「考えてみれば、この件について今まできちんと話したことなかったけどさ。そもそもシズちゃんは、匂いで人間を識別してんの?」
そろそろ頃合だと見てティーポットの茶葉だけ取り出し、中身をカップに注ぎながら問いかける。
とぽとぽ、というやわらかな水音と、湯気と共に立ち昇る豊かな香りには癒し効果があるはずだったが、今夜に限ってはイマイチ効果が薄い。
そのことにすら苛立ちながらも、極力気分を抑えて静雄と目を合わせる。すると、あっさりと静雄は首を横に振った。
「いいや、別にそういうわけじゃねえ」
「でも、俺のことはいつも匂いで発見してるんだろ。臭いって、これまで何度言われたやら」
「ああ、手前の臭いは分かるからな」
「──俺って、別に体臭きつくないと思うけど」
ティーカップを静雄の前に押しやりながら、かなり嫌な気分で臨也は眉をしかめる。
別段、潔癖症というわけではないが、臭いと言われて平気な人間は文明社会には居ないだろう。
だが、臨也の言葉に、静雄は再び小さく首を横に振った。
「体臭とはちょっと違う。なんつーか……気配とか、そんな感じだな」
「はあ?」
「手前が池袋に来ると、何かすっげー嫌な感じがすんだよ。ざわざわ、ムカムカして落ちつかねえ。そのすっげー嫌な感じを言葉で言うと、一番近いのが、臭え、なんだよな。真夏の生ゴミ収集車が、すぐそこにあるような感じつったら分かるか?」
「分かんないよ!」
言うに事欠いて、真夏の生ゴミ収集車とはなんだ。
思わず臨也はキレかけるが、静雄はといえば、のんびりとティーカップに口をつけて熱々の茶を、そーっと啜っている。
この野郎、と本気で殺意を覚えながらも、これではいつもと逆だ、と自分を静めることに専念しようと、類似したもう一つの質問の方に意識を集中した。
「……じゃあさ、ここは君の言葉を借りるなら、生ゴミ収集車のガレージなんだけど。そこに足を踏み入れるのは平気なわけ?」
「だから、ここは池袋じゃねえっつってるだろ」
「だから、それが意味分かんないんだってば」
「何で分かんねえんだよ」
「君が日本語喋ってくれないからだろ。頼むから宇宙人語じゃなくて人間の言葉で話してくれよ」
「──ああ!?」
心底の嫌味をこめて言うと、静雄の表情がぴくりと反応して、サングラスを外した目が剣呑に細められる。
だが、ダイニングキッチンが静まり返った瞬間を計ったように、リビングから楽しげなサイケの笑い声が響いてきて。
は、と気付いたように静雄は眉をしかめ、一つ溜息をついて肩の力を抜いた。
「……ノミ蟲、俺を怒らせんな。一応、これでも努力してんだからよ」
「──サイケの前で暴力を振るわないように?」
「津軽もだ。言っただろ、俺にとっちゃ、あいつは幽と同じようなもんだってな」
つまりは、自分が暴力を振るうところを見せたくない相手、ということだ。
もっとも、静雄が暴力を振るったところで、幽にせよ津軽にせよ、静雄を軽蔑したり嫌ったりすることはないだろう。それが肉親というものだ。
だが、だからこそ静雄は彼らに自分の暴力を見せたくない。怒りの衝動を制御できない自分を見られたくないのだ。
その理屈と心情は、臨也には手に取るように理解できた。
「──了解。君の努力に免じて、俺もこの部屋に居る間は気をつける。俺だってサイケは可愛いしね。で? 俺の質問に対する答えは?」
重ねて問いかけると、静雄は溜息をついた。
本当に自分の心情や感覚について、言葉で説明するのは苦手なのだろう。
視線を手元に投げかけながらティーカップを持ち上げたり下ろしたり、そんな所在無げな仕草から言葉を探しているのが良く分かる。
「──まあ、一言で言いや、ここだとお前の臭いは気になんねえんだよ。臭いは分かるけど、ムカムカするような感じはしねぇ。お前の部屋で、お前の臭いがする。それだけだ。ムカムカしねぇから、腹が立って仕方ないこともねえ」
「つまり、俺の匂いに過敏に反応するのは、池袋の街だけってこと?」
「最初っからそう言ってるだろ?」
宇宙人語でね。
心の中でそう突っ込みながら、臨也は静雄の言葉を吟味し、そして程なく一つの結論に達した。
「シズちゃんさあ、本当に御先祖に狼男かなんかいるんじゃないの?」
「──ああ!?」
「いちいち凄まないでよ。この場合、悪口言ってるわけじゃないんだから。──つまりさ、君のその反応って、犬そっくりなんだよ。犬っていう例えが嫌なら、匂いでコミュニケーションをとる動物と言い換えてもいい」
「……どういう意味だ」
「こういうこと」
溜息混じりに臨也は解説を始めた。
「これくらいはシズちゃんも知ってると思うけど、犬のオスは匂い、つまりは電信柱なんかのマーキングで個体を識別して、縄張りを主張するんだ。犬の小便ってのは大したものでね、相手が自分より強いか弱いかまで分かるらしい。そうして自然に、弱い奴は強い奴の支配下に入るわけだ」
「……それが俺の話にどう繋がる」
「静ちゃんが池袋の街で感じてるのも、これと一緒だってことだよ。池袋は君の縄張りで、君は自分の縄張りの中であっても、自分よりも弱い個体の臭いは気にしない。気にする必要なんかないからね。
そして俺は、昔は池袋にいたけれど、君との勢力争いを経て新宿に場所換えした仇敵だ。能力的には互角かちょっと上。そんな仇敵が、再び池袋という君の縄張りにちょっかいを出すために現れたら? 全力で追い払いにかかるのは当然だろ?」
「──なんで手前が俺より上なんだ。ノミ蟲のくせによ」
「あれ、突っ込むとこはそこ?」
きちんと聞いてたんだ、と感心しつつも臨也は笑う。
久しぶりに長口上を聞かせたのだが、今日に限っては許容量OKだったらしい。
「ま、その辺はいいじゃない。とにかく、君にとって池袋は自分の縄張りであるように、このマンションは俺の縄張りだと感じるから、他人の縄張りを荒らす気のない君は、ここで暴れる気にはならない。ほら、理屈は通るだろ」
そう言って首をかしげて見せると、静雄は腕組みをして考え込む。
その様子を、単細胞のシズちゃんが考えても仕方ないのになぁ、などと思いつつ、臨也は反応を待った。
「確かに理屈は通るな」
「でしょ? という訳で、シズちゃん=わんこは決定ね。平和島犬雄ってのも悪くないんじゃないの?」
「───手前、本気で死にたいらしいな」
「まっさかぁ。第一、ここは俺のテリトリーで、可愛い弟分までいるんだから暴れちゃ駄目だろ?」
「……チッ」
舌打ち一つですんだ。
そのことに、何よりも臨也自身が驚く。
普段なら、これだけのことを言ったらティーカップは粉々、ダイニングテーブルは壁か天井にめり込んでいるだろう。
だが、静雄は不機嫌そうに眉をしかめたまま、ぬるくなった茶を飲み干し、お代わり寄越せ、とティーカップを突き出してくるだけで、それ以上のリアクションはない。
感動すらしながら臨也はティーカップを受け取り、ティーポットに被せてあったコジーを外して、熱い茶を注いだ。
本当は、静雄の返答次第でこの茶に波江から調達した毒を入れるつもりだったのだが、どうやらその必要はないらしい。
奇妙なこともあるものだった。
「じゃあさ、理屈が分かったところで取引しない?」
「取引だぁ?」
「そ。俺だって別に悪だくみするためだけに池袋に行くわけじゃないよ。純粋に仕事で行く方がよっぽど多い。そういう時は事前連絡するから、俺の存在を見てみぬ振りしてくれてもいいんじゃないかい」
「駄目だ」
考える素振りすらない即答だった。
「何でだよ」
「確かに手前が池袋に来る用事は仕事だけっつーこともあるだろう。だがよ、手前の頭ん中はそうじゃねえだろ。常に騒動を起こすことを考えてやがる。それも池袋の街でだ。でなきゃ、俺が池袋で手前の存在を感じるたび、あんなにムカムカするかよ」
「そう言い切られるのも、結構ムカつくんだけどなあ。俺、そこまで外道じゃないよ?」
「そこ以上に外道だろ」
にべもなく言い切る静雄に、臨也はかなり本気で殺意を覚える。
──だから、この化け物が嫌いなのだ。
野生じみた本能で、初対面の時から臨也の本質を見抜き続けてきた。或いは、今では一層その嗅覚に磨きがかかっているかもしれない。
おまけに異常な身体能力のせいで、どんな攻撃を加えても平気で立っているのである。普通の人間なら、これまでに百回は死んだだろうことを仕掛けているのに。
とにかく目障りで、忌々しくてたまらない。
こうして臨也のテリトリーで茶を飲んでいる分には静雄は平気らしいが、臨也の方は到底、平静ではいられない。平静でいろという方が無理だった。
けれど。
相変わらず、隣りのリビングからはサイケの楽しそうな笑い声や、穏やかな津軽の低い声が聞こえ続けていて。
「ホンット、シズちゃんてムカつくよ」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」
「本気で殺してやりたいけどね、俺も自重するよ。サイケの目の前で人殺しするわけにはいかないし」
「ハッ、手前に俺が殺せるかよ」
「できるかもしれないだろ。でも、それは今じゃない。──この部屋を一歩出たら、また容赦しないから覚悟しとくんだね」
「そりゃあこっちの台詞だ」
ふふんと不敵に静雄が笑う。
その獰猛かつ精悍な荒ぶる表情は、犬というよりも確かに野生の狼めいていて。
臨也も、猫というよりは獲物に標的を定めた黒豹のような笑みで応えた。
to be contineud...
シズちゃんわんこ疑惑。
野生な彼は可愛いです。
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