前回に一緒に夕食をとった時点で分かっていたことだが、杯を重ねながら、運ばれてくる料理をつつきつつ言葉を交わしている分には、臨也は楽しい話し相手だった。
 言葉の一つ一つに、独特のものの見方と彼らしい身勝手さが混じっていて、時折呆れつつも、静雄は仕事中に小耳挟んだおかしなネタや、街で見かけた他愛の無い話を幾つもし、また同じように臨也の話を聞いた。
 交わした会話の中に意味のある話は、多分、一つもなかっただろう。だが、それで良かった。
 むしろそれが、互いに求めていたものだった。
 いがみ合うことなく、好きな相手と馬鹿みたいな話をひたすらにする。世間では当たり前のようなそれだけのことが、これまでの静雄と臨也にとっては、絶望的に遠かったのだ。
 だが、その遠く、他人事として眺めているしかなかった時間が、今、ここにある。
 二人のことを知る人間が見たら、一体何をしているのかと驚き呆れるだろう。あるいは、似合わなさに失笑するかもしれない。
 しかし二人は、初めて味わうこの時間に夢中になっていた。
 その証拠に、何本目かの銚子が空になり、さて次はどうしようかと思いつつ携帯電話の時刻を確認した時には、もう十一時を回っていたのである。


「あれ、もうこんな時間?」
「……結構、時間経ってたな」
 いつの間に、とそれぞれの携帯電話を見つめ、臨也は溜息未満の吐息と共に、手にしていたメニューをテーブルに置く。
「まだちょっと早いといえば早いけど……」
「そうだな」
 静雄も溜息をついて、テーブルの上に置いていた煙草とライターをポケットに戻した。
「会計は割りカンな」
「あ、うん」
 そして店員を呼び、勘定を済ませる。
 結構飲み食いしたつもりだったが、結果から言えば、飲食よりも会話に口を使っていたのだろう。頭割りしても一人一万円に満たなかった。
「思ったより安上がりだったなぁ」
「でも、酒も飯も美味かったぜ」
「そう」
 口に合ったんなら良かった、といつになく素直な口調で臨也が言う。
 傍目には酔いを感じさせるものは微塵も無かったが、もしかしたら、少し酔っているのかもしれない。或いは、酒のせいにしてしまいたいのかもしれない。そんな風に静雄は思った。
「あ、シズちゃん。この道、こっちにも抜けられると思うから」
 店の外に出て、路地を来た方向に戻ろうとすると、臨也が反対側へ行こうと誘う。
 新宿は臨也の街であり、静雄は駅周辺しか土地勘を持たない。だから、素直にそちらに従って歩き出した。
 飲み屋の連なる狭い路地を抜けると、来た時に通った通りよりも細い裏通りに出る。
 当然のことながら人通りも少なく、夜の新宿だというのにニ、三の人影しかない。
 だが、二人で歩く分には、確かにこの方が都合が良いと言えば良かった。
 そして、ブロックの途中まで来たところで、それまで黙っていた臨也が不意に口を開いた。
「──あのさぁ、シズちゃん」
 臨也の良く透る声が、遠く喧騒の聞こえる裏通りにしんと響く。
 その響きを、静雄は黙ってただ聞いた。
「君が先に言ってくれたから、俺も言うんだけどさ」
 静かな……臨也としては静か過ぎる声に、静雄は無意識に足を止める。すると、臨也もニ、三歩 、前に行ってから立ち止まった。
 そして、振り返り、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、静雄を見つめる。
「多分、言うまでも無いことなんだろうけど……。俺はさ、素直になるとか……絶対、無理だから」
 そう告げて。
 臨也はまなざしを伏せ、足元のアスファルトを軽く爪先で蹴る。

「そういうスキル、俺には無いんだよ。素直とか、正直とか。今さ、こうやって話をしてるのも、俺としては結構、限界なんだ。
 ──はっきり言って、今すぐシズちゃんにナイフで切り付けて、逃げ去りたい。……その意味、分かる?」

 再びまなざしを上げて静雄を見た臨也の表情は、微笑になりきらない微笑に彩られており、それが返って苦しげにも辛そうにも見えた。
 そんな臨也を真っ直ぐに見つめて。
「分かるに決まってんだろうが」
 静雄は、口調は静かながらも強い声で告げる。


「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ、臨也。俺がいつ、手前に素直になれなんて言った?」


「言ってねぇだろ? 手前はそのまんまでいいんだよ。捻くれて、捻じ曲がって、時と場合に拠っちゃ、丸っきり悪意の塊としか思えねえ。それが、お前だろ」
 かすかに苛立ちのこもった静雄の声を、臨也はただ聞く。
 両手をポケットに突っ込んだまま、その場に立ち尽くして。
「無理なんかすんなよ。言いたいことは言えばいいし、ナイフで切り付けたいんなら、そうすりゃいい。手前如きにどうこうされる俺じゃねえし、今更、そんなことくらいでお前に愛想を尽かしたり、嫌ったりなんかしねえよ」
 苦しいのを我慢して、素直になる必要などない。
 逃げ出したいのを、無理矢理にここに留まる必要などない。
 無論、精神的にはギリギリでも、逃げずにこの場に踏みとどまる臨也の気持ちが愛おしくないといえば嘘になる。
 だが、それは静雄が本当に欲しいものではなかった。
「臨也」
 名前を呼ぶと、それきり沈黙が落ち。
 じっと静雄を見つめていた臨也が、小さくまばたきして口を開く。


「シズちゃんさぁ、本当に馬鹿なんじゃないの」


 心底呆れたように告げてくる声が、かすかに震えているのを静雄は聞き逃さなかった。
 三歩の距離を足早に詰め、そっと臨也の頬に手のひらを触れる。
 すると、臨也はうっすらと濡れた目元を見られるのを嫌がるかのように目を伏せ、それを追って、静雄はそっと唇を重ねた。
 触れるだけのついばむようなキスをしてから、ゆっくりと深く重ねる。
 そして、薄く開かれた唇の間から舌を滑り込ませた。
 やわらかく口腔内をなぞってやると、臨也の舌も切ないほどに静雄を求めて、滑らかに優しく動く。
 そのやわらかさと甘さに静雄は溺れ、これで十分だと心の底から思った。
 言葉にできなくとも、臨也が精一杯に静雄を想っていることは、何気ない日常の仕草の中から十分過ぎるほどに伝わってくる。このキスにも、嘘などどこにもない。
 込み上げる愛おしさのままに細い体を抱き締めると、臨也の手が静雄のシャツをぎゅっと握るのが感じられて。
 更にたまらなくなった。

「俺は、お前が俺を嫌ってないんなら、もうそれだけでいい」

 ゆっくりと唇を離し、心の底からそう告げると。
 臨也は何も言わずに目を伏せ、静雄の背に両腕を回す。
 だから、静雄ももう何も言わず、黙って臨也を抱き締めた。



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