ある晴れた日に 03
「シズちゃ……」
「お前の部屋、何号室だ」
「え、あ、703号室」
端的に問われ、戸惑いながらも答えると、静雄は無言で臨也の腕を引いて、そのドアへと向かう。そして、正面で立ち止まった。
「開けろよ」
「あ、うん」
何が起きているのか分かりそうで分からない、けれど本能的に理解している、そんな地に足の着かないような感覚の中、慌てて臨也はジーンズのポケットから鍵を取り出す。そして、鍵穴にそれを差し込もうとして、自分の手が微かに震えていることに気付いた。
それを強引に押さえ込んで、鍵を開錠する。
震えは、決して恐怖からくるものではない。恐れが少しもないといえば嘘になるかもしれないが、恐怖そのものではない。だからそれは無視して、鍵を抜き、洒落た形状のドアノブを半回しして明けると、点けたままにして出た照明のせいで明るい玄関内の空間が二人が出迎えた。
そして、金属製のドアが閉まるか閉まらないかのうちに手首を更に引き寄せられ、唇が重なる。
喰らい付くような貪るようなキスだった。
唇と歯列を割り開かれ、侵入して縦横無尽に暴れる舌に無我夢中で臨也も応え、首筋に両腕で縋り付いて、がくがくと震えて崩れそうになる下半身をかろうじて支える。と、静雄の力強い手にぐいと腰を引き寄せられ、隙間なく重なり合った体温に更に体が震えた。
「シ…ズちゃん」
酸欠寸前で意識が遠くなりかけた頃にやっと開放され、痺れて呂律の回らない舌で懸命に名前を呼ぶ。すると、獰猛な光を宿して目を細めた静雄に、もう一度口接けられた。
「──っふ…ん……っ」
濃厚に舌を絡められ、執拗なまでに口腔を探られて、今度こそ本当に膝が崩れる。だが、静雄の腕がそれを許さなかった。
腰を抱いた腕はそのままに、膝裏にも反対側の腕が差し込まれて、足がふわりと宙に浮く。
何が起きたのか、状況を臨也が理解したのは、静雄がそのまま靴を脱いで室内に上がりこみ、奥の部屋を目指して数歩進んでからだった。
「シ、シズちゃん!」
下ろして!、と思わず声を上げる。
姫抱っこで移動、だなんて、夢見る若い女の子ならともかくも、あと少しで三十歳になろうという男がされて嬉しいことではない。しかし、暴れようとした手足は、その前に唇に噛み付くようにして落とされたキスに封じ込まれた。
敏感な顎裏を舌先で擽られて、臨也は反射的に目を閉じる。程なく、やわらかくもしっかりした感触の上に、ぼすんと仰向けに置かれ、そこでやっと唇を解放されて目を開けた臨也は、いつもベッドの上から見る天井とは違うクロスにまばたきした。
「ちょ…っと、なんでソファーなわけ!? ベッドはあっち! そのドア開けたら寝室だってば!」
「うるせぇな。ンな余裕あるか」
「嫌だよ! このソファーは気に入ってるんだから、汚れたら困る!」
「そんなん、後から拭き取りゃいいだろ」
「このソファーは革だよ!? レザー! 染みになったら落ちないんだってば!」
こうなるだろうということは、改札口で相手の目を見た時から分かっていた。そもそも甘ったるい雰囲気を作れるような自分たちではない。殺し合うにしても愛し合うにしても、喰らい付いて、貪る。そういうやり方が似合いの二人だ。
だが、こんな勢いで盛られるとは、さすがに思っていなかった臨也は、少々パニック気味に要求を繰り返した。
「嫌だとは言ってないんだから、とにかくベッドに行ってよ!」
「面倒くせぇ」
「じゃなくて、ここでやる方がよっぽど面倒だろ! 寝室ならローションもあるから……」
そう言いかけて。
はっと臨也は口を閉じる。そして、恐る恐る自分に覆い被さっている静雄を窺えば、鳶色の瞳は恐ろしいほど獰猛にぎらついて、臨也を見下ろしていた。
「──随分と用意周到じゃねぇか、臨也君よぉ」
「……そりゃあ俺だって、好き好んで痛い思いしたいわけじゃないからね。自衛はするよ」
「へえ」
低くうなるように応じた静雄は、片手を臨也の細い顎にかけて、くいと挑発的な角度を作る。
「この三年間、その調子で他の男とも寝てたとか言うんじゃねーだろうな?」
サングラスをかけていない素の瞳にねめつけられて、臨也は一瞬、頭の中が真っ白になった。
───他の男と。
寝る?
「──っ!」
その言葉の意味を理解した次の瞬間、臨也は意識するよりも早く、目一杯の力を右手に込めて静雄の頬を張り飛ばしていた。
パン!、と強い音が室内に響き渡る。
無論、臨也の張り手程度では、静雄に何らダメージを与えることはできない。衝撃に目を細めたものの、それだけだった。
が、下から睨みあげる臨也の表情に気付いた途端、静雄の表情は変わった。
「おい……」
「そんな風に思ってたわけ? 三年前も?」
吐き捨てるように臨也は問いかける。
頭の中が沸騰するように熱く、感情も言葉もまとまらない。ただ目の前の男を、滅茶苦茶になじって、滅茶苦茶に殴りたかった。相手の肌に傷をつけるより前に、自分の手が壊れるだろうがそれでも構わない。
それだけ許せないことを、静雄は言ったのだ。
三年前、臨也が抱かれる側として身体を開いたのは静雄が初めてだったし、その後も、他の誰とも寝たことはなかった。
そもそもノーマルな性向を持っていた自分が、男と寝るということ自体、異常なのだ。そんな真似は、相当おかしな状況でなければできるはずも無い。──たとえば、寝ても醒めてもたった一人の相手のことを考えて気が狂いそうになっているとか、そんな常軌を逸した状況でもなければ。
なのに、よりにもよって、他の男とも寝ていたのか、だとは。
視線で殺せるのなら殺したいと睨み上げる目元が熱いのは、気のせいだ、と臨也は自分に言い聞かせる。
こんなことで泣きたくなるなんて、絶対に有り得ない。ただ、相手の侮辱に腹が立っているだけだ。
しかし、もっとなじってやりたくても、これ以上口を開いたら言葉ではなく、認めたくはないが、嗚咽とか何とかそういった音声が出てしまいそうで、臨也はギリ…と奥歯を噛み締める。
そうして、どれほど睨み上げていたのか、呆気にとられたまなざしでこちらを見つめていた静雄が、ふっと鳶色の瞳に浮かぶ光を和らげた。
顎先を捉えていた手が離れて、その長い指の背が、そっと臨也の頬を撫でる。
「──思ってねぇよ」
頬の上を滑る指は温かく、少しだけかさついた感触で、宥めるように謝罪するようにゆるゆると動いて。
「そんなこと、一度も思ったことねえ。……悪かった」
勢いで心無いことを口走ったのだと、詫びるようにそっと唇が重ねられる。
触れるだけで離れたその温かくてやわらかな感触に、臨也はぐっと歯を噛み締めた。そして数回呼吸を整えてから、口を開く。
「だったら、ベッドに連れて行ってよ。三年振りなのに、こんなとこでやろうなんてケダモノすぎるだろ」
「……仕方ねぇな」
静雄にしては弱いトーンでそう呟き、臨也の上からどく。そして先程、ここに来た時と同じように抱き上げようとしかけて、静雄はふと気付いた顔になり、臨也の足首に手を滑らせて履いたままだった革靴の紐を軽くほどいた。
靴がフローリングの床に落ちる少し重い物音に、臨也は顔をしかめる。
「靴くらい玄関に持っていってよ……」
「後でな」
「あとさ、もうすぐ三十の男相手に姫抱っこってどうなの」
「阿呆。俺の身長を考えろ。肩に担いだら、戸口にぶつかんのは手前だぞ」
「別に担げとは言ってないだろ」
別に抱いて連れて行けとも言っていないのだが、と臨也は思うが、それ以上の口論も馬鹿馬鹿しくて、大人しく静雄の腕に体重を預ける。
細身とはいえ身長が百七十五センチもあれば、当然ながら体重は六十キロ近い。だが、それをものともしない膂力の持ち主なのだ。おまけに脳ミソは野性の本能に忠実とくれば、抵抗しても疲れるだけだった。
こんなの相手に、よく十年近くも戦い続けたよな、と若かった自分に今更ながら呆れつつ、軽々と運ばれて先程よりも丁寧にスプリングの良いベッドの上に下ろされる。
そうして臨也は、改めて静雄を見上げた。
あの頃何度、この角度でこの顔を見上げただろう。三年という月日は、この男を何か変えただろうか、と思いながら見つめるが、整った顔立ちが幾分の精悍さを増した、という以外は何も見つけられなかった。
「臨也」
深く響く低めの声も変わらない、と思いながら、下りてくる唇を目を閉じて受け止める。
そして今日、数度目の深いキスをかわして、あれ、と臨也は気付いた。
「シズちゃん、煙草やめた?」
目を開けて、問いかける。
深く舌を絡ませても、粘膜を刺すような苦いニコチンの味と匂いがしない。そんなことは、かつては決してなかった。
だが、問いかけた臨也から、静雄はふいと目を逸らす。
「禁煙したわけじゃねぇよ。……でも最近は吸ってねえ」
「……なんで」
煙草を吸っていないということと、目を逸らしたというその二点に疑問を感じて、臨也はまばたきする。
すると、静雄は微妙に目を逸らしたまま、続けた。
「十日くらい前に買い置きが無くなったんだよ。その後、新しい奴を買うの忘れてた。もともと苛ついた時の気分転換くらいの意味しかなかったしな。無きゃ困るってもんでもねえし」
気分転換用なら、無いと困るのではないか。些細なことでキレる性格も、取立ての仕事も変わったわけではないし、と更なる疑問を口にしかけて、臨也は、はっと気付く。
十日くらい前、と静雄は言った。
自分たちが再会したのは、十日前だ。その日付と、苛つく云々に関連があるのか否か。ある、と考えるのが自然なのだろう。話の流れを考えるならば。
じわりと何かが込み上げるのを感じながら、臨也はそっと手を上げる。
相変わらず金に染めた髪は、三年前と変わらず少し傷んだ感触で、指で梳くようにすると僅かに引っかかった。
「──服には煙草の匂いが残ってるから、キスするまで気付かなかったけど。煙草味じゃないキスなんて、シズちゃんとのキスじゃないみたい」
「……不満かよ」
「ちょっとね」
でも嫌いじゃないよ。煙草の味の変わりに、君の味がするから。
そう告げて、臨也は静雄の頭を引き寄せ、今度は自分から噛み付くような口接けをした。
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