互いの存在を腕の中に感じ続けて、どれ程の時間が経ったのか。
ふと、臨也が身動きする。それに合わせて背に回していた腕を解けば、臨也は顔を伏せたまま離れ、そして立ち上がった。
それから、顔を巡らせて壁の時計の針の位置を確かめる。
「……もうこんな時間か」
ぽつりと呟かれた声に、静雄も、そろそろ日没の時刻であることに気付いた。
ずっと放置されていたプラズマTVの画面の中で、マクロスのアニメはまだ終わっていなかったが、今が何話目であるのかはもう分からない。だが、見始めた時間からすれば、おそらくそろそろディスクも終わりだろうと思われた。
「もう一回くらい、見直すくらいの時間はあるかな」
そう言い、こちらに目線を向けた臨也の表情は、もういつもの表情を殺した顔だった。
すっきりと整った目鼻立ちの中で一際印象的な、鋭く透明感のある目が、真っ直ぐに静雄を見つめてくる。
それにまなざしを返しながら、そうだな、と静雄はうなずいた。
「明日は仕事だけどよ。今日はもう、他に用事があるわけじゃねぇし」
「そう」
それじゃあ、と数秒の間を置いて。
「御飯くらい、食べていく?」
臨也が言った。
「……は?」
思わず、真顔で相手の顔をまじまじと見てしまったのは、多分静雄のせいではないだろう。
臨也の方もそれを分かっているのか、日本語が分からないのかと馬鹿にすることもなく、小さく肩をすくめて見せた。
「本音を言えば、今すぐ出て行け、って言いたくて仕方ないんだけどね。いくら俺でも、この場でそれを口に出すほど救い難い性格はしてないからさ」
「───…」
いや十分言ってるだろ、とか、ツッコミたいことは山のようにあった。
けれど。
「……じゃあ、夕飯食ってから帰るわ」
ここで、「いいのか」とか、「本気で言ってるのか」とかの駄目押しの言葉を吐いたら、間違いなく臨也は臍を曲げる。
彼の性格上、こういう物言いが精一杯なのだ。
そして、それ以上の無理を強いる気もない静雄は、思いつく限り一番穏やかな言い方で応じた。
「分かった」
すると、臨也もどこか救われたような風情でうなずく。
おそらく、と静雄は思う。今の誘いかけは、本当に臨也としてはギリギリの言葉で、それを静雄がどう受け止めるか、胸のうちではひどく不安だったのだろう。
もしかしたら、静雄の返事を怖がってすらいたかもしれない。
───傷付けたりなんかしねぇよ。
声に出せば、また反発するだろうから、心の中で静雄は呟く。
想いが通じ合った今でも、相性がいいとは言い難い二人だ。この先、些細なことで喧嘩したり、うっかり傷付け合ってしまうこともあるだろう。
だが、静雄は自分にできる最大限で、臨也を大切にするつもりだった。
───それが、好きだってことだろ。
誰かを好きになったことは、二十四年の人生で何度かあるが、恋人を作ったことはない。
それでも、恋愛において、して良いことと悪いことを静雄はきちんとわきまえていた。
所詮、自分は自分であるから、チャップリン演ずるチャーリーほど、健気(けなげ)にはきっとなれない。それでも、あんな風に好きな相手には精一杯、優しくしたかった。
「じゃあ、どうする? ピザかなんか取ってもいいし、簡単なものなら作ってもいいし……」
「なら、作るぜ?」
そう言うと、臨也は驚いたように目を丸くする。
「作るって……シズちゃん、料理できるの?」
「当たり前だ。俺が何年、一人暮らししてると思ってやがる」
「──でも、この間は……」
言いよどんだ臨也に、静雄は、風邪の時のレトルトの粥のことか、と気付く。
「あの時は、俺が作ったもんじゃお前が食わねぇだろうと思ったんだよ。だから、レトルトにしたんだ」
「──ああ、そう」
タネを明かせば、不承不承納得したように臨也はうなずいた。
「確かにシズちゃんが作ったんだったら、手をつけなかったかもしれないけど……。試してみる価値は、もしかしたらあったかもしれないよ?」
お互いに。
そう言い捨てて、臨也はするりと猫が身を翻すかのようにソファーの傍らを離れ、キッチンへと向かう。
その後を追いながら、どうだろうな、と静雄は考える。
確かに、手作りの粥を出してやれば、臨也は食べたかもしれない。だが、静雄の方が、臨也がそれを受け入れるという想像ができなかった。
何事にも巡り合わせというものがある。
あの時は互いにあれが精一杯だったし、今もこれが精一杯だ。
だが、あの時と今は、幾つかの事がはっきりと違っていて、以前は駄目だったことが、今は互いに受け入れられるようになっている。
それは自然なことであり、その時々によって物事は少しずつ変わってゆくものなのだろう。
だから、臨也との関係もこのままでは決してない。
時間が経てば、もっと上手く優しくしてやれるようになるかもしれないし、臨也は更に意地っ張りになるかもしれない。
どちらへ転ぶのかは予想などできるものではないが、少しでもいい方向に変わってゆければいい、と思う。
そんな風に考えながら、冷蔵庫を開けてしゃがみ込んでいる臨也の後ろに立って、静雄も一緒に中を覗き込んでみた。
「……そこそこ、中身は入ってるな」
「一応ね。仕事してる最中なら、うちの秘書が昼御飯くらい作ってくれることもあるし。まあ、彼女場合、自分の食事を作ってるだけで、俺の分はオマケなんだけど」
「秘書っていうと、あの女か。髪の長い。このマンションの前で見かけたことがある」
「そう。波江さん。手強いよー、彼女は」
「あー、そんな感じすんな」
静雄自身、女を見る目があるとはこれっぽっちも思ってはいないが、気がキツそうか優しそうか、頭が切れそうか否かくらいの見分けはつく。加えて、以前に彼女の姿を見た覚えがあるのだ。
いつどこで、とまでは思い出せない。だが、多分、池袋の街中でのことだろう。
それも、それなりにキナ臭い場面でだ。そういう印象が彼女には残っている。
臨也がそんな女を秘書にしたのも、どうせロクでもない理由なのだろうな、と静雄は推測する。
何かの取引をしたか、利害が一致したか。まあ、そんなところだろう。
そんなことを考えていると、いつの間にか、振り返った臨也が静雄の顔を覗き込んでいて。
「シズちゃん、焼餅?」
いつもの毒を含んだニヤニヤ笑いで聞かれるから、何なんだこいつは、と思いながらも静雄は自分の胸のうちを探った。
「……何にもねぇっつったら、嘘になるな」
「へえ?」
正直に答えると、臨也は面白げにまばたきする。
それを見下ろしながら、静雄は、この頭の中でこいつは何を考えているんだろうな、と思う。
おそらく、面白がる気分が半分、残り半分は、妙に感情を騒がせているのではないか。
臨也の純情っぷりは先程、十分過ぎるほどに分かったから、ウザい質問をされても、面倒だとは思っても腹は立たない。
だから、軽く溜息をついて補足した。
「誰だって、付き合ってる相手が、自分が知らねぇうちに会ってる相手のことは気になるだろ。その程度だ。その秘書とお前がどうこうなんて、全然思ってねぇよ」
「──なんで、何でもないって言い切れるんだよ?」
静雄の回答が嬉しかったのか、或いは、面白くなかったのか、臨也はニヤニヤ笑いを消して冷めた目付きで問いを重ねてくる。
本当に捻くれてるなと感心すらしながら、静雄は溜息混じりにそれにも答えた。
「お前らの雰囲気が全然似合ってねぇから。つーより、あの女はお前なんか相手にしないだろ。そんな馬鹿には見えなかったぜ」
「……それって、俺にものすごく失礼じゃない?」
「どこがだ。それに言ったろ、俺は馬鹿で趣味が悪いんだってな」
言い切ってやると、また臨也は黙り込む。
そして、白けたようにそっぽを向いた。
「あーあ。シズちゃんってそういうとこ、妙に普通で全然面白くないよ。キャラに似合ってないし、つまんないよね」
「あー、そうかよ」
もうそれ以上は静雄も取り合わずに、改めて冷蔵庫の中を覗き込む。
野菜室、冷凍室、チルド、冷蔵室と順番に開け、これなら、と思う。
「シチューかカレーか、肉か魚を焼いて、スープでもつけるか……」
「──クリームシチュー」
「ん?」
「シチュー食べたいって言ったの。その鶏肉、使っていいからさ」
「……分かった」
どうでもいいと言いたげな詰まらなさそうな表情でリクエストしてくるのに、静雄は少し考えた後、うなずいた。
「お前も手伝えよ」
「……まあ、御飯食べていったらって言ったのは、俺だしね」
いいよ、と臨也も了解して、野菜室を開け、玉葱や人参を取り出し始める。
ごそごそと動くその小さな頭を眺め、静雄は小さく微笑んだ。
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