ある晴れた日に 08
「ヨーロッパは大体回ったよ。気に入った街があると一週間とか二週間過ごして、また次に移ることの繰り返し。アジアは空港がある大都市を、点から点で移動した感じかな。パンダも見てきた。中国の山の中にパンダの保護センターがあるの、聞いたことないかな」
「……ニュースで見たことはある」
「うん。多分、それ」
うなずきながら、臨也はベーグルに手を伸ばし、クリームチーズにサーモンという定番のサンドをこしらえる。
静雄も少し迷ったようだったが、たっぷりのクリームチーズにスモークチキンとレタスを載せて、ぱくりとそれに噛み付いた。
そして、黙って咀嚼し、飲み込んでから感心したように口を開く。
「美味いな、このベーグル」
「うん」
「前にどっかで食べた時は、もさもさしてて喉に詰まる感じだったけど、これはもちもちして美味い」
その擬音の使い方に、彼らしい表現だと微笑みながら臨也はうなずいた。
「駅の近くにあるパン屋のやつなんだけどね。何買っても外れのない、いい店だよ」
「へえ」
臨也も空腹だったが、静雄も空腹だったのだろう。あっという間に一つ目のベーグルサンドを食べ終え、二つ目にはブルーベリージャムをたっぷり塗って食べ始める。
臨也もまた、二つ目は紅玉リンゴのジャムを選んで、ゆっくりと自分のペースで平らげた。
「なぁ」
「ん?」
そうして互いに本能的な欲求が落ち着いたところで、静雄が切り出す。
「どうして手前は、池袋を出てった? さっきの口ぶりじゃ、別に外国に行きたかったって訳じゃねぇんだろ」
前置きのない単刀直入な物言いは、いかにも静雄らしかった。
おそらく黙ってベーグルを食べている間、頭の中では色々と思いを巡らせていたのだろう。食事が大方済むまで待っていてくれたのは、むしろ紳士的だというべきだった。
「──そうだね。全部話すと長くなるけど、最初に総括してしまうなら、多分、どうして俺が君を傷付けようとし続けたのか、っていう問いに全部繋がる」
先程、ベッドの上で臨也が口にした、寂しかったか、という問いかけに、静雄はうなずいた。
そもそもからして彼の性格上、何の情もなくてあんなキスやSEXができるはずがない。
それだけの想いを向けてくれている上での問いかけである。だからこそ正確に答えたかったから、臨也は真っ直ぐに静雄にまなざしを向けた。
「君はどういう風に解釈してた? 高校入学以来、延々と続いた君に対する俺の悪意を」
臨也の視線を、静雄は正面から受け止める。
そして、たっぷり三十秒ほども沈黙した後、分からねぇ、と溜息をつくようにまなざしを逸らした。
「……俺はずっと、お前は俺を嫌いなんだと思ってた」
わずかに視線を落としたまま、自分の感情を確かめるように静雄は訥々と言葉を綴る。
「目障りな俺をどうにかしようにも、一対一じゃどうにもできねえから、嫌がらせみたいな喧嘩を次から次に仕掛けて、俺がそれに嫌気が差して池袋を出てくのを待ってんのか、とかな。──でも、お前がいきなり居なくなっちまったから……」
答えが出ないまま、疑問は宙に浮いてしまったのだと言いたげに、静雄は目を眇める。
「今は全然、分かんねえよ。あの頃、お前が何を考えてたのかなんざ」
「──うん」
静雄の言葉に、臨也はうなずく。
そして、自分のマグカップを両手で包むようにして、残っているカフェオレの温もりを手のひらに感じ取った。
「君の勘は間違ってないよ。池袋を出るまでの十年間の大半は、俺は君が嫌いで、何とかして存在を消したかった。そのことばかりを考えて生きてたと言っても過言じゃない」
一番最初に会った瞬間から、臨也は静雄が嫌いだった。憎んだと言っても過言ではない。
どこが、と説明をつけることすらできないほどに、何もかもが嫌いで目障りで、自分の前から消し去ることしか考えられなかった。
なのに臨也がどれほど策を巡らせようと、静雄は一向に傷付かず、いつまでも臨也の前に立っていて。
不良集団はもとより、警察やヤクザを使ってすら、静雄を抹殺することはおろか、池袋の街から遠ざけることもできなかった。
そのことがどれほど臨也の自尊心を傷付けたか、静雄には想像もつかないだろう。
「多分、俺は君が嫌い過ぎて、新宿から池袋に戻ってきた頃には、もう少しおかしくなっていたんだと思う。とにかく君を傷付けたくて、なりふり構わなかった」
「───…」
なりふり構わなかった、の意味を正確に察したのだろう。静雄のまなざしが少しばかりの険を含んで細められる。
だが、それが真実なのだ。臨也が静雄と寝たのは、決して愛情からではなかった。少なくとも、その時点ではそんなつもりなど微塵もなかった。
肉体を傷付けられないのなら、せめて嫌悪に顔を歪めさせたい。忘れられないほど嫌な思い出を刻み込んでやりたい。そんな思いで臨也は静雄を誘ったのだ。
今から思えば、その論理立て自体が気狂いじみているし、静雄がそれに応じたこともおかしい。
だが、あの時はそんなことに気付く余裕すらなかった。
「でも、俺が池袋で進めていた計画──あの碌でもない企みの最後の段階でね。全部のお膳立てが整って、さあ、あと何通かのメールと掲示板への書き込みをすればいい、とそう思ったときに、何故か俺は、君のことを思い出した」
「──俺を?」
「そう。このメールを送ったら、君はもう二度と俺を許さないだろうな、って。これまでの殺し合いを遥かに超える勢いで、君は俺を潰しに来るだろう。そうしたら、本当にもう全部終わりだ、ってさ」
軽い口調でさらりと言いながら、臨也は、当時はこんな生易しい表現では到底済まなかった、と思い返す。
静雄との関係が終わる、と思った途端に、臨也は動けなくなったのだ。携帯電話を片手に、その画面を見つめたまま、指一本、動かせなくなった。
作成したばかりのメールを送信すれば、終わりが始まる。何もかもが怒濤の勢いで破滅に向かい、静雄は、これまでのようなとどめを刺さない茶番劇めいた殺し合いではなく、本当に臨也の息の根を止めにくるだろう。
次に静雄の手が臨也に触れる時は、臨也が死ぬ時だ。或いは、その前に臨也が静雄を何らかの手段で殺すか。
いずれにせよ、もう二度とまともな会話をしたり、体を重ねたりすることはない。
二人のうちのどちらが死ぬにせよ、これでやっと十年もの間、憎み合い、殺し合うばかりだった関係が終わるなら万々歳ではないか。そう思っても、指はこわばったまま、一向に送信ボタンを押せなかった。
そして、ソファーに腰を下ろしたまま、まんじりともせずに一夜を過ごして。
「……それは、手前が俺んとこへ来た最後の夜よりも前か後か、どっちだ」
不意に問われて、臨也は静雄を見つめる。鳶色の瞳は、ひどく真剣なまなざしで臨也を見据えていた。
「……前、だよ」
「だったら、あの時の、池袋の街でやりたかったことは全部やった、ってのはどういう意味だったんだ」
「──覚えてたの……?」
「忘れるわけねぇだろ。俺が手前の言葉を聞いたのは、あれが最後だったんだからな」
臨也が目をみはって問い返すと、静雄はあからさまに怒った表情で答える。
「何度考えても分かんなかったんだよ。やりたいことを全部やったって言う割には、お前は何もかも最後の段階で放り出して消えた。じゃあ、お前のやりたいことは何だったんだ。なんで、わざわざ俺にあんな言葉を聞かせたんだよ?」
「それは……」
答えようとして声が震えかけ、臨也は一旦、口を閉ざす。
──携帯電話片手にソファーで一夜を明かした後、臨也は短い仮眠を取ってから、池袋の街に出た。
仕事中の静雄とはかち合わないルートを選び、一日中、街を眺めて過ごした後、夜になってから静雄のアパートを訪れ、いつものようにSEXをして。
独り言のように、呟いた。
返事があるとは思っていなかった。だが、声に出して言ったということは、何かの反応を期待していたということだ。
しかし、五分ほど待っても静雄からは何の応答もなく、臨也は黙って服を着て静雄のアパートを後にし、新宿に帰った。
そしてそのまま、波江に手伝わせて複数あった事務所や隠れ家の全てを処分し、東京を去ったのだ。
結果的にそれが静雄とは最後の逢瀬になったわけだが、あの時、自分は本当は彼に何と言って欲しかったのか。
池袋を離れてからも、何度も考えた。繰り返し繰り返し、自分でもはっきりとした答えの出せない、あの一言のことを。
「言葉そのものには……あまり意味はなかった、と思う」
「あ?」
静雄の目は真っ直ぐに臨也を見つめている。臨也もまた、静雄の目を真っ直ぐに見つめ返す。
あの頃も自分たちはこんな風にまなざしを交わしていた。だが、そこに含まれていたのは嫌悪と拒絶ばかりで、互いに相手を理解することはなかった。
何度殺し合っても、何度体を重ねても、何一つ理解せず、何一つ相手に伝えなかった。
思えば、どれほど不毛な十年間だったのか。
今更ながらに心が軋むのを感じながら、臨也はゆっくりと言葉を喉から押し出した。
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