「あ?」
 思わず聞き返すと、臨也は肩をすくめて、いつもの調子で言葉を連ねる。
「シズちゃんが、なけなしの金をはたいて、この俺のために買ってきてくれたわけだし? 考えてみれば、君に何かを奢ってもらうのって、これが初めてじゃない?」
「───…」
「何?」
「妙な気を遣うんじゃねえよ。気色悪ィ」
「残念でした。気なんか遣ってないよ。熱が下がって、おなかが空いただけ。昨日の昼以来、何にも食べてないんだからさ。あ、お茶も入れてよ、水分補給しないと。本当はポカリが一番いいんだけど、どうせ無いでしょ」
「うぜぇ」
 とりあえず、食べる気があるのは分かった。
 が、どうしてこいつは、折角出してもらったんだからいただきますと素直に言えないのかと、静雄は溜息をつきつつ、粥の器を掴んで立ち上がる。
 すると、粥を捨てられるとでも思ったのか、臨也は妙に慌てた声を上げた。
「シズちゃん、お粥!」
「温め直してやる。黙って待ってろ」
 そう言えば、なにやら口の中でもごもご言っていたが、すぐに静かになる。
 全く何を考えてやがるのかと思いながらも、静雄は粥の器を電子レンジの中に押し込み、その間にポットから急須に湯を注いで茶を入れ、冷蔵庫からポカリスエットを取り出してコップに注いだ。
 そうして一式を小さな盆に載せ、運んでゆくと。
「……なんで全部出てくるの」
 真顔でそんなことを言うものだから、心底、静雄は呆れ果てた。
「手前が欲しいっつったんだろ」
「……だからって、全部出てくると思うわけないよ。なんで、全部出てくるの」
「あーもー、マジで手前はうぜぇな! 黙って食って飲んで寝ちまえ!!」
 こいつの頭の中身を誰かどうにかしてくれと思いながら、手を伸ばして黒髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、粥の器を押し付ける。
 すると、臨也は今度は不満げにしながらも大人しく受け取り、もしゃもしゃと食べ始めた。
 熱くなった粥を小さく吹いて冷ましながら、ゆっくりと咀嚼してゆく。
 その様に、よし、と肩の力を抜いて、静雄も自分の湯呑みの茶を啜る。
 熱が引いて食欲が戻ってきたのなら、このまま明日には普通に動けるようになるだろう。
 まったく手間がかかったと思いながら、やっと静かに時間が過ぎてゆくのを感じていると、やがて粥を完食した臨也が、空になった器を盆に戻した。
「全部食えたな」
「そうだね。まだ体はだるいけど、熱っぽさは抜けたし。ついでに、シャワーも借りたいんだけど。何か体中がベタベタして気持ち悪い」
「それは止めとけ。二晩くらい風呂に入らなくったって死にゃしねえ」
「嫌だなぁ、俺は文明人なんだよ」
「ぶり返したらどうすんだ。今夜は我慢して、新宿に帰ってからにしろ」
「ちぇっ、融通利かないね、シズちゃん」
「手前に聞かせる融通なんざ、あるかよ」
「じゃあせめて、顔を洗わせて。歯も磨きたいけど、予備の歯ブラシとかある?」
「……買い置きのストックは、ある」
「じゃあ、それちょうだい」
 図々しく言って、臨也は立ち上がる。
 一瞬ふらついたが、静雄が手を差し伸べるより早く自分で体勢を立て直し、洗面所に向かおうとするから、静雄も諦めてそれについてゆき、新しい歯ブラシと洗濯済みのタオルを出して投げてやった。
 そうして歯を磨き、顔を洗った臨也は、すっきりした顔で布団に戻る。
 そこまできて静雄は、臨也がもう一晩泊まってゆくつもりらしいことにようやく気付き、ひどく驚いた。
 ───つーか、この状況でもう一泊するか?
 つい先程まで、自分たちはかなり険悪な雰囲気で、言葉の応酬をしていたのではなかったか。
 なのに、臨也は訳の分からない理屈を捏ねながら、粥を食べ尽くし、茶もポカリスエットも飲み干し、あまつさえ歯ブラシとタオルまで借りて、今また、布団に戻っている。
 一体、臨也が何を考えているのか、また本格的に分からなくなった静雄の耳に、更に臨也の言葉が追い討ちをかけた。
「そういえばさぁ、俺がこの布団使ってて、シズちゃんはどうしてるの?」
「それは元々客用の奴だ。俺のは押入れの中」
「ああ、そうなんだ」
 条件反射的に答えると、臨也は納得したように掛け布団を肩まで引き上げながら、こちらにまなざしを向けてくる。
「明日の朝、俺、帰るからさ。俺の服、出しといてよ」
「ああ、今日は天気良かったから、ちゃんと乾いてるぜ」
「そう」
 うなずくと、臨也はころんとこちらに背を向けて、それきり動かなくなる。
 ありがとうの一言もなかったが、今朝静雄が着替えさせてやったトレーナーパジャマのまま、布団にくるまっている臨也の姿は、静雄の気遣いを十分に受け止めているようにも見えて、一体何なのだ、と静雄は知らず詰めていた息を吐き出す。
 そして、立ち上がり、自分も寝支度を整えながら、もう一度、臨也の言動について考えてみた。
 苦しい、辛いと言いながら、普通に付き合うのは嫌だと拒絶する。
 自分を看病するなんて、どうしてそんな馬鹿なことをするのかと言いながら、大して遠くもない自宅に帰りもせず、その世話を甘んじて受け止めている。
 まったく支離滅裂だ。
 ───手前の本音は、どこにある?
 部屋の幅が許す限りの隙間を空けて、臨也の隣りに自分の布団を敷き、こちらに向けられた背中を眺めながら考える。
 少なくとも、羅列された言葉の中には、臨也の本心はない。
 全くの嘘ではないにせよ、大部分はおそらく売り言葉に買い言葉で、むしろ本音を隠すものだろう。
 一方で、行動はと言えば。
 霧雨の降る街角で狂ったように笑い、涙を見せ、静雄の言葉に青褪め、そして、静雄の世話に甘んじている。
 ───ああ、そうか。
 臨也の本音はこっちだ、と閃くように静雄は悟る。
 耳にするだけで苛立つ毒を含んだ声や、ニヤニヤ笑いに彩られたポーカーフェイスの奥に、気付いて欲しいと必死に静雄に訴えかけている臨也の感情が隠れているのだ。
 ───それを俺は見てやらなきゃならねぇんだな……。
 臨也はこれまでひたすらに、静雄を振り向かせようとし続けてきた。それはつまり、そういうことだったのだろう。
 折原臨也という人間から目を背けるのではなく、対等な存在として見て欲しい。
 決して言葉にしない、できない感情を掬い上げ、理解して欲しい。
 そのためだけに……静雄の心に存在を刻み付け、振り向かせるためだけに、臨也は静雄にナイフを突きつけ、悪辣な策略をめぐらし続けてきた。
 それはなんと我儘で身勝手で、切実な願いか。
 素直に言えば、もっと早く分かってやれただろうに、ひたすらに攻撃を繰り返すだけとは、どこまで捻くれているのだろうと思う。
 ───本当に馬鹿だろ、臨也。
 『普通』は嫌だと、臨也は静雄の言葉を拒絶した。
 それは本心だと感じたが、しかし、それだけでもないのだろう。少なくとも臨也は、静雄の『特別』を欲しがっている。
 ただ、彼の異常に高いプライドが、それを認めることを拒絶しているだけだ。
 静雄の『特別』を手に入れるために『普通』に振る舞いなどしたら、アイデンティティーが崩壊する。そんな風に思っているのに違いない。
 ───とりあえず、俺は俺にできることをするか。
 普通に付き合うのが嫌だと言い張るのなら、それは仕方がない。
 これ以上、どれ程折れてやったところで、臨也の答えは変わらないだろう。そんな無駄なことをするつもりは静雄にはないし、一応のプライドもある。
 だが、臨也の本当の思いを探し出して、それを見てやることはできる、と思う。
 これまで嫌悪感と怒りが先立って、目を背けるばかりだったそれにまなざしを向けてやれば、きっと新たな何かが見えてくるだろう。
 そうしたら、自然に二人の関係が変わるきっかけを掴めるかもしれない。
 ───なぁ、臨也。俺だって嫌なんだぜ、たとえお前でも、誰かのことを嫌い続けるのはよ。疲れるし、ちっとも楽しくねえ。
 変われるものなら変わりたかったのだ、本当に。
 そのきっかけを臨也本人がくれたのだから、絶対に手放しはしない。
 無論、この先も臨也は今夜のように抵抗し、静雄が差し出す手を拒絶し続けるだろう。
 だが、それでも良いと思えた。少なくとも、互いに攻撃し合うしかなかったこれまでとは形が違う。
 今はそれで十分だ、と心に呟いて。
 静雄もゆっくりと、眠りの淵へと滑り落ちていった。



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