*     *

 結局、臨也と会うのはあの日以来だから、十一日ぶりになる。
 それは偏(ひとえ)に、静雄の勤務先である会社が決算月に入り、取立ての仕事が急増したためだった。
 一応、月に四、五日の休みをもらえる職場ではあるのだが、毎年この月だけは殆ど休日が無くなる。
 月が変わり次第、代休として何日かの休みをまとめてもらえるのだが、それまでは会社のスケジュールに従い、黙々と働くしかない。
 静雄としては、自分のような人間を拾ってくれたトムにも社長にも心の底から感謝していたから、休みなしに働くこと自体は何の苦にもならなかったが、今年は一つだけ、臨也の事が気になった。
 一応、いつでも電話やメールをしてこいとは言ってあったが、素直に聞くような人間でもない。
 案の定、いつまで経っても連絡してこない臨也に痺れを切らして、こちらから電話してみれば、臨也の捻くれた物言いに久しぶりにムカついて、まともな会話にならなかった。
 だから静雄は、こいつと電話で話そうとした自分が間違っていたのだとその場で断じて、強引に今夜の食事の約束を取り付けたのである。
 命令形を臨也が嫌うのは分かっていたが、しかし、そうでもしなければ話を混ぜっ返され、ムカつくあまりに、会う約束をする前に静雄は電話を切ってしまう。
 その辺りの駆け引きは経験則的に分かっていたから、静雄は昼間、臨也の意見など殆ど聞かずに話を決めたのだが、現状を見た限りでは、それで正解だったと言えるだろう。
 少なくとも臨也の機嫌は悪くないし、店の選択にも不安を抱くほど懸命になってくれた。
 臨也としては言いたいこともあるのだろうが、静雄からしてみれば、もう十分だった。


「あ、ここだね」
 細い路地に並ぶ飲み屋の看板を見上げながら歩いていた臨也が、奥まった一軒の前で立ち止まり、店頭に掲げられていた品書きをちらりと見てから、のれんを掻き分けて入り口を潜る。
 続いて入ってみれば、中は、純日本風の古民家のような佇(たたず)まいだった。
 漆喰の白い壁と黒光りする柱や梁、床板を、裸電球のような色合いの照明がやわらかく照らし出している。
 そんな内装を静雄が眺めている間に、臨也は、予約の佐藤ですけど、と店員に名乗っていた。
「佐藤?」
「たかが飲み屋の予約に、本名を名乗るも必要ないだろ」
 案内の店員に聞こえないように低く問いかければ、臨也もまた声を低めて笑って返す。
 そのしたり顔の小賢(こざか)しさに、静雄は、まったくこいつは、と内心で溜息をついた。

 臨也の不器用過ぎる本心を知り、それを可愛いと思いはしても、だからといって、一から十まで全てを愛おしいと許したりするほど、静雄は単純ではない。
 否、本来の性格としては単細胞の傾向が強いのだが、それ以上に臨也とのこれまでの付き合いが、物事を単純化することを許さないのである。
 臨也が自分に向けている感情は信じているし、疑うつもりもないが、それ以外の部分の臨也の性情や倫理観については、静雄は恋人となった今でもこれっぽっちも信じていないし、評価もしていなかった。
 ただ、こうして会っている分には以前のようにはムカつかないし、大抵のことは溜息一つでやり過ごせてしまう。
 だから、臨也が今後、自分に対しては何をしようと構わない。但し、もし自分以外の人々に対して何かしようとするのなら、その時は体を張って止める。──臨也と付き合い始めてから静雄の中に生まれたのは、そんな覚悟であり、それ以外は何も無かった。

「シズちゃん、こういう雰囲気、嫌いじゃないんじゃない?」
「──そうだな」
 柱や梁と同じく煤けた色合いのどっしりとした一枚板のテーブル席に落ち着き、置いてあったメニューを開きながら尋ねてくる臨也に、静雄はうなずく。
 古民家風の内装ではあるが、BGMは80年代風のアメリカン・ハードロックで、ベースやドラムの重低音が効いた小気味いいビートがやや音量低めに流れている。最近よくある組み合わせであり、新味はないが悪くはない。
 少なくとも、職場の飲み会でよく連れてゆかれるスナックやキャバレーよりは、遥かに居心地が良かった。が、それを口にしたら、さすがに嫌味を言われそうな予感がしたため、余計な部分については言葉を省略する。
 それが功を奏したのか、臨也の表情に少しだけ嬉しげな色が加わった。
 そのまま嬉々として、臨也はメニューに書かれた酒の銘柄を吟味し始める。
「ここ、結構いい地酒が入ってるって話だからさ。せっかくだから飲もうよ」
「あー、その辺は任せる」
「そう? じゃあ純米吟醸でいい? 俺、混ぜ物してある酒、嫌いでさぁ。日本の酒は、米と麹と水だけで作るもんでしょ。それ以外のものが入ってるのは、ポン酒とは認めたくないんだよね」
「好きにしろよ」
「じゃあ、どれにしよっかなー」
 見るからに楽しげに臨也はメニューのページをめくり、ああでもない、こうでもないと呟きながら、程なくニつの銘柄を選び出した。
「じゃあ、これとこれを……まずは一合ずつにしておこうか。色々試したいし。あと、食べる方だね。俺、冷奴食べたい。この汲上げ豆腐のやつ」
「好きなもの頼めば良いだろ。出汁巻きと、刺身五種盛と……あ、シシャモがあるな。久しぶりに食いてえ」
「えー、シシャモ〜?」
「何だよ、嫌いなのか」
「シシャモは嫌いじゃないけど、死んだ魚の目は見たくない。なんかさぁ、ぞっとしない?」
「しねぇ。このコロッケも美味そうだな」
「うっわ、スルー?」
「当たり前だろ。手前に付き合ってたら、何も食わねぇうちに日付が変わっちまう」
「失礼だねえ。ホント、シズちゃんて、そういうとこ最悪」
「言ってろ。つーより、メニュー選べ」
「また命令形? 一体どんな亭主関白気取りなのさ。一度、新羅に脳ミソ解剖してもらったら? あ、俺、つくねと鳥皮、欲しい。鳥皮は塩で」
「おう。じゃあ、そろそろ店員呼ぶか」
「そうだね」
 何やかやと言い合いながら、メニューを選んで店員を呼ぶ。
 そして、次々に料理名を告げて。
「あ、シシャモはそちらで頭、取ってもらえませんか。こいつが死んだ魚の目が嫌だっつーんで」
「!? シズちゃん!!」
「何だよ、本当のことだろ。じゃ、とりあえずこれだけで」
 そんな風にどうにか注文を終え、少しの間、待ちの体勢に入る。
 ようやく落ち着いたその隙に、静雄は、お通しの小鉢を箸でつつこうとした臨也に声をかけた。
「臨也」
「ん?」
「とにかくな、最初にこれだけは言っとくぞ」
 そう前置きして、顔を上げた臨也とまっすぐに目線を合わせる。


「この先、お前が口先で何を言おうと、俺は絶対に、お前を見限ったりはしねえから」


「お前はとにかく、俺相手には売り言葉に買い言葉でものを言うだろ。でも、それで構わねぇから。
 そりゃあ、今日の電話みたいに、たまにはムカつくこともあるけどな。でも、それを理由にお前を嫌いになったりはしねえ」
「────」
「それだけは覚えとけ」
 今夜会う時に、これだけは言っておかねばならない、と思っていたことだった。
 というのも、今日の昼間に電話していた時、途中で一度だけ、それまで立て板に水の勢いで喋っていた臨也が、不安げに静雄の名前を呼びかけたことがあったのだ。
 その時は静雄も少し冷静さを欠いていたため、スルーしてしまったのだが、電話を切ってから会話を思い返して気付いた。
 とはいえ、その直後に食事に誘ったのだから、静雄が怒っていないことは臨也も分かっただろう。
 それでも、どうしても気になって、そんな言葉遊び程度のことでは嫌いになどならないと、捻くれ者で毒舌家の恋人に伝えてやらなければならないと思ったのである。
 だが、余りにも唐突過ぎたのか、それとも予想外の言葉過ぎたのか、言われた側の臨也は、呆然と穴が開くほどに静雄を見つめて。
「……シズちゃんて、本当にどうかしてるんじゃないの」
 やっとそれだけを口にした。
 そして、まなざしを伏せ、小鉢をつつき始める。
 その顔が、いつになく物思いに沈んでいるように見えたが、静雄はそれ以上は何も言わなかった。
 この手の話をグダグダと引き摺って良いことは滅多にない。静雄としては、言いたいことを伝えたのだから、後は臨也がどう受け取るかである。
 臨也が考える時間が欲しいというのなら、そっとしておいてやるつもりだったし、それ以上の言葉や態度を求めてくるのなら、その時はその時で応えてやるだけだった。
 そして、沈黙の内に小鉢の中身がほぼ無くなった頃、酒が運ばれてくる。
 店員がテーブル横にやって来た時には、既に臨也はいつもの表情を取り戻しており、互いの猪口に酒を注いで、一体何に乾杯するのかと二人で首をひねった挙句、まあいいか、とそのまま酒を干した。
「あ、結構いけるね」
「そうだな、美味い」
 東北だかどこだかの地酒という話だったが、確かに香りが良く、味もふくよかに広がる。
 これならいい、と満足して向かい側を見れば、臨也は早速、手酌で二杯目を注いでいる。
 一緒に飲んでいるのに手酌かよ、と内心で呆れたが、それはそれで臨也らしいと微笑んで、俺にも寄越せ、と酒を注ぎ終えたその手から銚子を取り上げた。



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