NOISE×MAZE
002:小指を繋ぐ赤い糸

「ねえねえ、臨也」
 ちょこんとテレビの前のソファーに腰掛けていたサイケが、ソファーの背もたれ越しに振り返って、続き間のダイニングキッチンで朝食の後片付けをしていた臨也を呼ぶ。
 明るく無邪気な声には自然な甘えが滲んでいて、正直なところ、非情に嫌な予感がしたが、しかし、振り向かなければ脳内4歳児のこのクローンは、すぐにべそをかき始める。
 ゆえに、
「何?」
 と、わざわざテーブルを拭く手を一旦止めて、臨也は問いかけた。
 すると、親とも兄とも慕うオリジナルが自分の方を向いてくれたのが嬉しいのか、サイケの笑顔はいっそうきらきらと輝く。

「あのねえ、俺、お外に行ってみたい!」

 満面の笑顔で言われたそれは、ぐらりと臨也にめまいを覚えさせるには十分な衝撃だった。




 共に暮らしてすぐ分かったことだが、サイケこと臨也のクローンに対し、「駄目」を告げるのは非常な難題だった。
 と言っても、聞き訳が悪いわけではない。どんな事柄であれ、臨也がきちんと説明すれば納得して受け入れる。
 だが、この過程が問題であり、研究室で育てられたがゆえに極端に世間知らずのサイケにも理解できるよう『きちんと』説明しなければ納得せず、また、納得した後も、目に見えてしょんぼりとするのだ。
 わざとやっているのかと思うくらいに、悲しげにうなだれ、目に涙を浮かべる。
 だからといって、それ以上は文句も言わずに、しょんぼりと大人しく一人で音楽を聴いていたりテレビを見ていたりするものだから、外道を自認する臨也でさえ、あるはずもない良心がうずくような錯覚に陥るのである。
 サイケと暮らすようになって、早一週間。
 実に厄介なものを背負い込まされた、というのが臨也の正直な感想だった。

「外、ねえ」
「駄目? 駄目なの?」
 ソファーに後ろ向きに座り、背もたれから身を乗り出しているサイケの表情が、不安げに曇る。
 その表情を見やりながら、どうしたものかと臨也は思案した。
 本音を言うのなら、サイケは決して外に出したくない。情報屋などという物騒な商売をしている自分のクローンなのである。危険すぎて出せない、というのが実情だ。
 だが、外に行きたいというサイケの欲求も当然のものである。
 クローンだろうが戸籍がなかろうが、あくまでもサイケは一個の人格を持った人間なのだ。室内飼いの愛玩動物ではない。
 そして、このマンションには新宿の町並みを一望できる広い窓があり、テレビだってある。
 短時間ならともかくも、少なくとも五年程度は共に暮らすことになる以上、外の情報を完全に遮断しようとすることは不可能だろうと、無駄な労力を費やすことを臨也は最初から放棄していた。だから、これは予測できていた展開でもある。
「外には危ないことがいっぱいあるんだよ。それでも行きたいの?」
「うん、行きたい」
 サイケはこっくりとうなずく。

「あのね、ラボに居た頃は、お外に出たら駄目だったの。新羅が来てくれて、俺、初めて外に出たんだよ。お外はね、すっごく広くて、人がいっぱいいて、空がきらきらしてた」
「……楽しかったんだ?」
「うん。ずっとお外は怖いから行っちゃ駄目って言われてたけど、新羅が手を繋いでてくれたから、怖くなかった。ドキドキしたよ」
「──そう」

 なるほど、と臨也は納得する。
 生まれて初めて外に出たサイケには、たかが都会の雑踏が、最高の遊園地のように輝いて見えたのだろう。
 これでは、外に出てはいけないという説得は、まず不可能だ。
 仕方ない、と臨也は今日のスケジュールを頭の中で確認する。幾つか急ぎの用事はあるが、現時点での作業は波江に任せておけばどうにかなる。
 数時間、外に出るくらいなら特に問題らしい問題はなさそうだった。

 しかし、出かけるとなれば、行き先が問題である。
 遠出は無理だし、顔見知りが居そうな所もアウトだ。
 少し考えた後、臨也は、じっとこちらを見つめていたサイケにまなざしを戻す。
「サイケ、植物は好き?」
「? お花?」
「花とか木とか。池もあったな」
「池?」
「魚が泳いでるよ。見てみたい?」
「うん!!」
 臨也が言葉を重ねるごとに目がきらきらと輝き始めていたサイケは、大きくうなずいた。
 そんな自分のクローンに苦笑しながら、臨也もうなずく。
「いいよ、じゃあ出かけよう。ここを片付けてしまうから、ちょっと待ってて」
「わーい♪」

 慣れというものは恐ろしい。
 ほんの数日で、臨也は自分と同じ顔をした存在が手を叩いて喜ぶのを、何とも思わなくなっていた。
 というのも、あまりにも違い過ぎるのだ。
 顔立ちが同じでも、表情や言動が余りにも違い過ぎて、同居し始めて一日も経つ頃には、臨也はサイケを『自分とはまったく違う人間=別人』だと認識を切り替えた。
 しかし、同じ顔は同じ顔であり、共に寝起きしているために赤の他人というほどには割り切れず、今現在は、たとえて言うならば、歳の離れた弟のような感覚になっている。
 加えて、サイケは性格が素直なだけに、痛すぎる実の妹たちよりもはっきり言って可愛い。
 厄介な存在ではあるが、早くも肉親に対するものに酷似した情が湧いてきているのを、いかにねじれた性格を持つ臨也とはいえ、否定はできなかった。

「じゃあ、出かけようか」
「うん!」
 身支度を整え、出勤してきた波江に後のことを頼んで、マンションを出る。
 有能なアシスタントは、弟以外に一切の興味を持たないため、一番最初にサイケを見た時も一瞬驚いたような顔をしただけで、すぐに無関心に戻ったありがたい存在だ。
 口止め料を払う必要もない辺り、経費がかからなくて本当にありがたいと考えながら、臨也がサイケと共に向かった場所。
 そこは近所の広大な公園だった。
 大都会のど真ん中にある、宮内庁管轄の公園。
 その名も新宿御苑という、素敵な場所である。

 ここならば近付くのは、大概が植物を愛するのんきな人間か、画家やカメラマンといった自称芸術家に限られる。
 そんな都会の喧騒からは隔絶された、だが生命のざわめきに満ちた空間に足を踏み入れ、サイケはまさに子供のように目を輝かせた。
「すごーい! 広いね……!」
「走るなよ。迷子になったら困る」
「えー」
「ほら、急がなくても、池はすぐそこだから」

 はしゃぐサイケに苦笑しつつ、臨也はゆっくりと歩く。
 考えてみれば、臨也自身、こんな風にのんびりするのは本当に久しぶりだった。久しぶりすぎて、いつ以来かも思い出せない。
 いつもなら、オフでも自宅でパソコンを触っているか、携帯をいじっているか、ここぞとばかりに睡眠不足を解消しているかで、こんな健全に過ごすことはまずない。
 これはこれで悪くない、と思いながら、前方に池のきらめきを見つけて走り出したサイケの後を追って、小道から開けた場所に出る。
 そして、眩しい日差しとマイナスイオンに満ちた空気に目を細めた、その時。

「──臨也?」
「シ…ズちゃん……?」

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