ある晴れた日に 09

「俺はただ、君から何か言葉を引き出したかったんだ。でも、もしシズちゃんが言葉を返してくれたとしても、その最後の言葉は分かってた。──俺には関係ない、だ」
「────」
「俺だって、もし君が君自身のことや、俺たち二人に関することで何か言ったら、俺には関係ないと笑い飛ばしたよ。それが、あの頃の俺と君の関係だった」
 そう、分かっていた。不毛極まりない関係。それが二人を言い表すのに、最も相応しかった。
 なのに、あの時、臨也はそれだけではない何かを求めた。
 自分たちの間には何かがあるのではないかと、有り得ないと分かっていながら、心のどこかで期待した。
「正直に、言うよ。シズちゃん」
 さすがに耐え切れず、臨也はまなざしを伏せる。
 せめて声だけは震えないで欲しいと祈りながら、言葉を紡ぎ出す。

「俺が本当にあの時、言いたかったのは、俺が居なくなったらどうする?、だ。そして……君には、どこにも行くなと……言って欲しかった」

 そう告げると、静雄が息を呑む気配が伝わった。
 だが、彼が何かを言う前に、臨也は強い声で遮る。
「分かってるよ。今ならいざ知らず、あの頃の俺たちにそんなやりとりは不可能だ。俺はこんなことを口には出せなかったし、君だって、手前が居なくなればせいせいすると背中を向けるのが関の山だったはずだ。そうと分かっていながら正反対の言葉を欲しがった時点で、俺は君に……負けたんだよ」
 目元に熱さが忍び寄り、喉の奥が引き攣れたように痛む。
 それを押さえ込んで、臨也は静雄を真っ直ぐに見つめ、言った。
「俺はね、シズちゃん。君が誰よりも嫌いで、君に勝ちたかった。自分が君よりも優れた人間だと、何としても認めさせたかった。さもなくば、君を殺してしまいたかった。でも、それは真実じゃなかった。
 俺が欲しかったものは、それとは似て非なるもので、あの頃の俺には決して手に入らないものだった」
 静雄の鳶色の瞳が、臨也を食い入るように見ている。
 あの頃、こんなまなざしで自分を見ていてくれれば、と臨也は思った。
 だが、決してそうはならないよう仕向けたのは臨也自身だ。初対面の時から強烈に惹かれたのに、人類全てを愛すると高言して優越感に浸っていた身にはそれが許せなくて、ひたすらに嫌悪し、憎悪した。
 最初にそういう選択をした以上、二人の行く末にはカタストロフィーしかなかった。臨也自身が、それしか用意しなかったのだ。
 そのことに芝居の終幕になってから気付いても、今更、軌道修正できるはずなどなかった。
「そうして自分の本心が見えてしまえば、池袋の街で企てていた計画なんて、もう何の意味もなかった。デュラハンが目覚めて、俺が真の戦士だと認められたところで、君は俺を認めない。俺の完全な負けだった」
「……それで全部放り出して、逃げたのか」
 低く問いかけられて、臨也は苦い笑みに眉をしかめる。
「逃げたって言われ方は心外だけど……消えようと思ったのは確かだよ」
 計画を完成させるメールを送信できなかった時点で、全ては終わっていた。それでも尚、静雄に会いに行ったのは、臨也の未練だ。
 もしかしたら、自分たちの間には何かあるのではないかと、髪一筋ほどの希望にすがり、無様に打ち砕かれて。
 静雄のアパートを出てタクシーを拾い、新宿のマンションに帰るまでの間に、臨也の心は完全に絶望と虚無に蝕まれて、部屋に辿り着く頃には、自分が居た痕跡を綺麗に消して遠くへ行くことしか考えられなくなっていた。
「あの後、新宿に戻ってそのままあらゆるものを処分して、約十日後に東京を出た。そこから先は、さっき話した通り」
 全ての処分作業が終わったところで、波江には一生遊んで暮らせる程度の残高がある秘密口座の一つを渡し、セルティの首は貸金庫に預けて、その鍵は新羅に届けた。
 新羅としては、そんな鍵など要らなかったかもしれない。だが、臨也にとっては既に首は用無しだったし、セルティ本人に返すには、何かと仕事を手伝ってくれた彼女への恩義より新羅に対する長年の友情の方が勝った。
 その後、新羅がどうしたのかは、情報を収集していないため分からない。静雄に聞けば何か分かるかもしれなかったが、今はそういう話の流れではないし、積極的に知りたいとも思わなかった。また、己の幸せに恐ろしいほど貪欲だった新羅なら、上手くやっているのではないかという達観もある。
 ともかくも、あの頃の臨也は、自分自身のことだけで手一杯だった。
 ある程度、落ち着いて物を考えられるようになったのは、東京を離れて半年以上も経ってからだ。
 そして日本と世界のあちこちで、空を眺め、海を眺め、大地を踏みしめ、風に吹かれているうちに、色々なものが削げ落ちていった。
 自分が自分らしくあるためのプライドだと嘯(うそぶ)いていた虚飾も傲慢も、何もかも崩れ去り、残ったのは、たった一人への叶わぬ想いだった。
 静雄との出会いから十年余りを経て、初めて泣いたのは、どこの海上だったか。
 夜、客船の甲板に出て、凪いで煌めきながらどこまでも広がる海と紺碧の空、恐ろしいほどに明るい月を見つめているうちに、たまらなく会いたくなった。
 恋しくて、苦しくて、甲板に他に人が居なかったことを幸い、完全には声を押し殺さないまま涙が涸れ果てるまで泣いた。
 そうしてやっと、日本に帰ろうと思ったのだ。
 彼への想いを抱えたままで、もう一度生き直そうと決めて、帰国し、住む場所を探した。
 一応、関東に居を定めたとはいえ、東京に足を向ける気は無く、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。だが、それも仕方のないことだと受け止めていたのだ。
 くだらないプライドに拘泥した挙句、何一つ手に入れられなかった自分には、こんな結末が相応しいと思っていた。
 なのに。
「───クソッ」
 じっと臨也の言葉を聞いていた静雄は、苛立ったように短い溜息をつく。
「馬鹿なのは、俺も一緒か」
 そう低く呟き、立ち上がった。荒っぽい動作に、椅子ががたんと音を立てる。
 そして、テーブルを回りこんだ静雄は臨也の傍らに立ち、おもむろに手を伸ばして臨也の右腕を掴み、引き上げた。
「シ、ズちゃん……?」
 余程の力加減をしてくれたのだろう。引っ張り揚げられたのに、掴まれた箇所に痛みはなく、立ち上がった臨也の体は、ぽすんと静雄の胸の中に飛び込む。
 驚くよりも早く、背中に両腕が回され、ぎゅっと抱き締められた。
「──お前が居なくなって、すげぇ後悔した」
「え……」
「なんでもっとお前の話を聞かなかったんだって。あの夜、お前の言葉に俺が何か言葉を返してれば、また違ってたんじゃねぇかと、ずっと後悔してた」
 臨也の耳元で、どこか苦しげに静雄がそう言葉を紡ぐ。
「お前も馬鹿だけどよ。お前が居なくなるまで気付かなかった俺も、馬鹿だ」
「シズちゃん……」
 呆然と聞いていた臨也の目元に、また熱さが滲む。喉の奥が引き攣れて痛い。
 だが、それ以上に胸の奥が、息も止まるほど痛かった。

「この三年間、ずっとお前を探してた。街に出る度、どっかその辺から前と同じようにお前が出てくる気がしてよ、いつもお前のことしか考えてなかった」

 切々と告げられる言葉に、耐え切れず目を閉じた臨也の眦から涙が零れ落ちる。一つ落ちてしまうと、もう止まらなかった。
「馬鹿だ。俺も、お前も」
 震える静雄の声に何度もうなずきながら、臨也は静雄の背中に腕を回し、ぎゅっと縋り付く。
「臨也……」
 切なく熱を孕んだ優しい声で名前を呼ばれ、髪を撫でられて顔を上げるよう促される。
 そうして唇を重ね、交わしたキスはひどく甘く、涙の味がした。



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