「さっきな、こいつが妙なことを言ってやがったんだよ。──不公平だってな。傷付くのも苦しむのも自分ばっかりだって」
「──へえ」
「熱に浮かされた馬鹿の戯言(ざれごと)っつーには、何か様子がおかしくてよ……。何つーか、必死、に見えた」
「それはそれは」
感心したように新羅が相槌を打つ。
確かに、必死、などという形容は折原臨也という男には決して相応しくない。
だが、霧雨の中で臨也の目から零れ落ちた涙は、多分、本物だった。少なくとも、静雄にはそう見えたのだ。
「不公平、ねえ。まあ、臨也から見たら、そうなのかもしれないね」
白衣の両腕を胸の前で組んで、新羅は診察台に軽く体重を預ける。
「──分かるのか?」
「いいや、臨也が何を考えてるかなんて、知ったことじゃないよ。でも、八年以上も端から見ていればね。
臨也は君を潰すために全身全霊を使ってるのに、君は潰れない。一人で進化し続けている君に、どんなに頭が切れても肉体的には並みの臨也は、決して互角にはなれないんだよ。
その状況を臨也なら、不公平と呼ぶかもしれない。俺に言わせれば、仔鼠が巨大な岩に戦いを挑んでいるようなもので、そもそもが常識外れの気狂い沙汰、不公平もへったくれもないんだけどさ」
「───…」
新羅の言ったことを考えながら、静雄は診察台を兼ねた手術台の上の臨也を見つめる。
ぐったりと意識を失った臨也の頬は赤らみ、細い眉はかすかにしかめられて、薄く開かれた唇からは浅く速い呼吸が絶え間なく零れ落ちている。
確かに、馬鹿の所業だった。
誰もが恐れ、目を背ける平和島静雄という存在に、飽きもせず八年以上もナイフ一本と、その頭脳だけで立ち向かい続けてくる。改めて考えてみれば、なんと愚かな行動だろうか。
だが、愚かな行動を何よりも嫌っているはずなのに、臨也は決してそれを止めない。
止めないばかりか、今夜、心底悔しそうに不公平だと、苦しいと訴えてきたのだ。
その言葉が意味する真意は何か。
一見、狂人のような行動の底には、一体どんな感情があって彼を突き動かしているというのか。
初めて静雄は、そのことに意識を向ける。
「……こいつは一体、何をしてぇんだ?」
「さぁね。その答えは臨也しか知らないよ。というわけで、テイクアウトするのなら、さっさと連れて行ってもらえるかな。そろそろセルティが仕事から帰ってくる予定の時間なんだ」
「──分かった」
これ以上、ここで新羅相手に問答していても、欲しい答えは得られない。
うなずいて臨也を担ぎ上げる。
「じゃあな、世話になった。診療代は、こいつからボッタクってやってくれ」
「勿論、そのつもりだよ」
そして、玄関先まで新羅に見送られ、静雄は再び臨也を背に負って、今度は自分のアパートへと帰った。
臨也の熱は、新羅が打ってくれた解熱剤の効果も有り、一旦は下がったが、明け方には薬の効果が切れたのか、再び上がり、その時点で、静雄は今日、出勤することを諦めた。
ノミ蟲如きのために仕事を休むなど、業腹(ごうはら)もいいところだが、自分のアパートで熱を出して唸っている人間を放置してゆくわけには行かない。
そうした挙句、帰宅してノミ蟲の死骸を見つけるよりは、有休を一つ潰す方が、まだマシだった。
苦虫を噛み潰しながら、携帯電話を持ってキッチンに移動し、トムに電話をかける。
朝七時を過ぎたところで、ちょっと早いかと思ったが、出勤時間は八時半であり、洒落者のトムは身支度に時間をかけることを静雄は知っている。思った通り、四回目のコールでトムは電話に出てくれた。
『おう、どした?』
「おはようございます。朝早くからすみません」
『いや、もう起きてたしよ。で、なんだ? お前がかけてくるなんて珍しい』
「あ、はい。その、急で申し訳ないんすけど、今日、休ませてもらえないですか」
『ん? 何か急用か?』
「はい。ちょっと知り合いが熱出して寝込んじまって……。他に看病してやる奴、居ないみたいなんで。こんな理由で休むのは申し訳ないんすけど……」
『ああ、そういう話か。まあ、しゃーねえわな。分かった、俺から社長には言っとく』
「すみません」
『いいっていいって。お前が弱ってるダチを見捨てることとか絶対できねぇ奴だってのは、よく分かってるしな。まあ最近、休みも取ってなかったし、お前もついでにゆっくりすればいいさ』
「すみません、ありがとうございます」
『おう。じゃあな、ダチにもお大事にって言っといてくれや』
そんな風に軽く笑って、通話が切られる。
携帯電話を下ろしながら、静雄は、ほう、と吐息を漏らした。
これまでに有休を取ったことは何度かあるが、こんな理由で欠勤したことは一度もない。ましてや、その原因が臨也ということもあって、必要以上に緊張してしまった。
クソッと舌打ちしながら、奥の部屋に戻り、問題のノミ蟲を見下ろす。
熱が辛いのだろう。意識はないのに、やはり眉は軽くしかめられていて、ひえぴたを貼った額には汗が浮いている。
だが、汗が出るということは、熱自体は快方に向かっているということだ。
昨夜、新羅のマンションに担ぎ込んだ時は、熱は高いのに肌は乾いていた。あの時はまだ熱が上昇中で、しかしピークは薬で抑えられているうちに過ぎたということなのだろう。
そんなことを思いながら布団の傍らに屈み込み、そっと額に落ちかかる前髪に触れると、汗に濡れた地肌が指先を掠めた。
「この分だと、体も汗だくだろうな」
呟き、布団の端から除いている黒いインナーに指先を触れると、案の定、じっとりと湿っている。
「仕方ねぇな」
溜息混じりに立ち上がり、点けてあったストーブの火力を最大にして、押入れの衣装ケースから下ろして間もないシャツとトレーナーパジャマを取り出す。
それから、バスルームの方へ行き、タオルを熱めの湯で絞った。
「ったく、この借りは返せよ、ノミ蟲くんよぉ」
ぶつぶつとぼやきながら額に浮いた汗を拭いてやり、乱暴にならないように一応気をつけつつ、汗に濡れた服を脱がせて着替えさせる。
その際に、ちらりと下着に目をやったものの、まさかそこまで着替えさせられたら憤死するだろうと、手は触れなかった。
汗で湿っているのは気持ち悪いだろうが、静雄とて、意識のないうちに他人の手で下着を着替えさせられたら、その相手を殴り殺す自信がある。
そして、そこまでの羞恥プレイを他人に強制するほど、静雄は残酷な性格でもなかった。
そうして元通りに布団に寝かせてやり、ひえぴたを新しいものに取り替えてやる。
一連の世話の間に触れた肌はやはり熱かったが、昨夜に比べれば随分とマシで、三十八度ちょっとくらいか、と思いながら、静雄は脱がせた服を洗濯するべく立ち上がる。
熱はもうそれほど高くもないのに、これだけのことをしても目が覚めないというのは、それだけ体が休息を欲しているのだろう。
一体どれだけ不摂生していたのかと呆れながら、静雄は洗濯機に洗濯物と洗剤を放り込み、スタートボタンを押した。
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