結局、臨也が気付いたのは、夜十時頃だった。およそ二十四時間、眠っていたことになる。
よくもそれだけ眠れるものだと感心しながら、寝起きのぼんやりとした顔を眺めていると、シズちゃんなんか嫌いだ、と臨也が呟いた。
「起きた途端、それか? 御挨拶だな、ノミ蟲君よぉ?」
呆れながら言うと、驚いたように臨也はまばたきし、ひどく不思議そうな顔をこちらに向ける。
「……シズちゃん?」
「おう」
名前を呼ばれて返事をすると、臨也はこちらを見つめたまま、じっと押し黙る。
記憶の整理をしているのかと見当をつけて待っていれば、何かに思い当たったのか、不審げに細い眉がひそめられた。
「……新羅のとこに連れてくって言ってなかったっけ?」
「何だ、覚えてんのか」
「シズちゃんがそう言ってたとこまで。何がどうなって、俺はこんなとこにいるわけ? ここ、シズちゃんの部屋だろ」
「新羅のとこには連れてったぜ。でもあいつが、うちには入院設備はないとか何とか言い出しやがってよ。
手術台の上なら寝かせておいてやらなくもないけど、布団はないから、こじらせて肺炎起こすかもとか言われちまったら、仕方ねぇだろ。あいつんちから、ここまでは直ぐだしよ」
改めて、ここに連れてきた意図を問われると、らしくないことをしたという後悔のような、面映(おもはゆ)さのような感覚が襲ってくる。
新羅の言った通り、新宿のマンション前に捨てておく方が賢かったか、と思った時。
「──なんで、その辺に捨てておかなかったのさ。野垂れ死んだら、化けて出てやったのに」
顔をしかめて臨也が言い返してきて。
その可愛げの欠片もない物言いに、静雄は、ここに連れてきたもう一つの理由を思い出した。
「話が途中だっただろ」
「話?」
何のことだと一瞬迷った臨也の瞳が、すぐに合点したように鋭さを帯び、小馬鹿にしたような目つきで静雄を睨んでくる。
「俺が意識を失う前にしてた話なら、続きなんかないよ。あれで終わり。どうでもいいことだから、忘れてよ、シズちゃん。それに、どうせ直ぐ忘れちゃうだろ、その皺の少ない、つるんつるんの脳味噌じゃさ」
いつもと同じく挑発的な言葉だったが、しかし、それは返って静雄を冷静にさせた。
どうでもいいことじゃねえだろ、と心の中で思う。
臨也の表情は、これまでの八年間で散々に見てきた。だが、昨夜の表情は初めて目にしたものだったと断言できる。
追い詰められたような目の色も、街明かりに悲痛に光った涙も。
───俺はずっと苦しかった。今だって苦しい。
───俺はどうしたらいいんだよ、シズちゃん。
熱に浮かされていたからこそ、零れ落ちた本心。
本当の言葉。
そう感じたからこそ、静雄は臨也をここに連れてきたのだ。
そして、考える時間はたっぷりあった。
丸二十四時間、臨也の看病をしながら時折うつらうつらとする以外は殆どの間、このことを考えていた。
そうして、自分はどうするべきか、臨也が目覚めたら何を言うべきか、ずっと自問していたのだ。
「──あのな、臨也」
自分が出した結論を、どんな風に伝えたものかと迷いながら手を伸ばして、臨也の髪に触れる。
わしゃわしゃと掻き混ぜてやると、癖のない髪は素直にさらさらと言いなりになった。
「そういう物言いすんなら金輪際、構ってやるもんかと思っちまうだろ。馬鹿か、お前は。つーより馬鹿なんだな、マジで」
そう言うと、途端に前髪を掻き混ぜていた右手を払い落とされる。
「馬鹿馬鹿って連呼しないでくれる!? ていうより構ってやるって何だよ! シズちゃん何様のつもり!?」
おそらく、というよりも間違いなく臨也は挑発したつもりだろう。だが、昨夜の表情を見てしまった後では、もう腹は立たなかった。
「馬鹿を馬鹿っつって何が悪い」
溜息混じりに告げると、更に臨也は眦(まなじり)を吊り上げる。
「全部悪いよ! そもそも俺の何が馬鹿なのさ!?」
「全部だろ。自分の方を向いて欲しくて、ナイフで切りつけるなんざ、どう考えたってまともじゃねぇだろうが」
「っ……!」
図星を指してやると、ぐっと黙り込む。
まなざしばかりは射殺しそうに凶悪だったが、頬はうっすらと上気している。熱の名残もあるだろうが、決してそればかりとは思えない。
この馬鹿に、さて何と言ったものか、と思った時。
不意に、臨也が何かに気付いたかのように表情を変えた。
「ねえ、シズちゃん。全然話変わるけど、今、何時?」
「あ? ああ」
唐突に聞かれて一瞬戸惑うが、しかし、自分がどれくらい意識を失っていたのか気になるのは当然のことだろうと納得し、静雄は後ろを振り返る。
そして、コンセントに刺さったままの充電器ごと黒い携帯電話を手元に引き寄せ、それを充電器から外した。
「あれ、それって俺の携帯?」
「ああ。ひっきりなしに着信してブルってたからな、今朝方、それが充電切れ起こしてピーピー鳴る音で俺は起こされたんだぜ。壊さなかったことを感謝しやがれ」
正確に言えば、臨也の寝ている布団の横でうつらうつらとしていたところで鳴り出しただけだったから、壊さずに済んだのである。
熟睡している時だったら、力加減を間違えて粉々に潰していたかもしれない。
早寝早起きタイプの静雄は寝起きは良いが、その分、眠りは深いために、寝惚けて携帯電話や目覚まし時計を壊したことが過去に何度かあるのだ。
だが、ほぼ徹夜で看病してやったのだとは何故か言いたくなくて、それ以上は何も告げずに携帯電話を軽く放る。
すると、布団に寝転がったまま器用に片手で受け止めた臨也は、スライド式のそれを開き、目を丸くした。
「七日の二十二時って……、俺がシズちゃんと会ったのって六日じゃなかった?」
「おう。そろそろ二十四時間、経つな」
「嘘……。俺、丸一日、寝てたの?」
「そうだ。新羅は、ただの風邪だと言ってたぜ。あと不摂生が何とか。栄養が偏って、失調気味とかとも言ってたな。どうせ無茶苦茶な生活してたんだろ」
「──まあ、ねえ。あんまり健康的じゃなかったかもね、最近忙しかったから」
「健康的じゃねえから風邪引いてんだろうが」
できた両親の教育の賜物で、忙しくとも三食きちんと摂り──栄養バランスに関しては少々いい加減だが──、睡眠も最大限確保する主義の静雄は、けろりと不摂生を肯定する臨也に心底呆れながら立ち上がる。
「? シズちゃん?」
「ちょっと待ってろ」
どうしてここまで面倒を見てやらなければならないのかと思うが、二十四時間眠っていたということは、その間、飲まず食わずということだ。
加えて、熱を出すのも汗を掻くのも、ひどく肉体を消耗させる。
目の前に居る以上は、たとえノミ蟲でも何かしらしてやらねばやらないだろうと、半ば悟りの境地で、静雄は昨夜のうちにひえぴた等と一緒に買ってきたレトルトの粥を器に開けて、電子レンジに押し込んだ。
一人暮らしが長いだけに一応の料理はできるし、粥でも雑炊でも作ってやれるのだが、それだとこの捻くれ者は手を付けようとしないかもしれない。そう懸念した結果の、手抜きだった。
そうして電子レンジの中で回る器を眺めながら、あれ、と静雄はあることに気付く。
───ノミ蟲の奴、帰るって言い出さねえな。
非常事態とはいえ、ここは静雄のアパートである。
臨也にしてみれば、ここに運び込まれたというだけでも屈辱だろう、目が覚めたら即、タクシーを呼んで新宿に帰るに違いない。そう思っていたのに、臨也はあれこれ文句はつけているものの、未だに布団に転がっている。
ちらりと振り返って様子を窺えば、先程と同じく、布団に仰向けになったまま携帯電話を弄っており、今すぐ帰りそうな気配は微塵もなかった。
どういうことだ、と思うが、電子レンジの温め完了を知らせる電子音に思考は中断される。
だが、もやもやとしたものは胸の中に立ちこめており、内心で首をかしげたまま、静雄は粥の入った器を手に、奥の部屋へと戻った。
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