MOONLIGHT CITY  03

 臨也が静雄を連れて帰ったのは、本来帰るつもりであった池袋の新しいマンションではなく、新宿のマンションだった。
 池袋は新しい拠点というだけで、こちらが現在の本拠であることには変わりない。いずれ本格的に池袋に戻ることかもあるかもしれないが、それは今ではなかった。
 そして、仕事の都合上、少なくとも二日に一度以上はここに足を踏み入れているために生活感は薄れてはおらず、静雄を連れ込んでも彼に怪しまれる心配もない。
 彼を室内まで立ち入らせたのは初めてだったが、それが暴力をもって上がりこまれたのでもなく、謀略の結果誘い込んだわけでもないのが、我ながら不思議だった。
 そして、その不思議さは今夜は消えることなくついて回るようであり、自室のリビングセットで寛ぐ静雄というシュールな構図に言い難い違和感を覚えながら、臨也はレンタルショップの袋の中からDVDを取り出した。
「シズちゃんがチャップリンなんて、ちょっと意外過ぎ」
「おかしいかよ」
「笑ってるわけじゃないよ。どうしてかって思っただけ」
「……うちの親父が好きなんだよ。だから、子供の頃から時々見てた」
「そうなんだ」
 それは想像もしなかった、と心の底から思いながら、臨也はDVDをケースから出してプレイヤーにセットする。
 静雄の潰し方を考えたことは散々にあるが、子供時代を想像したことは殆ど無いといっていい。そんな過ぎ去った事柄には何の興味もなかったからだ。
 無論、家族構成や、通った幼稚園や小学校の名前、交友関係くらいは基礎知識として把握している。だが、それらはあくまでも単なるデータの域を出なかった。
「『町の灯』って、目の見えない花売り娘との話だっけ?」
「ああ」
 臨也は、この作品そのものを見たことはなかった。『モダンタイムス』と『独裁者』は、子供の頃にテレビの洋画劇場でやっていたのを見た覚えはあるが、『町の灯』はチャップリンの代表作として題名とあらすじを知っているだけである。
 だからこそ、レンタルショップのレジでこれを渡された時、驚いたのだ。
「シズちゃんは、もっと派手で分かりやすい大作映画が好きかと思ってた。大画面で大爆発してるとスカッとしない?」
「そういうのも嫌いじゃねえけどな。昔の映画の方が面白ぇよ。ジャッキー・チェンのCG使ってない若い頃のとかよ。マジですげえと思う」
「普通はそういうのって、俺たちの世代はあんまり見ないよね。やっぱりお父さんの影響?」
「だろうな。うちの親父は、とにかく古い映画が好きなんだ。子供の頃から、テレビの洋画劇場とかを録画したビデオが色々あって、俺も幽もそれ見て育った。あいつが役者の道を選んだのも、それが影響してるのかもしんねぇな」
「へえ」
 静雄が家族のこと、ましてや大切にしている弟の名前を臨也の前で出すなど、まさに青天の霹靂、破格の椿事だった。
 一体何が起きているのだろうと思いながらも、臨也は大人一人分の空間を空けてソファーに腰を下ろした静雄の隣りで、やっと始まった映画の本編へと意識を集中させる。
 『町の灯』は、一言で言えば、綺麗で切ない恋物語だった。
 懸命にもがき、誰かのために必死に頑張る。不器用で温かな、人間の感情を描いた話だった。
 もし一人でこの映画を見ていたのならば、臨也は散々に画面に向かって突っ込みを入れただろう。チャップリンの無様といってもいいような必死の努力を愛でる一方で、鼻で笑い、皮肉ったに違いない。
 だが、今はただ黙って、台詞のないモノクロの画面を見つめていた。
 そして、最後のクライマックスシーン、チャップリンが必死に作った大金のおかげで目が見えるようになった花売り娘が、花を手渡した時の感触で、チャップリンがいつも自分から花を買ってくれていた青年であること、自分の恩人であることに気付くその場面を眺めた後、臨也はそっと静雄へとまなざしを向けた。
 映画館の雰囲気を出そうと、天井の照明は暗く絞ったスポットのみで、カーテンのない窓からの街明かりと淡い月明かり、そして大画面の液晶からの青い光が静雄の横顔を照らし出している。
 じっと画面に見入るその横顔。
 サングラスを外した素のままの目に、

 ───うっすらとほんのかすかに涙が滲んでいた。

 思わず臨也は息を呑み、咄嗟に目を逸らす。
 見てはいけないものを見てしまった気がして、ひどく心臓が跳ねる。
 画面に集中していた静雄は気付かなかったのだろう。そのまま何事もなく画面がエンディングロールに入ったのを一分ほど見届けてから、臨也は立ち上がった。
「飲み物入れてくるよ。結構長かったね」
 そうとだけ告げて、キッチンへと向かう。
 そしてケトルを火にかけ、かすかに震える手をシンクに突いた。
 ───確かに切ない映画だった。
 人によっては、愛おしい、とも形容するだろう。
 だが、陳腐な感情だ。愛する者のために何かしたい。誰でも考えることだ。
 なのに。
 あの池袋の自動喧嘩人形が。
 臨也の基準に照らし合わせれば人外の化け物が。
 ───涙、を。
 在り得ない、と唇を噛む。
 あの化け物がそんな感情を持っていてはいけなかった。
 そんな人間のような感情を持っていては。
 それこそ映画の中の怪獣のように、人間などその感情も考慮せずに踏み潰してくれなければ。
 ───けれど。
 あの横顔と、涙、は。
「!」
 エンディングロールに重ねてメインテーマが流れるだけの室内の静けさを破るように、不意にケトルが高い音を立てる。
 我に返った臨也は急いで火を止め、ケトルの湯をドリップに細く注いだ。
 細引きの豆を十分に蒸らしてから、丁寧にドリップを落とす。そうしてからミルクパンに牛乳を注ぎ、鍋肌に細かく泡が立つまで温め、大き目のマグカップを二つ食器棚から下ろして、二杯分のカフェオレを入れる。
 片方にだけ、スプーンに山盛り一杯分の砂糖を溶かし込み、それから二つのカップを手にリビングへと戻った。
「はい。砂糖が足らなかったら、あっちにあるから自分で入れてきて」
 そう告げながら砂糖入りのカップを差し出すと、少し驚いたような顔をしてから静雄は受け取り、くん、と匂いをかいでから、そっと口に含んだ。
「……美味い」
 一口を飲み干し、どこか感慨深い口調で低くそう告げられた瞬間。
 ざわりと背筋が総毛立つような感覚に臨也は襲われる。
 だが、それを押し隠し、口に合ったのなら良かった、と短く応じた。
 そしてソファーに腰を下ろし、自分もカップに口をつけながら、ちらりと見やると、静雄の目元は既に乾いていて。
 先程濡れているように見えたのも、もしかしたら只の錯覚だったのかもしれない、と思ったが、それにしては自棄に瞼に焼き付いている。
 あれは何だったのだろう、と考えていると。
「でも久々に見たぜ、チャップリンの映画」
 不意に静雄が口を開いた。
「……そうなの?」
「つか、映画自体、レンタルでも見るのが久しぶりだ。嫌いじゃねえんだけどな、なかなか借りに行くタイミングが取れなくてよ」
「まあ、それはあるかもね。映画だと、せめて二時間くらいの纏まった時間がないと最後まで通して見られないし、借りたら返しに行かなきゃ行けないし」
「ああ。だから半年振りくらいだ、俺があの店に行ったの。明日は休みだから、のんびり映画でも見るかと思ったら、手前なんかに遭遇しちまうしよ」
「……ここまで来ておきながら、随分な言い草だね。でも、俺だってレンタルは三ヶ月ぶりくらいだよ。ネットで動画見ることの方が多いから」
「まあ、そんなもんかもな」
 仕事してるとよ、そんな風に呟いて、静雄はカフェオレを啜る。
 それは酷く奇妙な感覚だった。
 夜更けの自分の部屋で、手を伸ばせば届きそうな距離で静雄がソファーに寛ぎ、自分が入れたカフェオレを飲んでいる。
 いっそこれはタチの悪い悪夢だとでも言われた方が、まだ納得できた。なのに現実なのだと思うと、比喩でも何でもなくめまいを感じる。
 どうしてこんなことになったのか。
 どれ程考えても分からない謎に嫌気が差し、臨也はマグカップを置いて立ち上がる。
 そして、DVDプレーヤーを操作してディスクを入れ替えた。
「ショーシャンクの空に、って題名は見たことある気がするんだけどな」
「まあ、それなりにヒット作だからね。俺もタイトルは知ってたし、何となく気になってたけど、見てない映画の一つだよ」
 筋書きは何と言うこともない話だ。
 とある刑務所で、囚人たちの間で起きた出来事。檻の中で、一人の男が何人もの人間の運命を少しだけ変えた。
 今から十数年前に作られた映画だが、何となく興味を惹かれ、でもこれまで見ずにきた。それを手に取ったのは、認めたくはないが、静雄と見る、という意識が動いたからだろう。
 二人で肩を並べてコメディーを見たいとは思わなかったし、恋愛ものは論外だ。そして、長過ぎる大作も間が持たなくなる気がした。
 そうして残る選択肢は、ほどほどの良作か、サスペンスか、アクションか。
 迷いつつ、アクションものはあまり好きでない臨也が手に取ったのは、原作が中々に面白かったサスペンス作品の『依頼人』と、ヒューマンドラマの『ショーシャンクの空に』だった。
 サスペンスの方が本当は好みだが、静雄と二人でとなると、やはり緊迫感が重荷になるような気がして、最終的に『ショーシャンクの空に』を選んだのである。
 いつもなら彼との間に流れる緊迫感は臨也の楽しみの一つなのだが、屋内の二人きりの空間でとなると、そのうち耐え難くなって、つい静雄の気に障ることを口にするか、ナイフを突きつけるかしてしまいそうな予感がしたのだ。
 何もしないと最初に明言した以上、それは避けたかった。
 そして、画面上に映し出されたイントロダクションを、臨也は痛いほどに直ぐ傍の静雄の存在を意識しながら、黙って眺めた。

 

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