ある晴れた日に 22

 食事の後片付けをしてしまえば、あとはもうすることはなかった。
 タオルで濡れた手を拭き、キッチンの時計を見れば、もう九時を回っている。そのことを確かめてから、臨也は隣りでシンクに軽く寄りかかって、ぼんやりした表情をしている静雄を見上げた。
「……そろそろ帰らなきゃ駄目だろ。明日も仕事だろうし」
 その言葉を切り出すのは、ひどく辛かった。
 そして、静雄の沈黙も、また同じだったのだろう。
「ああ」
 軽く眉をしかめ、憂いを含んだ表情でうなずく。
 その表情から彼の気持ちが全て伝わってくるようで、臨也はひどく切なくなった。
 少しだけ迷ってから、半歩の距離を詰め、手を伸ばしてぎゅっと正面から抱き締める。
「臨也?」
 呼ぶ声には答えず、じんわりと伝わってくる温もりに身を任せていると、同じようにぎゅっと背中に両腕を回される。その温かな感触に、臨也はそっとまばたきした。
 こんな真似をせずに、あっさりと送り出した方が辛くなかったかもしれないとも思う。
 だが、もう一度触れ合いたかったのだ。
 世間一般の想い想われる恋人たちと同じように、こんな風にぴったりと寄り添って、別れを惜しみたかった。
「また、会いに来て。俺はもう、どこにも行かないから。いつでも、ここに居るから」
「──ああ」
 うなずく静雄の腕の力が強くなる。
 このまま攫って、連れて帰りたい、と言われているような気がして、一層切なくなる。たまらずに肩口に顔を埋めれば、彼の匂いがして目の奥が熱くなった。
 別に今生の別れというわけではない。
 ここはさほど東京から離れているわけではなく、一時間半も電車を乗り継げば、池袋に辿り着く。
 だから、次の静雄の休みには、またこんな風に会えるだろう。
 そうと分かっているのに、ひどく切ない。
 叶うことなら、このままずっと一緒にいたくて、閉じた瞼の裏に涙が滲む。
「臨也」
 名前を呼ばれ、頬に触れる手に顔を上げるように促されて、渋々と目線を上げれば、じっとこちらを見つめる鳶色の瞳が少し驚いたようにまばたきして、それから切なげに細められた。
 自分がどんな表情を晒しているのかは、彼の目に映る自分の顔を見れば分かる。
 だが、静雄は、なんて顔をしてんだよとは言わなかった。
 ただ黙って、臨也の目元にキスを落とし、そのまま幾つもの触れるだけのキスを繰り返す。
 そして重ねられた唇の温かさとやわらかさを、臨也は、次に会うまで絶対に忘れるまいと心に刻み付けた。
「次の休みに、また来るからよ」
「うん。……待ってる」
 こんな殊勝な台詞は、全くもって自分らしくない。だが、今この場面で嘘はつけなかった。
 そして、見つめ合ったまま、ゆっくりと抱き締め合う腕を緩める。
 ぴったりと寄り添っていた体が離れ、絡み合った腕がゆっくりと離れて、それぞれの体の脇に落ちる。
 最後に視線が離れ、二人は無言のまま玄関へと向かった。
 履き慣れた風合いの革靴に足を通し、静雄は臨也を振り返る。
「それじゃあな」
「うん」
 気をつけて、などという台詞は、池袋自動喧嘩人形には必要ない。ただ小さくうなずいて、臨也は出て行く静雄を見送った。
 名残を振り切るように、静雄はゆっくりとドアの方を向いて、重い金属製のドアを軽々と開けて、その向こうに姿を消す。
 ばたんと音を立てて閉まったドアを、その場でしばらく見つめていた臨也は、不意に、激しい感情の塊が体の奥からせり上がってくるのを感じた。
 思わず口から、嫌だ、とかすれた呟きが零れる。
 何が嫌なのか。
 考えるまでもない。
 そのまま感情に突き動かされるように、ダイニングに戻って部屋の鍵を掴み、パーカーを羽織って自分も革紐を結び直すのももどかしく靴を履いて、外に飛び出す。
 追いかけても、仕方がない。
 このまま泊まってくれというわけにはいかない。自分のために仕事を休ませたり遅刻させたりするわけにはいかない。それくらいの理性も矜持も残っている。
 けれど、嫌だった。
 一分一秒でも長く、共に居られるのなら、その機会を逃したくはなかった。
 忙しなくエレベーターのボタンを押し、苛々と上がってくる筐体を待って、ドアが開くと同時に中に滑り込む。
 そして、一階に着くと同時に、そこを飛び出した。
 マンションのエントランスを抜けて、海沿いの道を歩く背の高い後姿をさほど遠くない距離に見つける。
「シズちゃん!」
 馬鹿みたいに走って、驚いたように立ち止まった静雄に追いついたものの、今度は言葉に詰まってしまう。
「どうした? 何か忘れもんでも……」
「──そうじゃないよ」
 感情に任せて行動してしまったものの、どう言い繕えばいいのか。
 だが、この場で言えることなど一つしか──真実しかない。
 だから、思い切って告げた。
「駅まで一緒に行くよ。迷うような道でもないけど……」
 ここから駅までは、徒歩で十五分程度のほぼ一本道だ。海岸沿いであるだけに見通しもよく、駅舎の明かりも道の向こうに小さく見える。
 女子供ならともかくも、桁外れに喧嘩に強い成人男性を送る必要があるような道程ではない。
 だから、臨也の行動の意味など、たった一つしかなかった。
 そして、それが分からないほど静雄は鈍くはない。驚いたような顔をしたものの、小さく溜息をついて右手を伸ばし、臨也の左手を取る。
「え……」
「行くぞ」
 歩き出した静雄に手を引かれて、臨也もそのまま歩き出す。が、頭の中は混乱に満ち溢れていて、それが引いてくると、今度はどうにもならない羞恥が湧き上がってきた。
 人通りの多い道ではないから、こんな夜に男が二人、手を繋いで歩いていても、誰かに見咎められる危険性は殆どない。
 問題は、その手を繋いでいるのが自分たちだということだった。
 らしくない。本当にらしくない。
 うろたえ、もぞりと控えめに掴まれた左手を動かしてみるが、逆に静雄の手の力が強くなっただけで解けることはなく。
 逃がさないと無言のうちに言われているようで、臨也は途方に暮れる。
 シズちゃん、と心の中で名前を呼び、半歩前を行く彼の夜風に小さく揺れる金の髪を見つめて、それからまた、繋がれた手に視線を落とす。
 そして、多分、と半ば現実逃避するように臨也は考えた。
 臨也が本気で嫌がれば、静雄は手を離す。でなくとも、ここにナイフはないが、ポケットの中にある玄関の鍵でも握り締めて彼の手に突き立てれば、この手を振りほどくことはできる。
 だが、そうしないのは臨也の意志だ。
 なりふり構わず、駅に向かうだけの静雄を追いかけて飛び出してきたのも、臨也の意志だ。
 だったら、仕方がなかった。
 これが望んでいた結果なのだ。
 そう認めるのは、ひどくむず痒かったが、仕方がない。
 気持ちを紛らわせるように、繋いだ手にぎゅっと力を込めれば、同じように返されて余計に気恥ずかしさが増し、本当に嫌になったが、それも仕方のないことだった。



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