「食欲ねぇだろうが、ちょっとは腹に入れとけ。でないと、またすぐに熱がぶり返すぞ」
「へ?」
「レトルトのやつを温めただけだけどな。食わねえよりはマシだろ」
布団の横においてやった器を、寝転がった姿勢で片手に携帯電話を持ったまま臨也は穴が開くほどに見つめ、それから畳の上に胡坐をかいた静雄を見上げる。
「……まさかと思うけど」
「ぁん?」
「俺のために、買って来てくれたとか……?」
有り得ない、と表情全体が言っている問いかけのウザさに、静雄は鎮まっていたノミ蟲相手の苛立ちがむくむくと起き上がってくるのを感じる。
自慢ではないが、静雄は物心ついて以来、病気一つしたことがない。そんな男の独り暮らしの家に、レトルトの粥が常備されているはずがない。
当たり前だろうが!と怒鳴りたい気分を、しかし、相手は病人なのだし、別にノミ蟲相手に恩を売りたいわけでもない、と抑え込んで、極力素っ気なく言い放った。
「他に病人に食わせられるものなんかねぇだろ。いいから、とっとと食え」
だが、その気遣いは臨也にとっては無用の長物だったらしい。
「全然よくなんか……っ、」
反論しようと声を上げながら勢いよく臨也は起き上がる。
が、しかし、すぐにその目は焦点を失い、ぐらりと体が揺れた。
「馬鹿か。昼頃まで熱にうなされてた奴が、そんな簡単に動けるようになるかよ。ったく……」
かろうじて布団に両手をついて体を支えた臨也に、呆れながらも静雄は手を伸ばし、落ち着かせるように背を撫でてやる。
手のひらに、細い骨組みの上にしなやかに鍛えられた筋肉が薄く張り詰めている感触を感じ、マジで細ぇな、と心の中で一人ごちて。
次の瞬間、自分は何をしているのかと我に返った。
どうやら自分は、病人や怪我人にはとことん弱いらしい、と自分で自分にそう呆れた時、
「シ、シズちゃん」
かすかに震える臨也の声が、静雄を呼んだ。
「何だよ」
「俺の服は……?」
「ンなもん、昨夜のうちに手前の汗でぐしょぐしょになっちまったから、今朝、洗濯機に放り込んだぜ。ったく、感謝しろよな」
それらは既に、自分自身の洗濯物と共に取り込み、畳んである。
我ながら、どうしてこうも面倒見がいい真似をしているのかと、幾度目かとも知れない溜息を覚えるが、臨也の受けた衝撃は、そんな生易しいものではなかったらしい。
「ちょっと……待ってよ、シズちゃん」
「あぁ? 何がだ」
異様に低い声で呼ばれ、まなざしを向ければ、臨也はひどく険しい目つきでこちらを睨みつけていた。
「一体、君は何してんだよ。熱出してフラフラの俺にとどめを刺すどころか、新羅のところに連れて行って、うちにお持ち帰りして、看病して、着替えさせて、食べるものまで用意して……。こんなのおかしいだろ!?」
語気荒く言われて。
確かに、と静雄は思う。自分のしていることは、これまでのことを考えれば一から十までおかしい。
だが、間違っているとも思わなかった。
「まぁな。昨日までだったら、気でも狂わない限り、俺はこんなことはしなかったと思うぜ」
「だったら何で……!」
問い詰めかけた臨也の声が不意に途切れ、静雄の見つめる前で、は、と臨也は表情を硬直させる。
未だ下がり切らない微熱と興奮とに上気していた頬が、見る見るうちに白く血の気を失ってゆき、そのまるで怯えたような蒼白の無表情の中、切れ長の瞳が恐ろしいものでも見るかのように静雄を凝視した。
臨也がこんな表情を浮かべることがあるのかと内心で酷く驚きながらも、その視線を静雄は真っ直ぐに受け止める。
───どうして、手前はそんな顔をするんだよ?
───俺に言いたいことがあるんだろ。死ねとか嫌いだとか、そんな耳タコの言葉以外に。
───だったら、それを言えよ。今なら聞いてやるからよ。
幾つもの思いが胸のうちに浮かび上がるのを感じながら、正念場が来たのだと直感的に悟って、ゆっくりと言葉に力を込めて告げる。
「俺なりに考えたんだよ。手前の言ってたことをよ。結局、手前は何をしたかったんだ、俺にどうして欲しかったんだ、ってな」
そう言葉に乗せれば、臨也のまなざしは更に引き攣る。
らしくもないその表情は、まさに手負いの獣そのものだった。
「な…んで、そんなこと考えるんだよ。必要ないだろ。君は化け物で、君にとっての俺はノミ蟲で、それでずっとやってきたじゃないか。今更何を……」
怯え、それでも虚勢を張りながら逃走する隙を探っている。
その往生際の悪さはまったくもって臨也らしかったが、それを許す気には静雄にはなかった。
「そうだな。俺もそれしかないと思ってた。──でも、違うんだろ。それじゃ嫌なんじゃねぇのか。少なくとも、俺には昨夜、そう聞こえたぜ」
一言一言告げるたびに、臨也の目に浮かぶ色は追い詰められてゆく。
その色に、本来こうして相手を追い詰めることを好まない静雄の心に少しだけ憐れみの情が湧くが、しかし、少しでも追及の手を緩めれば、臨也は今度こそ静雄がどう手を伸ばしても届かない、虚言と詐略の彼方へと逃げてしまうだろう。
そうなってしまったら、もう二度と、彼の本心を確かめる機会はない。
それだけは、どんな手段をもってしても避けたかった。
昨夜の臨也は、静雄に向かって積年の恨みつらみを吐き出したが、静雄とて、このいがみ合うばかりの関係にはとうにうんざりしていたのだ。
もし、それを変えられるのなら──臨也もそれを望んでいるのなら、その機会は絶対に逃したくない、と腹の底から強く思う。
だが、そんな静雄の前で、臨也は必死に逃げを打とうと足掻いた。
「あれは熱でどうかしてただけで……!」
「熱で本音が出た、の間違いだろ」
「本音? そうかもしれないね、それくらいは認めてもいいよ。でも勘違いされたら困る。俺は別に、君と普通の関係になりたいわけじゃないんだ。俺が何をしても君は傷付かないことの不公平を、どうにかしたいだけなんだよ。
君は俺の愛する人間じゃない。化け物の君と仲良くお手々繋いで、お友達ごっこしたいわけじゃないんだ!」
一息に言い切り、大きく乱れた吐息を吐き出す。
そして、殺しそうな勢いで睨んでくる瞳を、静雄は真っ直ぐに見つめ返した。
「昨夜も言ってたよな、普通なんか面白くも何ともねえってよ」
「言ったよ。俺は普通なんか欲しくない。君と馴れ合うことは勿論、友達になる気なんか、これっぽっちもないんだ」
その言葉を聞き、まるっきり手負いの獣の虚勢だと思いながら、静雄は溜息をつく。
───先に、変わりてぇってシグナルを出したのは手前の方だろうが。
昨夜、苦しい、どうすればいいと臨也は涙ながらに訴えた。
それはつまり、これまでの関係では嫌だ、ということだと静雄は受け止めた。
臨也が静雄を嵌め、静雄が怒り狂う。この八年余りの間、ずっとそれを繰り返してきたが、それでは足りないのだと……そんなものだけでは本当は嫌なのだと、臨也の涙は訴えているように見えた。
それは静雄にとっては大きな驚きであり、だから、臨也が本当は何を望んでいるのかについて、初めて本気で考えたのだ。
出会ってから今日までのことを思い出せる限りに思い出し、蘇る腹立ちを、熱にうなされる臨也の寝顔を眺めつつ、昨夜の涙を思い出すことで宥めながら、臨也の表情の一つ一つ、言葉の一つ一つを順番に並べてみた。
そして、気付いたのだ。
臨也が他人を悪辣なやり方で誘導し、右往左往する様を見て楽しむ悪癖の持ち主であることは十分過ぎるほどに知っている。
だが、静雄に対してだけは、やり方が違う、ということに。
面白そうな獲物を見つけては行動を示唆して、右往左往する様を楽しむのが『普通』のやり方だとすれば、静雄に対しては、手を変え品を変え、ひたすらに攻撃を繰り返すだけで、そこには楽しむという要素がない。
むしろ、異様な強度を誇る静雄の肉体に企みを阻まれ、歯噛みしているのはいつも臨也の方なのである。
恐ろしくプライドが高く、負けることを極端に嫌う臨也が、何故、八年間もそんな屈辱に甘んじているのか。
平和島静雄など眼中にないと無視してしまえば、静雄も臨也のことなど気に留めない。それで全て済んでしまうのに、臨也はそうしない。
勝てる見込みなど限りなくゼロに近いのに、それでも諦めない。
そうして臨也が向かってくる限り、静雄も彼の方を向かざるを得ない。
それが意味するところは、昨夜も直感した通りに、おそらく一つしかなかった。
───本当に手前、馬鹿だろ。
幾度目かとも知れない溜息をつきながら、ゆっくりと静雄は口を開く。
好き放題に言ってくれたが、こちらにも言いたいことは山のようにあるのだ。
「手前、何か勘違いしてねぇか」
「……何が」
「一体、俺のどこに普通があるっつーんだよ。あるっていうんなら、それを教えてくれ」
「え、……」
「手前の言う普通ってのは、たとえば一緒に飯を食いに行ったり、どうでもいいことでメールや電話をしたりすることなのか? だったら、俺がそんなことをするのは幽か、トムさんくらいのもんだ。でも幽は家族だし、トムさんも世話になってる先輩で、俺にとっては『特別』で、普通でも何でもねえ」
そこまで言って、静雄は顔を上げる。
そして、真っ直ぐに臨也の瞳を捉えた。
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