※R18作品のため、18歳未満の方の閲覧は御遠慮下さい。

ある晴れた日に 01

 春の空がやわらかく霞んでいるその日、臨也は駅の改札口前の壁際で、ぼんやりと立っていた。
 携帯電話は手にしている。だが、手にしているだけで、画面を見てもいなければキーを打ってもいない。
 自分でも一体何をしているのだろうと思いながら、ただ、そこに立っていた。
 時折、ちらりと斜め横の方角へ視線を向ける。そこにはチェーンのカフェがあり、座って(大して美味くないとしても)コーヒーを飲むことは造作もない。
 行けばいい、と思うのだが、しかし、一向に足は動こうとしなかった。
 視線を改札口の向こうに戻し、天井から吊り下げられている電光表示を眺める。あと十分くらいか。そう考えて、妙に気恥ずかしいような、何とも言えない微妙な気分になった。

 次の休み、そっちに行く。そんな愛想の欠片もない用件のみのメールを受信したのは一昨日のことだ。
 普通に考えれば有り得ない送信者の名前を見て眉をしかめ、同様に有り得ない内容の本文を読んで削除したくなり、そんな電波なメールを受信した携帯電話を、そのまま窓の外から海に向かって投げ捨てたくなった。──なった、だけで、行動には移さなかったのだが。
 そして本日、電車に乗った。十一時半くらいに着く。そんな相変わらず用件のみでこちらの意向というものを全く無視した電波メールを、一時間ほど前にまたもや受信して、何故だか臨也はふらふらと家を出てきてしまった。
 理由など定かではない。とにかく、安眠妨害した携帯電話の画面を寝ぼけ眼で見つめ、頭を一つ振って起き上がり、シャワーを浴びて、身支度を整えて出て来た。それだけの話であり、ここにいるのは条件反射のようなもので、意味などない。
 ないはずなのだが、しかし、だったら何故、既に五分ほどもこんな場所でぼんやりしているのかということに対する上手い答えを、臨也は思いつくことができなかった。
「──そもそも、さぁ」
 誰にも聞こえないくらいの声で呟き、ちらりと手の中に携帯電話を見やりながら、この中に保存されているはずのメールは、現実だったのだろうか、と今更ながらに考えてみる。
 もともと自分は、朝に弱い。単に寝惚けて、夢うつつに出会い系か何かのスパムメールを見間違えたという可能性はゼロではない。
 あるいは、送信者の大して手の込んでいない悪戯だとか。そう考えて、それだけはないな、と首を横に振った。
 彼がそんな真似のできる人間だったなら、自分たちの関係は、もうずっと前にもっと違うものになっていただろう。だから、悪戯だとか嫌がらせだとかいう線は有り得ない。
 となれば、残る可能性は、寝惚けたか白昼夢か。どちらもあまり好き好んで受け入れたい現象ではない。が、どちらが多少でもマシかといえば、やはり寝惚けている方だろう。白昼夢は駄目だ。あまりにも痛過ぎる。
 携帯電話を右手に軽く握りこんだまま、そんなことを真剣に考え込んでいた臨也は、
「おい」
 そう声をかけられるまで、待っていたはずの電車が到着し、ホームから改札口に乗客が流れてきたことに気付かなかった。
「え……!?」
 聞き覚えのある愛想のない声に、ぱっと顔を上げる。
 だが、それがまずかった。
 正面に立っていた相手と、まともに目が合ってしまう。
 そして臨也は、理解してしまった。

 自分を見つめる、鳶色の瞳。
 あの頃と何も変わらない。
 喰らい付きそうな色で、自分を見ている。
 そして、その瞳に映る自分も、また。

「……ホントに来たんだ」
 何と言えばいいのか分からないまま、ぎこちなく口を動かす。
 すると、静雄は嫌そうに眉をしかめた。
「嘘だとでも思ってたのか、手前」
「そういうわけじゃないけど……でも、そんなもんかも」
 嘘と寝惚けと白昼夢。どれも真実でないという意味では同類だ。そう思ったのだが、その答えは彼のお気には召さなかったらしい。
 臨也を真っ直ぐに見つめたまま、くっきりと形のいい眉を強くしかめる。
「大概だな、手前は」
「何が」
「全部だ全部」
「全部、ってねえ。答えになってないよ、全然」
 言いながら、ああそうだ、こんな感じだった、と臨也は滞っていた血潮が流れ始めるように感覚が戻ってくるのを感じる。
 出会ってから離れるまでの十年間、静雄との口論はいつも、こんな風に噛み合わなかった。
 彼は野生の本能に忠実なのか何なのか、文明人の臨也には理解しかねる独特の理屈をもっていたし、臨也は臨也で、相手の言葉尻を捉えて振り回すのが何よりも得意だった。
 そう、自分たちは、決してまともな会話などできる間柄ではなかったのだ。
 そして、どうやらそれは三年経っても変わらないらしい、と感じる。
 けれど、決定的に違う部分もある、と臨也の内にある、常に冷静に相手と自分を観察する部分は気付いていて。
「……ったく、この間も思ったけどよ。本当に手前は変わんねぇな」
 大きく溜息をつく静雄は、三年前ならば確実にキレて青筋を浮かべていた。
「そりゃどうも。でも、人の顔見て溜息つくのは止めてくれないかな。溜息つくためだけに、ここまで来たわけじゃないだろ? 貴重な休日を潰してまでさ」
 そして臨也自身もまた、三年前ならば確実に静雄を怒らせ、笑いながらこの場を遁走していた。
 だが、今はどちらもそれをしない。そのことに、三年前とは違うのだという実感が、じわりと臨也の中に染みてくる。
 それが嫌なのか、そうでないのか自分でも見極めが着かないまま、臨也は口だけを動かし続けた。
「で? これからどうするとか決めてるの、シズちゃん?」
 言いながら、臨也は静雄の姿を改めて眺める。
 先日は勤務時間中であったからか、相変わらずのバーテン服だったが、今日の静雄はサングラスも無しの普段着だった。いい感じに色の抜けたブルージーンズに、ややクラシックな紺色系チェック柄のフランネルシャツ、エクリュ色の春物ウールジャケットが良く似合っている。
 よくよく見れば、どれもこれも大量生産品でトータルしても一万円を超えるかどうかというところなのに、まるできっちり採寸して仕立てたように見えてしまうモデル体型が憎らしい。
 対する臨也は、薄手のオフホワイトのVネックニットにブラックジーンズ、黒いパーカーというモノトーンのラフな格好だ。
 相変わらず黒主体ではあったが、かつてのような黒ずくめではない。情報屋を廃業してからは、自分の見てくれにそこまでの注意を払う必要も無くなり、今は黒以外も普通に着るから、クローゼットはそれなりにカラフルだった。
「決めてねえ」
 この辺は全然知らねぇしよ。悪びれもせずにそう言い放つ静雄に、臨也は呆れる半分、変わっていないことに感心するのが半分で、そう、と曖昧にうなずく。
「じゃあ、さ」
 言葉が上滑りしませんように、とらしくもなく祈りながら、臨也は静雄の目を見つめて告げた。
「うちに来る? この辺って、あんまり遊べるような場所も無いしさ。おなか空いてるんなら、昼御飯を先にしてもいいけど」
 食べるところは、そこそこあるよ。
 何でもない風にそう言うと、静雄はほんの数秒だけ、考える素振りをした。或いは、考えるふりをした。
「お前んちは、こっから近いのか」
「歩いて十分くらいだよ」
「そっか」
 じゃあ、行く。
 そんな、遠かったら一体どうするのかと突っ込みたくなるような返事をして、静雄は臨也にまなざしを返す。
 その瞳が、相変わらず今すぐにでも喰らい尽きたそうな色をしているのを見て取りながら、臨也は、「じゃ、行こうか」とずっと手にしたままだった携帯電話をポケットにしまって歩き出した。
 すぐに静雄も追いついてきて、十日前と同じように肩を並べて歩く形になる。歩く道も、前回にたどった海岸沿いの道だった。だから余計に、前にも見たことのある夢をまた見ているかのような、奇妙なデジャヴが脳裏を横切ってならない。
 建物の壁が途切れ、さあっと吹き上がってきた海からの風に臨也は目を細め、これは本当に現実なのかな、と改めて考えてみた。
 たった三年だ。三年前まで日常的に殺し合い、時には何故だか身体まで重ねていても、腐れ縁の天敵という名の他人でしかなかった自分たちが、こんな風に並んで歩いている。
 白昼夢にも程がある、と思うのだが、しかし、静雄の普段着なぞ、彼がバーテンの仕事を始めてからというもの、ついぞ見たことが無い。
 ということは、やはりこれは現実なんだろうか、と臨也はちらりと海側を歩く静雄に目を向ける。
 彼は、眩しそうに目を細めながら海に目を向けていて、春先とはいえ、それなりの明るさのある日差しの中で、頬から顎のシャープな線がくっきりとコントラストを伴って浮かび上がっている。その精悍さと繊細さが奇跡的な割合で同居するラインを、臨也は素直に綺麗だなと思った。
「──何だよ」
 視線に気づいた静雄が振り返り、眩しさに細めたままの目で臨也を見る。
 見惚れていたとはとても言えない。だから、臨也が口にしたのは、まったく別のことだった。



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