ある晴れた日に 13

「ん…っ、…ふ……ぁ」
 重なる唇の角度が変わる度に、甘く濡れた声が零れてゆく。
 どれほどキスしてもされても、まだ足りない。どこまで飢えているのかと自分に呆れながらも尚も求めれば、更に貪るようなキスを返されて、酸素不足も相まってくらりと世界が揺れる。
「臨也」
 呼吸が続かず唇が離れると、今度は熱の籠もった低い声に耳元で名を呼ばれて、思わず体が震えた。
 名前を呼ばれるだけで、こんなに嬉しがるなんてどうかしていると思う。
 だが、丸三年間、この声には呼んでもらえなかったのだ。そして、もう二度と呼んではもらえないはずだった。
 だったら少しくらい喜んでしまっても良いのではないか、と言い訳するように臨也は考える。
 そう。どれほどの声に焦がれたことか。
 ノミ蟲とでいいから、呼んで欲しかった。
 呼ばれる声を聞きたかった。
 我ながら呆れるほどの純情っぷりだが、本当のことなのだから仕方がない。
「ねえ、シズちゃん」
「ん?」
「もっと名前、呼んでよ」
 やわらかく耳朶に歯を立てられるのに目を閉じながらねだると、一瞬、静雄の動きが止まる。だが直ぐに、また「臨也」と呼ばれた。
 あの頃とはまるで違う、優しい響きの声がじんと心に響く。
 ああ、なんだかまた泣きたい、泣いてしまいそうだと思った時、
「相変わらず、細ぇよな」
 頚動脈に沿って首筋を食むように唇で愛撫していた静雄が、ふと呟いた。
「仕方ないだろ。太らない体質なんだから。ていうか、シズちゃんに言われたくない」
 物足りない、と言われたような気がして、せっかく浸っていた感傷を吹き飛ばされた臨也は、少しばかりムッとしながら言い返す。
 これが三年前なら、肉付きがいいのが好きなら風俗にでも行けばいいだろ、でも君みたいな化け物、きっと誰も相手になんかしてくれないだろうね、と毒気たっぷりに嘲るところだが、さすがに今はそんな台詞を口にはできない。
 臨也自身としては、何を着てもそれなりに様になる自分の体型がそこそこ気に入ってはいるが、静雄の本来の好みがそうではないことは知っている。
 その観点から言えば、臨也も別に好きで痩せぎすをやっているわけではなく、これでは満足できないと言われたら腹が立つし、多分、傷付きもする。どだい、男にやわらかさを求めるのが間違っているのだ。
 だが、
「あー、そうじゃねえっつーの」
 臨也の不機嫌を感じ取ったのか、静雄は顔を上げて臨也の目を見つめた。
「そうじゃなくてよ。一番最初ン時のことを思い出したっつーか……」
「最初?」
 それはもしかしなくとも、先程の会話からの連想なのだろう。基本的に単細胞な気(け)のある彼ならば不思議ではない。
 何を言い出すのかとじっと見上げていれば、さすがに気恥ずかしかったのか、臨也の視線を避けるように静雄はまなざしを逸らし、言葉を続けた。
「初めてお前の裸見た時、すげぇ驚いたんだよな。思ってたより、ずっと細くてよ」
「──乱暴にしたら壊れそうだとでも思った?」
「……まぁな」
 彼の考えそうなことだと思って言葉を先取りすれば、案の定だった。
 根っこのところで、静雄は良識的なのだ。相手が嫌い抜いていたノミ蟲であっても、無防備な姿を前にしてしまったら、乱暴を働くことはできなかったのに違いない。
 最初から優しかったのはそういう理由か、と臨也が納得する間にも、静雄はぽつりぽつりと言葉を繋げた。
「それに男相手に経験がねぇってのも最初っからお前は言ってたし、本当だってのも直ぐに分かったし。もう細かいことは忘れちまったけど、感情任せに無茶苦茶すんのは駄目だと思ったのは覚えてる」
「……うん」
「あの頃は、優しくしたいとまでは思ってなかったけどよ……でも、もしかしたら、本当はずっと優しくしたかったのかもしれねぇな……」
 そう言い、静雄は少しだけ切ないような目をして手を上げ、臨也の前髪を梳き上げるようにするりと撫でる。
 その感触の優しさと温かさに、臨也は目を細めた。
 あの頃、こんな風に髪を撫でられたことはない。だが、手の感触はあの頃も同じだった。
 普段の彼からは想像もつかないほどに温かく、優しくて。
 のっぴきならないところに追い詰められるまで自分の心を認められなかったが、本当はいつでも触れて欲しくて仕方がなかった。
「十分、優しかったよ」
「ん?」
「シズちゃん、優しかったよ。俺、もっと滅茶苦茶にされると思ってたから、すごくびっくりした」
 正直にそう告げると、静雄はひどく複雑な顔になる。そして、深い呆れを含んだ溜息をついた。
「滅茶苦茶にされるつもりで男を誘うんじゃねぇよ」
 マジで馬鹿だろお前、と溜息混じりに、やわらかなキスが唇に降ってくる。
「だから、シズちゃんのことが嫌い過ぎて、おかしくなってたんだってば」
「だからって、やり方がおかし過ぎるだろうが」
「仕方ないだろ。ナイフは刺さらない、拳銃で撃ってもすぐに傷は塞がる、警察もヤクザも通じない。自分の力に振り回されて自己嫌悪で溺れそうになってた頃は、まだ可愛げもあったのに、それすらも克服しつつあってさ。他に君を傷付ける方法があったのなら、教えて欲しいね」
 自分で体を張る以外にどうすれば良かったのだと僻(ひが)んでみせれば、静雄はまた溜息をついた。
「手前はどこまでロクでもねぇんだよ。──まあ、結果から言えば正解だったのかもしれねぇけどな」
「そう、なんだ」
 思いがけず肯定されて、きょとんと問い返せば、ああ、とうなずかれる。
「言ったろ。お前が居なくなって、すげぇ後悔したって。でも、それもお前とこういうことしてなかったら、どうだったかは分かんねぇからな」
「……こういうことしてなかったら、そもそも俺は池袋を離れなかったと思うけどね」
 それはもう、この三年間に飽きるくらいに何度も考えたことだった。
 そして、自分は間違えたのだ、というのが臨也の過去の自分の行動に対する基本的な答えだ。
 どんな理由があれ、平和島静雄に必要以上に近付くべきではなかった。それこそ、来神高校の入学式で出会った直後から距離を取るべきだったのであり、嫌いだからといって滅多やたらに攻撃を仕掛けるべきではなかったのだ。
 だが、その一方で、自分の性格上、平和島静雄という異形の存在に強く引き寄せられるのは回避しようがなかったのだから、これはこれで正解だった、他の選択肢はなかったのだという諦観の思いも同じくらいに強くある。
 その両極の答えの間で三年間、臨也はずっと揺れ続けてきた。
 どちらが正しいのかは、今、こうして静雄と向き合っていても良く分からない。
 こうはならなかった方が自分らしく生きられたような気もするし、けれど、今こうして向き合っていられるという事実もまた、何にも替え難いと感じる。
 ただはっきりしているのは、こうなってしまった以上は、もう二度と離れたくないという自分の素直な気持ちだけだった。
「色々間違えたなぁとは思うんだけどさ」
「お前は、やることなすこと全部間違ってんだろ」
「だから、どうしてシズちゃんはそんなに失礼なんだよ。もういいから黙って聞いてよ」
 一応俺も反省してるんだから、と軽く睨みながら、右手を上げて静雄の口を塞ぐ。
 そして、静雄の鳶色の瞳を見上げながら、臨也はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……もう、良いかな、ってさ。全部」
 そう告げると、どういう意味かと問い返すように静雄の瞳が瞬いたから、もう少し言葉を足す。
「高校で出会って以来、碌でもないことばっかりシズちゃんに対してはしてきたけど、でも、そういうのが全部なかったら、多分、今こういうことにはなってなかったと思うし。だったら、あれこれ間違ってたけど、それはそれで正解だったのかなって」
 じっと見上げていると、臨也の言葉に数秒考え込んだ後、静雄は口元を塞いだままだった臨也の手に自分の手を添えて、そっと引き剥がした。
「──まあ、そうかもな」
 そんな言葉と共に、そのまま右手をやわらかく握りこまれて、伝わってくる温もりに臨也は目を細める。
「お前と俺が揃って馬鹿でなけりゃ、俺たちは変わりようがなかった気がするし、社長が俺にケーキを取りに行かせなかったら、お前とはもう一生会えなかった気もするし。全部繋がってんだから、もしもとか考えるのはあんまり意味のねぇ話かもな」
「だろ。そういうの全部越えて、目の前にシズちゃんが居るんだから、もう今はそれだけでいいかなって気がする」
 臨也がそう告げながら、自由な左手を上げて静雄の髪をこめかみの辺りからそっと梳き上げるように撫でると、またひどく複雑な表情で静雄は臨也を見下ろした。
 じっと見つめられて、なに?、と含みのある目線で返すと、静雄は小さく溜息をつく。
「お前、分かってやってんだろ」
「どうかな」
 くすりと笑いながら答えるのは、肯定しているのと同義だろう。
 繰り返し静雄の少しぱさついた髪をゆっくり梳いていると、左手もまた、静雄の手に絡め取られ、両手共にベッド上にゆるく拘束される。
 その無防備な姿勢のまま見上げていれば、スローモーションのように顔が近付いてきて、唇が触れる直前で臨也は目を閉じた。



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