ある晴れた日に 12

 静雄の掌が臨也の首筋を滑り降り、触れるか触れないかのやわらかなタッチで身体の線をたどってゆく。
 そして、ウエストまで辿り着くと、その手は、今度は逆に上に向かって上り始めた。
「シ…ズちゃん……」
 温かく大きな掌が、ゆっくりと薄く筋肉で覆われた腹部から胸部へと上がってくる。それがどこを目指しているのか、疑問を挟む余地もなかった。
 肌の上を滑る感触に身をすくませながら、その時をじっと待っていると、温かな指先が胸元をなぞり、心臓の鼓動を探り当てて止まる。
「やっぱり速ぇ、な」
「……この状態で普通だったら、シズちゃんだって困るんじゃないの」
 ささやかに言い返せば、静雄は少しだけ考える素振りを見せ、しかし、答えるには如かずと判断したのか、無言のまま臨也の肌に唇を寄せて、かり、とほっそりした鎖骨をかじる。
 ずるいよ、と臨也はなじったが、その甘い響きは睦言と変わらず、静雄が動きを止めることもなかった。
 それ以上の追求は臨也も諦め、全身を確かめるように触れる静雄の手指や唇の動きに身を委ねながら、静雄の少し痛んだ金髪や、細身であってもしっかりと広い肩を撫でる。
 一つ一つ触れられてゆくうちに、最初のうちはくすぐったさと紙一重だった感触が少しずつ色を変えて、たまらない疼きへと繋がってゆく。そのもどかしいような感覚が、臨也は好きだった。
 こうして時間をかけられればかけられるほど、後から得られるものは深く、大きくなる。かつて、まるで恋人に対するような静雄の愛撫を受け入れていることについて、臨也はそんな風に理由付けしていた。
 それは確かに、真実の一面でもあったが、素直になってみれば本心はもっと単純で、性急に体を繋ぐのとは対極の丁寧な愛撫が嬉しかったからだ。
 即物的な快楽を求められるだけでなく、とても大切に愛されているような錯覚。それを味わいたくて、静雄のもとに事ある毎に通っていただけの愚かしい話だ。
 そんな自分の惨めさから目を逸らして、自分の中から湧き起こる不可解な苛立ちを、ひたすら静雄にぶつけていたかつての己に、臨也はほろ苦い笑みを口元に浮かべる。
 すると、不意に胸元の尖りに軽く歯を立てられて、そこから全身に響いた甘い感覚に、思わず臨也は小さな声を上げた。
「何考えてんだよ」
「え……ああ、」
 臨也が意識を逸らしていることに気付いての報復だったらしい。少しばかり不機嫌さを滲ませた静雄の声とまなざしに、臨也はきょとんとなり、それから合点してうなずく。
 愛撫している最中に、受けている側が上の空だったら、誰だって腹を立てるだろう。だから、静雄の苛立ちを理不尽だとは思わなかった。
「ごめん……ちょっと昔のこと、思い出してたから」
「昔?」
「うん。三年前までのこと」
 素直にそう告げると、静雄もまた考えるような思い出すような目になる。
 それを見て、不意に臨也は、ずっと聞きたかった質問があったことを思い出した。
「ねえ、シズちゃん」
 少しぱさついた静雄の髪を指で梳きながら、問いかける。
「どうして、俺が誘った時に拒まなかったの? それに、どうして乱暴にしなかったわけ? 特に一番最初とかさ……」
 それを聞いた静雄の眉が小さくしかめられる。そういう難しいことを俺に聞くな、というような表情にもめげず、じっと目を覗き込むと、静雄はほどなく諦めたように溜息をついた。
「なんでっつっても、分かんねぇよ。……まあ、お前がいきなり誘ってきた時は驚いたけどな。でも、そのうちの半分は、そういう関わり方もあったのかっつー驚きだった気もする」
 静雄も全くこの件について考えたことがなかったわけではないのだろう。訥々とした語り口ではあったが、ゆっくりと言葉を選んで並べてゆく。
「殴り合ったり殺し合ったり、そういうのとは違う付き合い方ができるんなら、してみたかったのかもしんねぇな、俺は」
 俺は、という物言いに少しだけ責められたような気がした。
 あの時、臨也もそういう気持ちで向かい合ったのであれば、確かに自分たちの関係はその時点で変わっていたかもしれない。
 だが、臨也が抱えていた感情は、その真逆だった。そんな相手と抱き合うことを静雄はどう受け止めていたのか。
「嫌だとは思わなかったの? 俺が君に対して良くない感情を持ってたのは、抱き合ってれば伝わっただろ」
「あー、まぁな。俺もそこまで馬鹿じゃねぇし、そもそも手前のことなんざ信用してなかったし。でもまあ、殴るよりは気分はマシだったからよ」
 その答えを聞いて、臨也は少し考える。
 つまりは、臨也相手でも殴った後の自己嫌悪はあった、ということなのだろう。対して、SEXは臨也から誘いかけたものであり、少なくともそこには痛みを伴う分かりやすい暴力は存在しなかった。静雄にしてみれば、その分だけ、僅かなりとも気分は楽だったのかもしれない。
「……拒まなかった理由は分かったよ。でも乱暴にしなかったのは?」
「フェアじゃねぇとか、そういう風に思ったんじゃねぇのか」
「フェアじゃない?」
 あまりにも自分たちには似つかわしくない単語が飛び出して、臨也は鸚鵡返しに呟く。
「SEXと殴り合いは、全然違うもんだろ」
 すると、静雄は目線を逸らしたまま、一つ目の問いかけと同じように言葉を探し探し答えた。
「喧嘩してる時は、俺が殴りかかっても、お前は避けるだろ。でも、SEXは……一度突っ込まれちまったら逃げらんねぇ。そもそも同じ男なのに、俺が一方的に好き勝手やるのは駄目だろ」
「……あの頃、シズちゃんは俺のこと嫌いだったよね……?」
「ああ」
「じゃあ、チャンスだとは思わなかったわけ? 俺のこと目茶苦茶にできたのに。ていうより、喧嘩の時は俺のことをとっ捕まえたら、結構遠慮なく殴ったよね? 骨折止まり程度には加減してくれてたけど」
「だから、SEXでそういう真似をしちまったら、男として終わりだろうが」
 少し苛立った様子でそう言われて、臨也は静雄を見つめたまま考え込む。
 そして結論らしきものに辿り着き、これでは敵わないわけだ、と今更ながらに自分の敗北を納得した。
「……そういうことか。ちょっと考えれば分かりそうなものなのに……馬鹿だったなぁ」
「? 何の話だ」
「ああ、うん。シズちゃんのSEXに対する考え方が分かったってこと」
 一言で言えば、臨也は静雄の尊厳を傷つけるつもりで誘ったのに、静雄の方は本能的に臨也の尊厳を守ろうとした、ということだ。論理的に考えたわけではないらしい辺りが非常に動物的だが、それは今更指摘する点でもない。
 いずれにせよ、これでは臨也の卑劣な思惑が通じるはずもなかった。誘いをかけた時点で、臨也の敗北は確定していたのである。
 その結論に、ほろ苦いような、馬鹿馬鹿しいような、それでいて嬉しいような複雑な気分で微笑むと、静雄が「何だ」と問いかけてきた。
「──シズちゃんが優しかったから、嬉しかった、っていう話かな」
「……は?」
「勿論、その時は分かってなかったんだけどね。俺は君のこと傷付けるつもりだったのに、まるっきりスルーされたんだから、当時は滅茶苦茶に腹立ててた。でも、やっぱり嬉しかったんだよ、本当はさ」
 あの晩のことは、自分ですら気付いていなかった深層心理を、静雄に受け止めてもらったに等しかった。
 静雄の優しさを五感全てで感じ取らなかったら、おそらくその後、臨也は最後まで立ち止まれないまま池袋の街を破滅に導いていただろう。その結果、現実とは比べ物にならないくらいの人々が泣き、傷付いたはずだ。
 だが、当の静雄自身は、池袋の街や他ならぬ臨也自身を救ったことなど、微塵も気付いていない。
 そのことがどうにも彼らしくて、おかしくて、臨也は小さく笑う。
 すると、静雄は半分困ったような顔で、臨也の頬を指先でつついた。
「さっぱり分かんねーよ。説明する気あんのか、ノミ蟲くんよぉ?」
「ごめん、無い」
「おい」
 ふざけてんのか、と凄まれて、臨也はとうとう声を上げて笑う。
 何故だか、おかしくて仕方がなかった。昔読んだ小説の中に、神様の御都合主義、という造語があったが、これはまさにそれだろうと思う。
 こんな風に全てが奇妙に噛み合って、こうして今、二人で居られるなんて、有り得ないレベルの奇跡だ。
 おかしくておかしくて──どうしようもないくらい、幸せだった。
「だーかーらー、何笑ってやがるんだよ!」
「別に悪いことじゃないってば」
 笑いながら臨也は、のしかかってくる静雄の頬を指先で撫でる。
「本当だよ。もうシズちゃんには嘘つかないから」
「……その台詞自体が嘘くせぇ」
「うわぁ、ひどい」
 嘘くさいという静雄の台詞は、自分たちの会話に付き物だった売り言葉に買い言葉であることは考えるまでもなかったから、臨也は笑って聞き流す。
 そして、笑いを収めて静雄を見上げた。
 真っ直ぐに臨也を射抜く、鳶色の瞳。
 まなざしだけでなく、何もかもが静雄は真っ直ぐだった。幼少時から人付き合いが少なかったせいなのか、先天的な性格なのか、二十代後半になった今も、子供のように純粋で不器用で温かい。
 臨也が繰り返し仕掛けた暴力沙汰によって心は散々に傷付いただろうに、それでも臨也を受け入れて求めてくれた。
 奇跡がこの世にあるとしたら、彼の存在そのものが臨也にとっての奇跡に他ならない。
「続きしよっか、シズちゃん」
 微笑んでそう告げると、静雄はほとほと呆れたように眉をしかめる。
「マジで訳分かんねぇよ、手前は」
「俺は分かってるから大丈夫」
「全然大丈夫じゃねぇっての。後できちんと説明しろよ?」
「……うん」
 聞く気あるんだ、と聞き返しかけて思いとどまり、臨也はうなずく。今日の静雄は何度も臨也の長話に付き合ってくれたのに、この上で混ぜっ返すのは、さすがに失礼な話だった。
 臨也がうなずくと、それで静雄は満足したのだろう。
 よし、と応じて、キスを落としてくる。
 臨也ももう余計なことは口にせず、目を閉じて甘く優しい温もりを受け止めた。

to be concluded...

神様の御都合主義=『夜は短し歩けよ乙女』 森見登美彦著 角川文庫より

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