初めて会った折原臨也は、日々也よりも十歳ほど年上の外見年齢で、インターネットで得た情報のどれにも合っているように見えたし、どれにも合っていないように見えた。
 やや難しい表情で日々也を見つめ、「本当に彼が最後だろうね」と白衣の闇医者に念を押すように確認した後、静かな表情でまっすぐに日々也を見つめ、
「俺は折原臨也。君のオリジナルだ。言わなくても分かっているだろうけれど」
 と名乗った。
 続けて、連れの青年を平和島静雄というのだと紹介し、彼もまた、その特異体質ゆえに二人のクローンが造られていることを明かした。
「今、うちには俺のクローンが一人とシズちゃんのクローンが二人いる。君さえ嫌でなければ、君もうちにおいで。気が進まないなら、きちんと戸籍を作って、どこか遠くで普通に暮らせるようにもしてあげられるけれど」
 そう言われて、日々也は少しだけ考えた。
 自分と同じ顔をした人間たちとの暮らしを魅力的、とは感じなかった。自分以外のクローンに会うのも怖いと思った。
 が、他に行くところもないと思ったのだ。
 非合法の存在である自分には戸籍がない。その一方で、本体である臨也は裏社会で顔を知られている。そんな状況で、インターネットや書籍を通じてしか世間を知らない自分が生きてゆけるとは到底思えなかった。
「──分かった。君たちの所に行く」
 そう告げると、臨也はうなずき、静雄は何も言わずに日々也を見つめていた。
 静雄の眼の色はサングラス越しでよく分からなかったが、少し悲しんでいるようにも腹を立てているようにも見えて。
 彼はクローンの存在を──それを造り出した人々を決して快くは思っていないことを日々也は直感的に悟った。
 オリジナルだとはいえ、彼らを信じていいのかどうかは分からなかった。だが、他に頼る存在がないのもまた、事実であり。
 そして、一晩の宿を提供してくれた新羅という闇医者と、その同居人である人に在らざる女性に礼を言って、日々也は二人と共にこのマンションにやってきたのだ。



「日々也、お茶淹れるけれど何がいい? コーヒーでも紅茶でもココアでもミルクでも、何でもできるよ」
 臨也に声を掛けられて、日々也は少しだけ戸惑う。
 こういう時、何と答えればいいのだろうか。物語の中の登場人物の台詞や、インターネットの中で見たブログやツイッターには何と書いてあっただろうか。
 自分よりも十センチくらい背の高い臨也を見上げたまま、そんな風に困っていると、臨也はふっとセピア色の瞳を優しく微笑ませた。
「こっちにおいで」
 呼ばれて、何だろうと思いながらも奥のキッチン──システムキッチンのこちら側に大きなテーブルがあるから、ダイニングキッチンと呼ばれる形なのだろう──へ行く臨也について行く。
 隣りへおいで、と手招きされ、臨也の横に立つ。と、臨也は幾つかのキャニスターやガラス瓶を取り出して、蓋を開けた。
「はい、どの匂いが一番好き?」
 そんな風に聞かれて。
 日々也はまばたきし、臨也の顔を見つめた後、目の前に並べられたキャニスターたちを恐る恐る覗き込んだ。
 何種類かの乾燥した葉っぱや濃い茶色の豆、茶色の粉の匂いを一つ一つ確かめてから、これ、と魅惑的な甘い香りがした黒っぽい茶色の粉を指さす。
「うん、ココアだね。甘いのと甘くないの、どっちがいい?」
「……甘い方がいい」
「了解。やっぱり俺のクローンだね。結局我が家は全員、甘党か。ココアも六人前となると、結構な量だよねぇ。まあ、四人以上になれば、五人も六人も大差ないけど」
 快活に言いながら、臨也は琺瑯の白い片手鍋を棚から下ろした。
「作り方を教えてあげるよ。俺がいる時は勿論作ってあげるけど、俺が出かけてる時でもココアが欲しくなったら、いつでも作れるようにね」
 そして言われるままに日々也は、スプーンでココアの粉と砂糖を掬って手鍋に入れ、少量の熱くした牛乳を注いで丁寧に練り、なめらかなペーストになったところでたっぷりの牛乳を足して、過熱する。
「そろそろいいかな。沸騰させると牛乳は蛋白質が分離しちゃうから」
 そんな風に促されて、IH調理器のスイッチを切り、人数分のマグカップに熱々のココアを注いだ。
「はい、日々也のカップはこれね」
 優しいヒヨコ色のシンプルなカップを手渡され、トレイに四つのマグカップを乗せてリビングへ持ってゆく臨也の後ろ姿を見送る。
 臨也は全員と言葉を一言二言交わしながらカップを配り、また日々也の所に戻ってきた。
「どうぞ、飲んでいいよ」
 自分もまたサクランボ色のカップを手にした臨也に促されて、日々也は両手で持った熱いマグカップにそっと口をつける。
 初めて口にする甘い香りのする熱い液体は、そのまま甘く優しい味で。
「……美味しい」
「それは良かった」
 微笑まれて、日々也は自分がどういう顔をすればいいのか分からなくなった。
 仕方なく臨也から目を逸らして、手の中のマグカップを見つめる。
 こんな風に栄養剤以外のものを口にするのは、初めてのことだった。
 人間は普通、さまざまな食材を使った食事をしていることは知っていたが、実験体であった日々也に与えられていたのは、実験速度を加速するための成長促進剤と、健康体を維持するための栄養のみだった。
 一応、それらの『フード』にも様々な風味はつけてあったから、味覚は幼児並みの未発達なものだろうが、完全に退化していることはない。
 そして、そんな未発達な味覚でも、熱いココアは十分に美味しかった。
「いつでもキッチンは使っていいけどね。食事の前二時間は、甘いものはちょっと控えて。肝心の御飯が入らなくなっちゃうから。あと、飲み物を作る時は一応、家の中にいる全員に要るかどうか声をかけるようにね。家族がいるのに一人で飲み物を楽しむのは、我が家ではルール違反なんだよ」
「家族」
「そう。世間一般に比べれば、大分不自然ではあるけどね。でも俺たちの間に同じ血が流れてることには変わりない」
 言いながら、臨也は大きく右手を動かし、舞台上の役者のような身振りで一同を示してみせる。
 そこには背格好こそ多少の差はあれど、二組の同じ顔をした人間たちがいて。
「嫌だと思っても、血で繋がる縁というのものは簡単には切れないんだよ。だから日々也、君は君が嫌になるまで、ここに居る権利がある。もちろん出てゆく権利もね」
 臨也にそう言われ、しばしその虹彩が紅く透けるセピアの瞳を見つめた後、日々也はうつむく。すると、重力に従って涙が一粒、床の上に落ちた。
 悲しいわけではなかった。
 ただ、自分は独りではないのだというそんな言葉にならない思いが、胸の一番奥からこみ上げてくる。
 実験のために、日々也は人間との接触を最低限に抑制されて過ごした。身の回りの世話をしてくれた幾人かの研究者たちは、日々也を虐待するようなことはなかったが、対応は常に冷静で知的──言い換えるならば、冷淡、だった。
 これまでに面識のあった誰一人として、家族としてのルールを教えてくれたり、甘い飲み物の作り方を教えてくれたりはしなかったのだ。
「日々也」
 優しい声と共に、臨也の手がぽんと日々也の頭のてっぺんに置かれる。
 そして、ゆっくりとした動きで、さらさらの黒髪を撫でた。
「ここに居るのは全員、君の味方だから。勿論人間だから、皆それぞれに欠点はあるよ。気が短かったり、鬱陶しかったり。でも、皆、君のことはちゃんと愛したいと思ってる」
 その言葉をどう受け止めればいいのか、日々也は分からなかった。
 辞書的な単語の意味は判る。だが、その本質については半分も理解できていない気がした。
 ただ、やっと自分の居場所を──帰るべき場所を見つけられたような気がして。
 そっと目線を上げて、臨也を見つめる。
 すると、自分よりも十歳ほど年上のオリジナルは、紅を帯びたセピアの瞳を微笑ませ、そのまなざしをリビングの方へと向けた。
 つられるようにそちらを見れば、それぞれがそれぞれの表情で日々也を見つめていて。
 人懐っこい笑みを浮かべたサイケ、穏やかな笑みを目元と口元に刻んだ津軽、感情の読みにくい茫洋とした表情の、だが優しい目をした静雄。
 そして。
 ───文庫本を手にしたまま、何の表情も浮かばない顔でこちらを見ているデリック。
 一人一人を見つめ、再び臨也にまなざしを戻して。
 日々也は小さくうなずいてみせた。



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