのようにためらいがちな者、立ち止まる者、ずっとそこに座っているもの、立ち話をしている者。
雑多という意味では、臨也が数年前から本拠にしている新宿の方が上かもしれない。少なくとも、街としての規模はあちらの方が大きい。
だが、池袋には新宿にはない何かがある。
渋谷から中心を移してきたカラーギャング、秋葉原には納まり切らずにはみ出してきたサブカルチャー、それらの新興勢力に加えて、旧来から存在する非合法組織や、非合法ではないものの法律すれすれの何か、あるいは合法的な企業や集団、果ては地方や海外からの旅行者。
それらが全て混沌と絡み合って、池袋という街を作っている。
さしずめ、今の日本という国の大都会、それをそのまま縮図にしたようなこの街を、臨也は心の底から愛していた。
「やーっぱりこの空気、たまんないなぁ」
この一ヵ月半、臨也は別方面での仕事が立て込んでいたせいで、なかなか池袋までは足を伸ばすことができなかった。
まったく来訪しなかったわけではないが、それこそ三十分と居たためしがない。
慌しく情報を集め、取引を終えて、再び電車やタクシーに乗って新宿に戻ったり、あるいは他方へ赴いたりする。そんなことの繰り返しだった。
「ネットや携帯で情報は幾らでも流れ込んでくるけど、やっぱり生身で感じないとな」
臨也は、某フリーライターもどきが唱える都市に意思があるという説を肯定しているわけではないが、都市独特の空気というものは在る、と思っている。
それは生身の人間が作り出す気配だ。ありとあらゆる人間の思惑が絡み合い、一つの生き物のように流れを作ることがある。
臨也は、その流れを観察し、自分が面白いように力を加えて押し流すのが何よりも好きだった。
だが、それを的確に行い、更に楽しむためには、少なくとも下準備を整え終わるまでは現場となる街に自分が居なければならない。さもなければ、流れを読み違えてしまうことも有り得るからだ。
そんなわけで、臨也は今日も心楽しく池袋の歩き出した、その時だった。
「い〜〜ざ〜〜やぁあああぁっっ!!」
正面から突然聞こえてきた、地獄の底の羅卒が上げた怨嗟のような声に、思わずぎくりと臨也は足を止める。
携帯電話の画面を見ていた目線を正面に上げれば、案の定。
「シ、シズちゃん?」
ほんの三時間ほど前に、自宅マンションで朝食を一緒にとっていた相手が、閻魔大王も真っ青の形相で仁王立ちしていた。
「手前、池袋には来んなってあれ程言ってるだろうがぁぁぁ〜〜〜っっ!!」
「え、ちょ、ちょっと待ってよシズちゃん!」
「うるせえええぇっっ!!」
目と目が合った途端、問答無用とばかりに、静雄の右手が手近に合った道路標識を掴む。
ヤバイ、と反射的に臨也は身体をひるがえして駆け出し、歩道の端の縁石を勢いをつけて蹴り付け、単に曲がるだけでは不可能な勢いと角度をつけて、逃走する角度を変える。直後、半秒前まで体のあった場所を、凶器と化した道路標識が高速でかすめていった。
「なんで追っかけて来るんだよ!」
高校時代から慣れ親しんだ街の中を全速力で逃げながらも、臨也は後方に向かってそう怒鳴る。
だが、追いかけてくる静雄は、まるっきり赤い布を振られた闘牛だった。臨也が視界に入る限り、どこまでも追いかけてくる。
「クソッ!」
舌打ちして、臨也は単に道を走るだけではない本格的な逃走に移った。
角を曲がったところで、以前にもこうして利用したために内部構造を把握しているビルの通用口に飛び込む。そしてそのまま階段を二階分駆け上がり、廊下を駆け抜けて外付けの非常階段を更に駆け上がる。
五階まで上ったところで、勢いをつけて踊場の手すりに身体を跳ね上げ、そのまま全身のばねを使って一メートル余りの距離を跳躍し、隣りのビルの屋上に移った。
当然のことながら、静雄もその身体能力に任せてビルの外壁をよじ登ってくるため、更にビルを移動し、静雄の死角に入ったところで階段を利用して階下に居り、二階の窓からすぐ下にある自動販売機を足場にして道路に飛び降りた。
そこで真っ直ぐに走ったのでは、上方に居る静雄からすぐに発見される。だから、臨也は狭い路地や、ビルの表玄関から通用口を縫いながら、どこまでも走った。
そうして、やっと撒いた、と確信が持てたのは、30分近くも走り続けて駅の東口まで辿り着いた時だった。
コンクリートの柱の影で足を止め、こめかみを伝い落ちる汗を拭いながら、背後を振り返る。
「さすがにもう、追ってこないか」
街中に出ていたということは、当然ながら静雄も仕事中である。そう長時間、臨也と一銭にもならない追いかけっこをしているわけにはいかないだろう。
それにしても。
「……訳分かんないよシズちゃん!」
臨也とて、この一ヶ月半の間、頻繁に自宅で食事を共にする仲になったとはいえ、静雄と和解したつもりはなかった。
せいぜいが一時停戦、そんな感じだろう。
ただ、自分が作った夕食をつるりと平らげる相手には、つい嫌悪を忘れがちになっていたし、また、サイケや津軽が共に居る空間で静雄からの敵意を感じることもなかった。
だから、つい気を抜いていたのだ。
いつものように身構えも警戒もせずに池袋の駅で降り、サンシャイン60通りを歩き出した。
だが、結論から言うなら、池袋の喧嘩人形は喧嘩人形のままだったということだ。追いかけられたのは、うっかりしていた自分の失態に他ならない。
けれど。
「……波江が、いい毒薬があるって言ってたよな」
臨也が久しぶりの殺意を覚えるには、今の逃走劇は十分に過ぎたのである。
* *
ピンポーンとやわらかなチャイム音が鳴ったのは、いつもとそれほど時刻の変わらない午後九時半過ぎだった。
既に暗証番号は教えてあるため、臨也が何をしなくとも彼らはマンションの玄関先に現れる。
「よう」
「……いらっしゃい」
お邪魔します、とオリジナルに似て少しおざなりにではあったが、それでもきちんと頭を下げる津軽のことは、
「いらっしゃい津軽!」
と三日ぶりの再会に喜色満面で抱きつくサイケに任せ、臨也はひんやりとした沈黙を保ったまま、静雄と共にダイニングキッチンに移動した。
こうして来訪した時、津軽とサイケがリビング、臨也と静雄がダイニングキッチンというのは、もうお約束になっている定位置である。
時には臨也が仕事部屋にこもることもあるし、静雄が疲れたからと二階の寝室で仮眠を取ることもあるが、基本的に終電間近まで、あるいは終電が過ぎて就寝準備を始める頃までは、ダイニングキッチンで遅めの夕食をとったり、お茶を飲んだりというのが、二人のここ一ヵ月半の『日常』だった。
「夕飯は?」
「今日はもう食った。だから茶だけでいい」
「そう」
分かったとうなずくだけはうなずいて、ケトルを火にかける。
そうしておいて、臨也はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした静雄と向き直った。
「あのさあ、シズちゃん」
「ん?」
臨也は立ったまま、上から見下ろす角度で静雄を見つめる。
当然ながらひんやりした表情のままだったため、この時点で喧嘩を売っていると受け止められて当然だったのだが、静雄は軽く眉をひそめただけで、続く言葉を待っている。
その時点で、やはりおかしい、と臨也は思わざるを得なかった。
「三日前の話だけど。池袋の街中で、君は俺を殺す気で追いかけてきたよね、これまでと同じように」
「──ああ」
臨也がそう切り出すと、思い出したのだろう、今度は思いっきり嫌そうに静雄は眉をしかめる。
「ありゃあ手前が池袋に来るからだろ。来んなって散々言ってるのによぉ」
「──うん、そうだよね。その点は前と一緒だ。身に着いた習性を変えるのはシズちゃんみたいな脳筋は、とーっても難しいことだろうから別に不思議じゃない。でも、俺が納得できないのはさ」
臨也は、バンと音を立ててダイニングテーブルを手のひらで叩いた。
「俺が池袋に行くのは駄目なのに、なんで君がここに来るのは平気なわけ!?」
そう、臨也があの日の池袋逃走劇からイラついていたのは、この矛盾だった。
静雄が臨也が池袋に来るのを嫌がるのは、三年前に臨也が静雄を嵌めた時以来のことだから、改めてとやかく言うことではない。
だが、逆に静雄が新宿へ、それも臨也のプライベート空間に足を踏み入れて、どうして何の反応も見せないのか。
あるいは、朝には普通の顔で食事を作り、それを一緒に食べていたにもかかわらず、何故、数時間後に池袋の街に臨也が足を踏み入れた途端、鬼の形相で追いかけられなければならないのか。
あまりにも理不尽だった。
だが、しかし。
「だって、ここは池袋じゃねえし」
「───はあ?」
「この部屋も手前の匂いが染み付いてっから、返って気になんねぇしな」
何その理屈、と臨也が言いかけた時、背後でケトルが勢いよく蒸気を上げ始める。
舌打ちして臨也は火を止め、用意しておいたティーポットに湯を注ぎ入れた。
そしてそのまま、大型のティーポットとティーカップ2客をテーブルまで運び、自分も椅子を引いて、静雄に向かい合って座る。
この件は、きっちり説明させなければ自分には理解できない。そんな確信に似た予感が、臨也にそういう行動を取らせたのである。
そうして、
「悪いけどさ、シズちゃん。俺には君の言ってること、全っっ然!!、理解できない。分かるように説明してくれない?」
改めて目を見据えて問いかけると、やはり静雄は嫌そうな顔になった。
もともと静雄は言葉で何かを説明することを得意としていないし、ましてや、客観的な事実ではなく自分の内面ともなれば、適当な言葉を選ぶだけでも面倒くさく、難しい作業だろう。
だが、臨也としては一晩かけてでも、その作業をしてもらわなければならなかった。
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