MOONLIGHT CITY 04
静かに映画は終わり、ほうと溜息をついて。
臨也は、おもむろに目線を上げて時計の針の位置を確認する。
「ねえ、シズちゃん」
「あぁ?」
「終電の時間、過ぎてるけど、どうするの?」
「は?」
間抜けな声を上げた静雄は、ポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認して目を丸くする。
「ちょっと前に気付いてたんだけどね。シズちゃん、映画に集中してたし、その気になれば歩いてだって帰れない距離じゃないし、明日は休みだっていうし。だから黙ってたんだけど」
「……言えよ、そういうことは」
低い声で静雄はうなったが、しかしキレはしなかった。臨也があまり皮肉な言い方をしなかったからだろう。その辺りの加減は、臨也も分かっている。分かっていて、いつもは大きく踏み越えているのだ。
そして臨也は、渋い顔をしている静雄を横目で見やりながら、何の感情も込めず、呟くように淡々と告げた。
「外の気温、下がってきてるみたいだし。ソファーでいいんなら泊めてあげるけど」
「は…あ?」
それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした静雄が、まじまじと見つめてくる。
その視線に、臨也は頬杖を突いたまま、小さく肩をすくめた。
「この間の借りを返すいい機会だろ。何の下心も企みもないよ。誓ったところで君は信じやしないだろうから、誓わないけど」
「───…」
臨也の言葉に、丸く開いていた静雄の目が、真偽を確かめようとするかのように細められる。
その視線に、臨也は表情を全く動かさなかった。
いつもの嘲るような笑みもない変わりに、親愛の欠片もない、本当の無表情だ。こんな顔を静雄に向けたことは、おそらくこれまでにない。
否、静雄だけではなく誰にも見せたことはない。
偽りはしても演技をすることは止めた、これは素の表情の一つだった。
それをどう読んだのか。
静雄は右手を挙げて、くしゃりと後頭部の髪を掻き揚げる。
「……気が変わったとか言って、夜中にナイフで刺してきたら殺すぞ」
「しないよ。言っただろ、今日は『普通』にするって」
「もう日付は変わってるだろうが」
「子供みたいな揚げ足取りしないでよ。じゃあ、言い方変えるよ。君がここを出て行くまで。それでいい?」
「───…」
静雄がうなずくまでには、長い間があった。
だが、それでも。
「分かった。泊めてくれ」
「──うん」
真っ直ぐに目を見つめて言われた言葉に、臨也もまた、目を逸らさずにうなずいた。
風呂は帰ってから入る、と静雄が断ったため、寝支度は簡単なものだった。
所詮、一泊するだけのことだから、未使用の歯ブラシと洗濯したてのタオル、それから予備のふかふか毛布を提供すれば、他に必要なものは見当たらない。前回、発熱した臨也が静雄にかけた面倒に比べれば、取るに足らない手軽さだ。
看病はシズちゃんが勝手にやったことだし、別に恩義に感じたりなんかしてないけど、と思いつつも、臨也はプライベート空間である二階に上がり、手早くシャワーを済ませて自分も寝支度を整えた。
そして、自分も寝てしまおうと寝室に向かいかけて、ふと足を止め、照明を落としたメゾネット式の階下を覗き込む。すると、薄明かりの中にソファーの上の静雄が見えたが、この距離と暗さでは表情までは分からない。
少しばかりその様子を眺めた後、臨也はそっと足音を殺して階段を下り、応接セットに歩み寄った。
「……シズちゃん?」
うんとうんと声を潜めて、そっと名前を呼ぶ。だが、反応はない。
本当に寝ちゃったの、と唇だけで呟きながら、臨也はソファーの傍らの床に膝を付き、静雄の顔を覗き込んだ。
カーテンのない大きな窓から差し込む淡い月の光が、ほのかにその面立ちを浮かび上がらせている。毛布にくるまり、目を閉じている静雄は、こんな顔をしていたのかと思わず驚くほどに穏やかで、端整だった。
鼻筋は真っ直ぐに通り、薄い唇は形の良い弧を描いて、シャープな顔の輪郭が全体のイメージを精悍に引き締めている。
その顔から目が離せなくなりながらも、臨也は心の中で、どうしてそんなに無防備なんだよ、と呟く。
ここはノミ蟲の自宅なのに、すぐ傍に大嫌いなノミ蟲がいるのに、どうしてこんな風に大胆に眠れるのか。
これはある意味での裏切りではないのか、とさえ思う。
どんな時でも自分たちは嫌い合い、殺し合うのがこれまでの暗黙のルールだったのに、今夜はそれがあっさりと破られている。
一番最初、あの霧雨の夜に均衡を破ったのは、確かに臨也の方だったし、今日の宵に、再び均衡を破ったのも臨也だった。
けれど、臨也にとっては、それに応じた静雄こそが恨めしい。霧雨の中で捨て置いてくれれば、或いは今日の宵に拒絶してくれれば、今夜のことはなかった。
おそらく、その方が自分たちにとっては良かったのに。
───何も変わらなくて、すんだのに。
「大嫌いだよ、シズちゃん」
小さく小さく呟いて。
それでもしばらくの間、臨也はナイフを取りに戻ることもなく、ただ静雄の穏やかな寝顔を見つめていた。
* *
「朝御飯は?」
「いや、いい。そこまで面倒かける気はねぇよ」
「そう」
朝食くらい、一人分を作るのも二人分を作るのも変わらない。そう思いはしたが、重ねては言わずに臨也は帰り支度を整える静雄を眺めた。
帰り支度と言っても、洗面所を使い、歯を磨く程度のことだ。あっという間に済み、そして玄関に向かう静雄を、臨也は見送る。
「じゃあな、一晩世話になった」
「いいよ、別に。借りを返しただけだし」
「そりゃそうかもしれねぇけどよ」
そう言い、静雄は言葉尻を濁す。その様子に、あの夜にかけた迷惑は、彼にとっては迷惑のうちには入っていないのかもしれない、と臨也は思う。
規格外の化け物のくせに、その辺りは妙に間が抜けてお人好しなのだ。
そういうところが嫌いだ、と思った時。
「そういえばな、臨也」
「何?」
ノミ蟲ではなく臨也と名を呼ばれて応じると、静雄は真っ直ぐに臨也の瞳を見据えて、告げた。
「お前が選んだ映画、悪くなかったぜ。ああいうのは嫌いじゃない。……ちょっと意外だったけどな」
お前のことだから、俺への嫌がらせも兼ねてもっとえぐいのを選ぶかと思ってた。
そう言いながら向けられた鳶色の瞳は、ひどく穏やかな温かな色合いをしていて。
そうと気付いた時、臨也は軽い錯乱状態に陥った。
自分でも何を口走っているのか分からないまま、ねえシズちゃん、と呼びかける。
「昨夜は映画だったけど、俺さ、最近古いアニメとかが妙に気になるんだよね。子供の頃にやってたのとか、生まれる前の奴とかさ」
「……で?」
脈絡もなく話し出した臨也に、しかし静雄はキレることもなく問い返す。
その様子は、気を惹かれたというよりは、臨也が何を言わんとしているのか確認するためであるように見えたが、臨也にとっては関係なかった。
ただ口だけが、まるで別の生き物であるかのように、持ち主の意思を無視して言葉を紡ぎ続けて。
「シズちゃんは気になんない? ヤマトとかマクロスとかコブラとかルパンとか」
問いかけると、少しだけ考えるように静雄のまなざしが宙を彷徨う。
「まぁな。タイトルとか大筋は知ってても、きちんと見たことはねぇな。気にならないっつったら嘘になる」
「じゃあさ」
密かに息を吸い込んで、臨也は告げた。
「興味あるのなら、またうちに来たらいいよ。君とDVDを見るのは、思ったよりも悪くなかったから。きちんと事前に連絡してきたら、エントランスのオートロックを壊さなくても入れてあげる」
そう一息に告げると、静雄の鳶色の瞳がまっすぐに見つめてくる。
臨也は昨夜と同じ無表情のまま、視線を逸らさなかった。
静雄の目は、何を思っているのか全く読めない。表情も、臨也にも勝るとも劣らぬ無表情で、内面を窺わせるものは全くなかった。
息の詰まるような沈黙が何秒続いたのか。
「……俺は、手前のケーバンもメルアドも知らねぇぞ」
「じゃあ、携帯貸して」
右手を差し出すと、ほんの半秒ほど考える素振りをした静雄は、スラックスのポケットから携帯電話を取り出す。
傷だらけのそれを受け取って、臨也は自分の携帯電話を操作し、手早く赤外線通信を行った。
「──はい」
「おう」
データが登録されたことを確認してから携帯電話を返すと、静雄はアドレス帳を確認したのか、短く操作をしてから携帯電話を綴じ、元通りにポケットにしまった。
「じゃあな。次の休みが決まったら連絡する」
「うん」
そんな風に、世間ではごく当たり前の辞去の挨拶を交わして静雄は出て行く。
バーテン服の背中がドアの向こうに消え、パタンとやや重い音を立てて金属製のドアが閉まり。
「───…っ」
臨也はその場にしゃがみこんだ。
「……何やってるんだよ、俺は……」
馬鹿馬鹿しい。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
幼児のおままごと以下だ、これは。
一体何をしているのか。
あの化け物に、自動喧嘩人形に何を求めているのか。
馬鹿馬鹿しい、と繰り返し罵倒するように呟きながら。
臨也は長い間、その場から動けなかった。
End.
意地っ張りの捻くれもの臨也の本領発揮。
次で一旦、ケリがつきます。
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