NOISE×MAZE
003:料理は愛情

 臨也は途方に暮れていた。
 この世に生を受けて二十四年。これほど困ったことは過去に覚えがない。
 いつどんな難問が怒ろうと、臨也はその頭脳と身体能力を駆使して華麗に事態を操り、あるいはピンチから逃走を果たしていた。
 近い過去には、油断し過ぎてうっかり刺されもしたが、その窮地さえも、新たな人間の素晴らしさに目覚めるという歓びに繋がっただけで、受けたダメージなど皆無である。窮地どころか、HP&MP全回復イベントだった。
 つまりは、これまでの人生は、ほぼ無敗に近いのだ。
 この世で唯一、何があっても愛せない化け物に関わった時以外はパーフェクト。それが素敵で無敵な情報屋、折原臨也だった。
 それなのに。

「え? これってイジメ? 新しい手口の嫌がらせなの?」

 呟いた声は胸の内だけだ。声に出すなんて、とてもではないが恐ろしくてできない。
 そんな光景が臨也の目の前には広がっている。
 視界ばかりでなく、聴覚にも。

「……津軽……」

 津軽、津軽と途切れ途切れに、か細く。
 泣き濡れた声が繰り返し呟く。
 その声の主は、リビングの臨也お気に入りのソファーの隅っこに、ちんまりと膝を抱えて座っていた。
 本来ならビスクドールのように白くなめらかな頬は、涙に濡れて痛々しく赤らんでいる。
 そんな、まるで雨に打たれた捨て仔猫のような自分のクローンの姿に、臨也は内心で大きな溜息をついた。

 昨日からずっとこんな調子なのだ。
 初めて連れて行ってやった新宿御苑で、どんな悪魔の悪戯か、臨也の天敵のクローンと遭遇したサイケは、言葉にして表現するのもおぞましいのだが、その津軽とかいう静雄のクローンに一目惚れしたらしい。
 らしい、というのは、その時の臨也は静雄と臨戦態勢にあったために、二人の出会いを直接その目で見ていないからである。
 二人が気付いた時には既に時遅く、日差しを受けてきらきらと輝く池を背景に、クローン二人は手に手を取り合って、幸せそうに微笑み合っていたのだ。
 慌てて静雄と共に二人を引き離し、連れ帰ってきたものの、その後のサイケは普段の素直さはどこへやら、大荒れに荒れた。
 臨也ひどいひどい、津軽津軽と涙ながらに叫び続け、その聞き分けの悪さに、つい臨也もキレて「あんな男との交際は認めない!」と雷を落としたのだが、その際、かなり本気で怒鳴ってしまったのが悪かったのだろう。
 殺気を感じさせる一歩手前の臨也の剣幕にびくりとすくんだサイケは、その後、憑き物が落ちたかのようにその場にうずくまり、しくしくと泣き出したのである。
 津軽、津軽と、一目惚れしたばかりの恋しい相手の名前をひたすらに呼びながら。

 そのままサイケは、昼食の時も、おやつの時も、夕飯の時も、就寝の時まで泣き続け、夜中にそっと様子を窺った時には夢の中で泣いていた。
 そして、一夜明けた今も、サイケの涙は止まらない。
 泣きすぎた瞼は、真っ赤に腫れ上がって、本来の涼しい目元はどこへやら、だ。
 これにはもう、臨也もお手上げだった。
 はっきり言って、これまでにこんなしつこい攻撃を受けたことはない。なにしろ二十四時間ノンストップである。
 しかも、声高に罵るわけではなく、暴力を振るうでもなく、ひたすらに悲しげに憐れを誘う様子で泣き続けるのだ。
 そして、涙を止める方法は唯一つと来た。
 だが、放っておいたら、疲れ果ててどうにかなるまでサイケは泣き止まないだろう。
 何かに関心を持った時の自分の執着心の強さは、臨也自身が一番良く知っている。
 よもや、その気質がクローンにも備わっているとは思わなかったが、今更どうにかなることでもない。

「クソッ」

 小さく毒づいて臨也はリビングの入り口から離れ、メゾネット式の二階へと続く階段を上がり、寝室を兼ねた私室へと入った。
 ドアを閉め、溜息をついて携帯電話を取り出す。
 今から書ける電話は誰にも聞かれたくなかったのだ。サイケはもちろんのこと、リビングの隣り、玄関に一番近い部屋で仕事をしている波江にも。
 苦虫を噛み潰したような顔でボタンを操作し、一つのダイヤルを呼び出す。
 発信ボタンを押してから、約六秒後。
 不審げかつ、無愛想な声が応答した。

『はい?』
「あ、シズちゃん?」
『……手前、ノミ蟲か。どうして俺の携番を知ってやがる!?』
「そんな今更なこと言わないでよ。俺の職業、何だと思ってんの。あ、コラ切るなよ。用があってかけてるんだからさ」
『───…』
 切られはしなかったが、ひどく苛々とした気配が電話越しに伝わってくる。
 こんな風に喧嘩以外の会話をするのは非常に不本意だったが、臨也としても長々と通話を続けたいわけではない。端的に用件を告げた。
「あのさ、緊急事態発生」
『ああ?』
「今日、いつでも時間帯は構わないから、うちに津軽連れてきて。うちのマンションの場所は知ってるだろ」
『──はあ??』
「とにかく頼んだよ。相応の礼はするから」

 言いたいことだけを言って、通話を切る。
 ついでとばかりに、電源まで落とした。
 携帯電話は他にも両手の指に余るほど所有しているから、困らない。そして、静雄が手に入れた臨也の携帯番号は、この端末のみのはずだ。
 クレームなんて聞いてやるものか。
 シズちゃんなんて俺の手のひらで転がされてればいいんだよ、と少しばかり鬱憤晴らしをして、用をなさなくなった携帯電話をベッドの上に放り投げる。
 そうして大きな溜息をつき、臨也は渋々と階下に戻った。

*     *

 マンションのインターフォンが鳴ったのは、夜の十一時を回った頃だった。
 モニターで確認すると、間違いなく静雄と、静雄と同じ顔をした人間の二人連れである。
 諦めの溜息と共に臨也はエントランスの扉を開けてやり、自分の部屋に続くエレベーターの番号を静雄に教えた。
 それから、約三分後。
「やあ、いらっしゃい」
 まさか天敵をここに迎え入れる日が来るとは、と涙が出そうなくらいに感激しつつ、臨也は二人を部屋に招き入れ、リビングに案内する。
 そして、定位置となったソファーの隅っこにうずくまっている白い塊に声をかけた。
「サイケ、津軽が来たよ」
 ぴくりと見て分かるほどにサイケの肩が震え、抱えた膝に埋めていた顔がおずおずと上がる。
 丸1日半、泣き続けていたせいで、繊細に整っているはずの顔は、朝に比べていっそうひどい。
 その顔の中で、虹彩ばかりか全体が赤くなった目が、まっすぐにリビングの入り口を捉えた。

「──津軽…っ!!」

 大慌てで立ち上がろうとして、サイケの足がもつれる。
 転ぶ、と思った時、誰よりも早く着物姿の青年が動いた。

「サイケ!」

 床に顔をぶつける寸前のサイケを掬い上げ、長い腕の中に抱き込む。そして、向かい合わせに立たせて、サイケの顔を覗き込んだ。
「サイケ」
「津軽、津軽……っ!」
 至近距離で目を見交わし、へにゃりとサイケの表情が泣き崩れる。そしてそのまま、サイケは津軽の肩にすがってわんわんと泣き出した。
「サイケ、そんなに泣くな」
 泣きじゃくるサイケに津軽はひどく優しい声をかけ、抱き締めて、後から後から涙の零れ落ちる目元に、額に、頬に、幾つもの優しいキスを贈る。
 それはまさに、引き離された恋人同士の感動的な再会の場面に他ならず。
 臨也も静雄も、あまりの気色悪さに青褪めた顔でクローン二人から目を逸らした。

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