ある晴れた日に 23

「……シズちゃんて、結構恥ずかしい性格してたんだ」
「鏡見て言え」
「シズちゃんよりはマシだよ」
「同じ台詞を返してやる」
 そんな悔し紛れなのか照れ隠しなのか分からない言葉の応酬も、多分、第三者にはじゃれているだけとしか聞こえないのだろう。おそらく痴話喧嘩とも認定してはもらえないに違いない。
 何だこれ、と今日何度も思ったことをまた思いながらも、手を引かれてただ歩く。
 そして、いよいよ駅舎が近づいてきた所で、ゆっくりと手が解かれた時には、思わず、嫌だと口走りそうになって慌てた。
 戻ってきた手が、ひどくすうすうとして失われた温もりがどうしようもなく恋しい。
 けれど、これもまた、仕方のないことだった。
 明るい駅舎に入り、改札口で向き合ってしまえば、本当にもうどうすることもできない。人目を憚らずに抱擁したりキスしたりできるほど、臨也は世間体を捨ててはいなかった。そして、それは静雄も同じだ。
 だから、ただ向かい合って視線を合わせる。
「じゃあな」
「うん」
 別れの言葉にうなずいても、静雄は直ぐにはその場を動かない。
「シズちゃん……?」
 問うように名前を呼べば。
 静雄は目を伏せて、どこか重い溜息をついた。
 どうしたのかと思った臨也の耳に、低く抑えた静雄の声が響く。
「本当は、このままお前を連れて帰っちまいてぇよ。でも、お前は嫌だろ?」
「──え…」
「東京に戻ってくる気があるのなら、とっくにお前は戻ってる。なのに戻ってこねぇのは、あそこに戻りたくない理由があるからだろ?」
「……俺は、」
 言い当てられて、思わず声が震える。
 静雄の言う通りだった。
 これまでは、静雄をはじめとするかつての知り合いに会いたくなかったから、東京には決して足を向けなかった。
 そして、静雄との関係が劇的に変わった今も、東京に……池袋に戻りたいとは思わない。
 あの街に戻ってしまったら、また自分が戻ってしまうような気がするからだ。
 生まれ持った性分は、なかなか変えられない。情報屋の仕事こそ辞めたものの、街を行き交う人々をつい観察してしまう癖は今も残っている。
 そんな自分が、あの大都会に戻れば、きっとまた、様々な意図を持って人間と関わりたくなるだろう。つまりそれは、静雄が嫌い抜いた『ノミ蟲』の復活だ。
 それだけは絶対に嫌だった。
 再会した時から今日まで何日も考え続けたが、答えは他に見つからないまま今日になってしまって、まさか今頃それを問われるとは。
「俺はもう、池袋には……」
「いい。言わなくていい。お前の考えてることくらい、大体分かる」
 うろたえ、混乱しつつも言い訳を唇に上らせようとした臨也を、しかし、静雄は静かに遮る。
 そして、臨也を真っ直ぐに見つめて告げた。
「だから、池袋に戻って来いなんて言わねえ。代わりに俺が会いに来る。距離なんて関係ねぇよ。だから、お前はここに居ろ。もう俺に何も言わず、どこかに行ったりするな」
「──そう、言っただろ……」
「ああ、聞いた。信じるから、お前も俺を信じろ」
 そう言われて。
 静雄を見上げたまま、もう次の言葉が紡げなくなる。
 真っ直ぐに臨也を見つめる静雄は、どうしようもないくらいに格好良かった。顔貌だけの問題ではない。その潔さや心の強さが表情に表れているからこそ、誰よりも精悍で、そして、優しく見える。
「……うん」
 ようよううなずくのが精一杯だった。
 余計なことを一言でも言えば、何もかもが溢れてしまいそうで、水を満々と湛えたガラスの器を捧げ持っているような気分で、臨也は静雄を見上げる。
 すると、静雄はひどく優しい顔で笑った。
 右手を上げて、するりと臨也の左耳にかかる短めの髪を梳き上げ、そこに顔を寄せる。
「え……」
 人前での親密な仕草に、臨也が驚いて一歩引き下がるよりも早く、ぼそりとした低音で一言、言葉が落とされた。
 ぽかんとして、元通りに離れた静雄を見上げれば、彼は面白げに目を細める。
「ンな間抜けな顔してんじゃねーよ」
 そして、ぽんと臨也の頭を一撫でして改札の向こうへと行ってしまう。
「──シズちゃん!」
 慌てて金属製の柵に手をかけ、名前を呼べば、静雄は振り返ったものの、またな、と男っぽく笑ってそのまま階段を上がっていってしまって。
 一人残された臨也は、呆然としながら静雄が最後に触れた左耳に、自分の手を当てる。途端に、かあっと顔が熱くなるのが嫌というほど分かった。
 居たたまれずに、左耳を押さえたまま踵を返して足早にその場を立ち去る。
 駅舎を出て、人影のない海岸沿いの道でやっと歩く速度を緩め、耳からそろりと手を離した。
「な…んなんだよ……」
 馬鹿みたいに鼓動が逸り、呟いた声も耳を押さえていた手指も震えている。
 だが、静雄の言葉にはそれだけの威力があった。今日のうちで一番に臨也の理性を崩壊させるくらいの、それはとどめの一言だった。
「好きだ、って……」
 声に出した途端、ぼろぼろと涙が零れ出す。その場にしゃがみこんでしまいたかったが、それだけはかろうじて堪えた。
 ───好きだ。
 先程、静雄は確かにそう耳元で囁いた。
 だが、まさかそんな言葉を聞けるとは思っていなかったのだ。
 臨也自身、今日も何度も彼を好きだと思ったが、もういい歳をした自分たちであるし、そんな子供じみた告白など必要ないだろうと思っていた。
 わざわざ告げなくとも、互いに馬鹿ではない以上、仕草や身体同士の触れ合いで十分に伝わっていると思っていたのだ。
 それなのに。
「卑怯者…っ…」
 こんな去り際に、わざわざ耳元で囁いていくなんて。
 卑怯以外の何物でもなかった。
 悔しくて、それ以上に馬鹿みたいに嬉しくて。
 涙が止まらない。
 言葉を欲しいと思ったことなどなかったのに、自分を見つめるまなざしや抱き締めてくれる温かな腕だけで十分だったのに、たった一言でこんな大惨事になっていることが信じられない。
「シズちゃんの馬鹿っ!!」
 罵り、そのまま、自分も好きだと言いかけて。
 臨也は、ぐっと唇を噛む。
 声を喉の奥に押し込めるのは苦しかったが、この場所では、まだ言うわけにはいかなかった。
 目の前には、静雄はいない。
 いない相手に告げても、それは意味を成さないのである。海に向かって愛を叫ぶような馬鹿な真似をするくらいなら、舌を噛んで死ぬ方がましだった。
「次に会った時は、絶対に俺から言ってやる……!」
 昔から本当は好きで好きでどうしようもなかったのだと。
 ずっと自分だけのものにしたくてたまらなくて、居なくなったら、もう生きてはいけないのだと想いの丈を告げてやったら、一体どんな顔をするのか。
 驚くかもしれないし、知っていると笑うかもしれない。
 そのどちらでも良かった。
 ただ、好きだという言葉に、自分も同じ言葉を返したい。
 そう心に決めて、臨也はぐいと濡れた目元や頬をぬぐう。そして、一つ深呼吸して呼吸を整えた。
 目を上げれば、黒々とした夜の海が街明かりに波頭を光らせつつ、どこまでも広がっている。少し冷たく感じる夜風が、熱を孕んだ目元に心地良い。
 遠い波の音を聞きながら、ここで生きてゆけばいいのだ、と不意に初めて臨也は思った。
 一年半前に居住を決めた時は、単なるこの港町の佇まいが気に入っただけだった。だが、今は違う。
 いずれはどこかに居を移すこともあるかもしれないが、今はここに居ればいいのだという強い確信がある。
 それもまた、静雄がくれたものだった。
「……本当に、シズちゃんって馬鹿だよね」
 ふふっと小さく笑って呟けば、また涙が滲みそうになって、そのことにまた仄かに笑う。
 散々に傷付け、遠回りをしたのに、それでも尚、自分を求め、愛してくれる存在が、どうしようもなく愛おしくて。
 そして、同じくらいに幸せで。
 尽きることのない想いを抱き締めながら、帰ろう、と臨也はゆっくりと歩き出す。
 今は一人きりでも、もう一人きりではない。
 そのことが、ただ嬉しかった。

The End.

この作品を書くきっかけとなったあの震災の日から、ほぼ半年が経ちました。
その間、辛いことが次々に明らかになって、今も幾つものことが辛いまま継続しています。
一方で、少しずつ復興してゆく被災地の姿もあります。

この半年間、色々なことを考えました。
まだ何一つ終わっていません。
終わってはいませんが、いま私にできる精一杯として、この作品を全ての方々に捧げます。

この先、皆様の行く手に、決して消えることのない光がありますように。
心からの祈りと共に、『いつかどこかで』『ある晴れた日に』、これにて閉幕と致します。
最後までお付き合い下さって、ありがとうございました。m(_ _)m


2011.9.4.
古瀬晶 拝

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