ある晴れた日に 07

 目覚めは、ふわりとした意識の浮上だった。
 あったかい、と夢うつつの中で思い、それから身動きしようとして動けないことに気付き、あれ、と臨也は心の中で呟く。
 ぼんやりと目を開き、二度三度まばたきして、背中が温かい、というよりも何か温かいものがくっついていて、そこから伸びた、これまた温かいものに上半身をがっちりと抱え込まれていることを感じ取り、考え込むこと数秒。
「……シズちゃん?」
 連鎖的に意識を失う前の状況を思い出し、心当たりの名前を呼ぶ。
 すると、後頭部の辺りで、起きたのか、と低い声が答えた。
「うん、起きたけど……」
 何だろうこの状況は、と臨也は少なからず困惑する。
 ベッドに横向きに寝ているのはいい。もともと右側を下にして寝る癖がある。だが、それを背後から抱き締められているというのは、どうだろうか。
「……あのさ、ちょっと離してくれないかな。俺、起きたいんだけど」
 そろりと提案してみるが、今度は返事はなかった。勿論、腕の力も緩まない。
 きつく抱き締められているわけではないものの、腕一本でもそれなりの重さはあって鬱陶しいし、かといって、それを強引に撥ね退けるのも、今となっては何となく憚(はばか)られる。
 決して心地悪いわけではないし、こんな風に執着されるのも、不思議な気分ではあるものの嬉しくないわけではない。
 しかし、現状においては一つ、それなりに切実な問題があり、どうしたものかと案じながら、臨也は再度口を開いた。
「ねえ、俺、おなか空いたんだけど」
 実に色気の無い話ではあるが、臨也の意識が戻ったのは、睡眠欲が満たされたからというよりは空腹のせいだった。
「朝はシズちゃんからのメールで起こされたからさ。今日はまだミネラルウォーターしか口にしてないんだよね」
 メールを確認して起きた後は、シャワーを浴びて身支度をしている間中、あれこれと考えていたせいで、コーヒーすら淹れ損ねたため、臨也の胃の中は文字通り、空っぽである。
 こうして話している間にも、どんどんと体と脳が目覚めてゆくせいか、自覚した空腹感は耐え難いものになってきて、臨也は辛うじて自由になる右の肘から下だけを動かして、自分を拘束している静雄の腕を軽くぽんぽんと叩いた。
「ね、離してよ。シズちゃんだって昼御飯、食べ損ねてるだろ。美味しいコーヒー淹れてあげるから」
「───…」
 そう訴えると、いかにも渋々といった風情で腕がほどかれる。ほっとして臨也は、ありがと、と短く告げて身じろぎし、体を起こした。
 久しぶりのSEXでどうかと思ったが、かつてと同じく、無茶なことは何もされなかったせいで軋むような箇所はどこにもない。全身に倦怠感はあるが、それは仕方のないことで、他は普通に動くには何の支障も無さそうだった。
 狭いベッドが嫌いであるが故のダブルベッドから下り、その辺りに放り出されたままだった衣服を拾い集めて順番に身につける。
 ある程度の後始末は静雄がしてくれたらしく、肌そのものは乾いていたから、空腹に負けた臨也はシャワーは後回しにしようと、真っ直ぐダイニングキッチンに向かった。
 手を洗い、ふと時計を見てみると、思ったより時間は過ぎておらず、まだ午後二時にもなっていない。
 意識を失っていたのは、せいぜい三十分程度らしいと計算しながら、とりあえずはコーヒー用の銅製ケトルにたっぷり水を汲み、コンロにかける。そして、コーヒードリッパーの用意をしてから、冷蔵庫を開けて幾つかの食材を取り出した。
 かなり限界状態の空腹だったから、手間をかけるつもりはなく、最近気に入っているインスタントのミネストローネと、有り合わせの具を挟んだベーグルサンドにするつもりで、臨也はクリームチーズやサーモン、生ハム、スモークチキン、レタスといった火を通さなくてもそのまま食べられる食材を皿に盛り付け、数種類のジャムの瓶も取り出してテーブルに並べる。
 それから、これまた最近の気に入りであるベーカリーで昨日、買ってきたベーグルを四つばかり袋から取り出して、横半分にスライスした。
 それをパン用の木製カッティングボードに載せたままテーブルに置くと、ちょうど良くケトルのお湯が沸く。
 はいはいと小さく呟きながらコンロの火を止め、ドリッパーに細く丁寧に湯を注いで、濃い目のコーヒーをじっくりと落とした。
 それだけの作業をした頃、静雄が寝室から出てきて、興味深げにテーブルの上を眺める。彼はジーパンとネルシャツは身に付けて、ボタンも留めていたが、足元は何故か裸足だった。
「スリッパ、玄関にあるよ? 足冷たいだろ」
「いや、別に」
「そう。なら、いいけど」
 本人が構わないというものを無理に進める必要は無い。それならそれで、と臨也はスープカップにフリーズドライのミネストローネを放り込み、ケトルに残っていた湯を注ぐ。
 そうしておいてから、牛乳を温めようとミルクパンを取り出しかけて、臨也は手を止めた。
「シズちゃんって、コーヒーの好み、ブラックじゃないよね?」
「ああ」
 振り返って尋ねると、ジャムの瓶を取り上げてラベルを眺めていた静雄は、短くうなずく。
「じゃあカフェオレでいい? 俺、パンの時はいつもそうだから、そのつもりで、カフェオレ用の豆で濃い目にコーヒー淹れちゃったんだけど」
「砂糖も入れてくれ」
「了解」
 シズちゃんも甘党で良かった、と昔なら考えもしなかったことを思いながら、臨也はミルクパンに200ccほどの牛乳を注ぎ、中火で温める。
 そして、沸騰寸前になったところで火を止め、そのミルクパンを左手に、ドリッパーを外した耐熱ガラスポットのコーヒーを右手に持って、ホワイトとセピアの液体がカップの上で一つになるよう調節しながら、マグカップに注いだ。
「──すげぇな、それ。何かの曲芸みてえ」
「へ?」
 ひどく感心したように言われて、臨也は何のことかと一瞬考える。
「これ? カフェオレの淹れ方?」
「ああ」
 素直にこくりとうなずかれて、うーんと思いつつ、臨也は二つ目のマグカップにも同様にしてカフェオレを注ぐ。
 そして、空になったミルクパンと耐熱ポットをシンクに置いて水を注いでから、二つのマグカップを手に、テーブルに向かった。
「別に曲芸とかじゃなくて、カフェオレの正式な淹れ方なんだけどね。確かに、あんまり知られてないかな」
「正式、って、そんなのあるのか」
「あるよ。コーヒーに牛乳入れたらいいってもんじゃないんだよ。それじゃ、ただのコーヒー牛乳だろ」
「そうなのか」
「うん」
 うなずきながら、椅子に腰を下ろした臨也は、シュガーポットを向かい側に座った静雄の方に押しやる。すると、静雄は遠慮なく山盛り一杯の砂糖をカフェオレに入れ、スプーンで掻き混ぜた。
 それから、ゆっくりとマグカップを口元に運んで一口啜り、美味い、と感心したように呟く。
「缶コーヒーと違うのは当たり前だろうけど、スタバの奴とも全然違うな」
「そりゃあね」
 彼らしい感想に、臨也は小さく笑う。
「スタバのラテは、原則としてはイタリアンローストの豆を使ったエスプレッソのはずだし。まあ、俺に言わせれば、本当のエスプレッソとは程遠い味だけどさ」
 言いながら、臨也は静雄の様子を窺うが、薀蓄に機嫌を損ねた様子はない。キレるか否かは物言い次第なのかな、と思いつつ、臨也は言葉を選びながら続けた。
「カフェオレはね、フレンチローストって呼ばれる深煎りの豆を使うんだよ。コーヒー豆を黒焦げ寸前まで炒ったのを細かく挽いて濃く出るようにした奴で、普通の倍以上濃いコーヒーを淹れて、沸騰寸前まで温めたミルクと半々でカップに注ぐ。で、注ぐ時は同時に、空中で一つになるように、が本式のやり方。プロだとカップの三十センチ以上上から注いでくれるよ。
 ついでに言うと、泡立てたフォームドミルクを使うのは邪道。あれはイタリアのエスプレッソマシーンで蒸気を使ってミルクを温めるから泡立つんであって、フランスではそんなマシーンは使わないから」
「……お前って本当に、どうでもいいことばっか知ってんな」
 感心したような呆れたような口調で言われて、臨也は、つい噴き出す。確かにそうだった。生活を豊かにするが、興味のない人間にはどうでもいい知識だ。
「でも、知ってるから、美味しいカフェオレを自分でも淹れられる。損はないよ」
「まぁな」
 こくりとまた一口、カフェオレを飲んでから、静雄は小さく首をかしげる。
「じゃあ、スタバのやつはどうなんだ? エスプレッソってのは?」
「エスプレッソっていうのは、イタリア式のコーヒーの種類だよ」
 静雄がこんな風に何かを聞くなんて珍しい、と内心で目を瞠りながら、臨也は丁寧に答えた。
「イタリアンローストって言って、やっぱり黒焦げ寸前のコーヒー豆を細かく挽いて、エスプレッソマシーンっていう機械で10気圧くらいの圧力をかけて、コーヒーのエキスを搾り出すんだ。だから、一杯は30ccくらい。これに砂糖をたっぷり淹れて飲むのがイタリア式。まあ、コーヒーキャンディの液体版って感じかな」
「そんな甘くすんのか?」
「砂糖入れると、コクが増して美味しくなるんだよ。むしろ、甘くなきゃエスプレッソじゃない、くらいの勢いかな。イタリアじゃ、腹の出たおっさんだろうがカッコいいビジネスマンだろうが、幸せそうに甘ったるいお菓子を頬張ってる光景は当たり前だしね。
 で、エスプレッソマシーンの蒸気で温めた牛乳とエスプレッソを半々にすると、カフェ・ラッテ。牛乳を少なめにすると、カプチーノ。他にもバリエーションはいっぱいあるし、イタリアだと店の人に頼めば、幾らでもアレンジしてくれる。
 イタリアには、このエスプレッソとか軽食を出す立飲み式のカフェ、イタリア語でバールっていうのが街にいっぱいあってね。イタリア人は一日に何度もエスプレッソを飲みに行く。バールが生活の一部なんだよ」
 嫌味な口調にならないように気をつけながら説明し終えると、静雄はじっとこちらを見つめていて。
「……イタリアにも行ってたのか?」
 真面目にそう聞かれて、臨也は一秒ほど考えた後、素直にうなずいた。



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