ある晴れた日に 02
「池袋に住んでると、海なんて見る機会あんまりないから、新鮮なんじゃない?」
「……まあ、そうかもな」
海際なんて滅多に行く用事ねぇし。
そう言いながら再び海に目を向ける静雄は、かつてなら考えられない素直さで、臨也の中に非現実感がじわりと広がる。
「ここにもう一年以上、住んでるっつったか」
「うん」
臨也に目線を戻して問いかけた静雄の言葉に、覚えていたのか、と臨也は思う。そのことだけでも、やはり白昼夢なのではないかと疑いたくなる。
だが、
「一年以上、あっちこっちをふらふらしてたんだけどね。海外もしばらく行ってたけど、いつまでも住所が無いのもアレかなぁって、この街で手頃な物件を見つけたのが一年半くらい前」
素直に答える自分もまた、彼から見れば非現実の存在に感じられるかもしれない。
だったら、二人して非現実だか白昼夢だかの海で、海月のようにふわふわと漂うのもありかもしれない、と埒も無いことが頭をよぎった。
「──なんで…」
言いかけた静雄の声が途切れ、いやいい、と打ち切られる。
ふいと逸らされた目に、臨也は静雄が何を問いかけたかったのかに気付いた。
訊けばいいのに、と思う。今の自分は、あの頃の自分ではない。訊かれれば答えるくらいの用意はある。そもそも隠し立てするほどのものは何もないのだ。
今に限らず、あの頃だって、本当は隠さなければならないようなものは殆どなかった。いつでも思わせぶりに振舞っていただけだ。
ただ、自分が何をしようと蟷螂の斧としてしまう彼を、少しでも翻弄し、苛立たせたかった。今から振り返ってみればそれだけの、滑稽で哀れな話だ。
そこまでこの場で自ら明かす気は無かったが、臨也は静雄の言葉の続きを引き取って口を開いた。
「東京には何となく、戻りたくなかったんだよ」
告げると、静雄ははっとしたようにこちらを見る。その視線を臨也は正面から受け止めた。
何となく、という言葉は嘘ではない。突き詰めれば、幾つかの感情に至るだろうが、臨也はそこまで深く自分の心を追求しなかった。
東京には自分の過去が全てある。自分の成してきた事、成し得なかった事が全てある。戻らない理由はそれだけで十分だったのだ。
「かといって田舎に引っ込む気にはなれなかったし、関東以外の土地にも馴染める気がしなかった。だから、ここ」
「────」
正直に告げた臨也を、静雄はひどく驚いた顔で見つめる。当たり前だろうな、と思ったから傷付きはしなかった。
「お前……」
「うん」
十日前に再会した時、どこで何をしていた、という問いかけに臨也は答えなかった。
だが、それはもう二度と会うことなど無いと思っていたからだ。もう自分たちの道が交差することが無いのなら、彼の中に自分のかけらを残すことはしたくなかった。
しかし、こうして白昼夢のような逢瀬を持てるのなら、意地を張る意味は無い。聞きたいのなら、話したかった。──あの頃、足りなかった言葉の分まで全て。
だが、臨也がそんな風に思っていることは、当然ながら静雄には伝わらない。やはり言葉が必要だった。
「なんで、そんなに変わった?」
あの頃のお前は、俺が何と言おうと、まともな言葉を返さなかっただろう。
そう言われて、そうだね、とうなずく。
「一年半、潮風に吹かれてるうちに毒気が抜けた、っていうんじゃ理由にならないかな」
「手前がそんな可愛いタマかよ」
「あー、それは自信ないな」
顔をしかめられて、小さく笑う。笑うと、楽しさと少しの悲しさが胸に染みた。
悲しみといっても、今この瞬間のものではない。過去の残骸だ。三年前、絶望と共に自覚した想いを封印した。その名残が、こうして彼を近くに感じていることで甦ってきただけだ。
前回、不意に再会した時もそうだった。二人で歩いて話した、ほんの二十分ほどの間、何度も泣きたくなって困ったことなど、きっと彼は気付いてはいないだろう。
そして改札口で彼を見送った後、とうとう耐え切れずに、海沿いの道を静かに涙を零しながら歩いたことも。
彼はまだ、知らない。
「──前回、言っただろ。俺が最後の一手を打たなかったのは、君のせいだって」
「……それとこれが、どう繋がる」
不審げに訊かれて、臨也はまた笑った。今度は単なる苦笑だ。
静雄は理屈をこねることは嫌いだが、十分すぎるほどに鋭いし聡い。そのことを久しぶりに思い出して、おかしくなった。
確かに、風が吹けば桶屋が儲かる的な話なのだ、これは。嘘ではないのだが、順を追って説明しなければ、きっと理解できない。
短気を起こさずに聞いてくれればいいけれど、と思いながら臨也は口を開く。
「説明はしてもいいけど、ちょっと長いよ?」
その問いかけに静雄が答えるまでには、たっぷり三秒ほどの間があった。
「いい。話せ」
「本当にいいの?」
「聞かなきゃ分かんねぇだろ」
そう言われて、臨也はまばたく。
「……分かりたいんだ?」
「当たり前だろ」
きっぱりと言われて、そうなのか、と臨也は、不意にすとんと何かが胸のうちに落ちるのを感じた。
二人の間に言葉が足りなかったと思っているのは、自分だけではない。彼もなのだ。
今からでも言葉を尽くしたい。言葉だけではなく、全ての手段を尽くして理解したい。
どちらもきっと、そう思っている。
けれど、と臨也は、ちらりと前方に視線を向けた。
「じゃあ話すけど……、その前に、俺の部屋、そこだから」
話は着いてから、と前方にあるマンションを指差した。
海沿いの道に面した、白っぽい外壁の南向き七階建て。それほど高級ではなく、そこそこの物件だ。
「……賃貸じゃねぇの、あれ」
「うん。すごいね、分かるんだ」
「見た目が分譲って感じじゃねえ」
「普通、見た目じゃ分からないと思うけど。建物の気配か何か、感じ取ってるの?」
色々規格外の静雄のことだから、それくらいの特技を持っていても驚かない。そう思いながら、臨也はマンションのエントランスに足を踏み入れる。
築五年で、まだ新しい物件なのだが、海沿いにあるだけに、外壁やポスト周りは早くも潮風に傷み始めた気配を見せている。しかし、それを除けば小綺麗な造りだった。確か今は、空き部屋もないはずだ。
エレベーターが開くのを待つ間、階層表示を見上げていた静雄が、ぼそりと尋ねてくる。
「なんで賃貸なんだ。池袋や新宿にいた頃は分譲ばっかだっただろ」
「分譲だと、処分する時に面倒だからね。賃貸なら二、三枚の書類に判子押すだけで終わって、税金の申告も何も要らないから」
そう答えると、静雄の眉間にしわが寄る。おそらく臨也が、またいなくなることを考えたのだろう。普段は余り彼の考えは読めないが、今は分かりやすかった。
とはいえ、臨也が言えることは何もない。今ここで、もうどこにも行かないよ、と言ったらそれは嘘になる。いつかまたどこかに行くからこその、賃貸なのだ。
無論、今はまだ次が決まっているわけではない。しかし、だからといって、何かを約束するのも今は無理だった。
微妙な沈黙のうちに、二人は上から降りてきたエレベーターに乗り込む。
そして臨也が階層ボタンを押すと、それを見ていた静雄がぼそりと言った。
「……最上階は最上階なんだな」
「たまたまだよ。俺としては、真ん中より上ならどこでも良かった。まあ、一番上だと上階の物音に悩まされなくて済むから、利点はあると思ってるけど」
「でも、やっぱり一番てっぺんじゃねぇか」
そう言いながら、ふっと静雄がおかしげに笑う。
何ということはない、淡い笑みだ。だが、その笑顔に臨也の目は吸い寄せられた。
「どうせ、煙と何とかは高いとこが好きだとか思ってるんだろ」
「当たり前だろ」
言いながら静雄は微かに笑みを深める。その表情は、臨也が読み間違えているのでなければ、楽しそう、だった。
その笑みに、臨也は自分の中の何かが凶悪なまでに打ちのめされるのを感じる。
あの頃の静雄が、臨也の前で笑うことはまずなかった。あるとしても、それは憤りに引きつった凶悪な笑顔で、本当の笑みではなかった。
けれど、今、目の前の笑顔は違う。目元も口元も、まるで別人のようにやわらかい。
もっと見たい、と思った。
この笑顔をもっと見たい。あの頃は決して自分に向けられなかった表情を、もっと向けて欲しい。
背筋がぞくりとするほどの欲望が急速にこみ上げてくるのを感じながら、臨也は、震えそうになる唇を懸命に動かした。
「シズちゃん」
たった一言、喉から搾り出すようにして名前を呼べば、うん?と、階層ボタンを見ていた静雄は臨也にまなざしを向ける。
そして、は、と息を呑んだ。
自分がどんな表情をしていたのか、臨也には分からない。だが、静雄はひどく驚いた表情を一瞬してから、何とも言えない情感を込めて目を細める。
「いざ……」
だが、名前を呼びかけたその時、軽やかなチャイムが鳴ってエレベーターが止まった。
筐体が停止する時特有の小さなショックに続いて扉が開くのを、二人して少しばかり呆気にとられて見つめ、それから小さく舌打ちした静雄が臨也の手首を掴む。
ぐいと引かれて臨也は逆らうこともかなわず、そのまま二人は連れ立って四角い箱から出た。
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