「俺には普通なんて、一つもありゃしねえ。ダチなんざ、居たためしがねぇし、この力を自覚してからは、誰かの家に遊びに行ったこともねえ。やっとこの歳になって、トムさんと夜通し飲んだりとかの馬鹿ができるようになったところだ」
正面から射すくめられて、臨也は身動き一つできないまま、静雄の言葉を聞く。
「俺にとっちゃ、手前の言う『普通』が『特別』なんだよ。俺がどれだけ『普通』を欲しがってるか……、一番知ってんのは手前じゃねえのか、臨也」
そう言い、少しだけ反応を待ったが、臨也は小さく唇を噛み締めて視線を逸らし、顔をうつむけただけで、何も言い返さなかった。
言い返せるわけがないのだ。先程までは何をトチ狂っていたのか知らないが、静雄が普通ではないことは、化け物呼ばわりしている臨也が一番良く知っているはずのことなのだから。
どこまで馬鹿なのかと溜息をつきながら、静雄は手を伸ばし、臨也の髪に触れた。
気付いて逃げかけるのを許さずに、ゆっくりと癖のない黒髪を撫でる。
そして、目と目を合わせて静かに問いかけた。
「──分かるか?」
「……何が?」
「こんな風に誰かに触ることなんて、俺には滅多にねえことなんだよ。最近はガキが周囲をちょろちょろするようになったから、以前よりは回数が増えてきたけどな。でも、まだ『普通』じゃねえ」
「…………」
「お前はいつも、俺だけは違うって言うよな。人間じゃねえって。つまりそれは、お前の中で俺だけは他の人間と違うってことだ。
でも、俺にとってのお前はそうじゃない。喧嘩を売ってくる人間の一人で、嫌いな奴の筆頭ってだけで、『特別』じゃない。少なくとも、昨日まではそうだった。──昨夜のお前の言葉は、それが嫌だってことじゃないのかよ」
ゆっくりと言葉を紡ぐ静雄を、臨也は表情を失くしたまま凝視していた。
普段は鋭いばかりの透き通った瞳の奥で、何を思っているのか。
触れている箇所から伝わればいいのに、と真剣に思う。
「もしそうだって言うんなら、お前はやり方を間違えてんだよ。ナイフで俺に切りつけてくる奴は、数え切れないくらいいる。拳銃で撃ってきた奴まで居るのに、そいつらと同じやり方で、どうして俺の特別になれるっつーんだよ? まあ、お前くらいしつこい奴は、他にいねぇけどな」
言いながら、静雄は止まっていた右手をやわらかく動かして、もう一度、臨也の髪を撫でた。
「なぁ臨也。俺の気を惹きたいんなら、お前の言う『普通』のことをしてみろよ。うわべだけの演技じゃなくてだぜ? そうしたら俺は、多分、必死になってお前を見るからよ」
「そんな、こと──…」
「お前が俺に『普通』をくれるんなら、俺はきっと、お前のことばかり考える。ダチなんて一度も居なかったからな。つまんねえことでメールして、飯食いにいったり、飲みに行ったり……。そうでもなきゃ、俺はお前のことなんか考えねえ。思い出したって、気分が悪くなってそこいらの物をぶっ壊すだけだからな」
言いながら、静雄は昨夜から何度か思い浮かべたその光景を、もう一度、少しだけ想像してみる。
経験がないだけに難しかったが、弟でも先輩でもない誰かと普通にどうでもいいような会話して、時間を共有するのは酷く眩しいことに思える。
それが臨也であっても……否、これまで徹底的に反発し合い、おそらく一番相手の嫌な部分を知り抜いているからこそ、他の誰とも違う深さで繋がれるような気がしてならない。
そして、それは臨也が認め、受け入れてくれれば叶うことなのだ。
無論、だからといって、臨也のすることを一から十まで許すことはできない。その点については、これまで通りに派手に喧嘩をしながら、それでも、別の角度で付き合ってゆくことができるのではないか。
そんな風に考えながら、どこか祈るような思いで静雄は臨也の反応を待つ。
そうして何秒が過ぎたのか。
「普通、なんて……できるわけないだろ」
いつもよりも低い臨也の声が、静雄の鼓膜を打った。
「君が普通じゃないのに、どうして普通になんか接することができるんだよ。忘れてるんじゃないの? 俺は君が大嫌いなんだよ。絶対に、君に対するのに普通なんて在り得ない!」
その強い否定に。
静雄の心の中で、何かがすうっと冷える。
「じゃあ、この話はこれまでだな。言っとくが、俺が今のままの手前を特別に見ることなんざ、絶対にねぇからな」
衝撃は薄かった。
心の中で、所詮、ノミ蟲はノミ蟲、捻くれて意地っ張りでどうしようもないと分かっていたのだろう。
やっぱりこんなもんか、と思いながら突き放す。
もう嫌だと、どうすればいいのかと訴えるから、こちらも真剣に考えたのに、それを叩き落とすような真似をするのなら、これ以上手を差し伸べてやる気はなかった。
それなのに。
「ずるいよ、シズちゃん」
ひどく苦く歪んだ声で、臨也は見当違いの恨み言をぶつけてくる。
「その条件じゃ、君は何もなくさないじゃないか。俺には『普通』になれなんて、無理難題を突きつけておいて」
そのひどく身勝手な台詞に、一体何を言ってやがるのかと静雄は眉をしかめた。
「普通じゃねーよ。特別になりたいんなら、してやるつってんだ。手前の態度次第だけどな」
「何、その上から目線。一体何様だよ?」
「つーより、そもそも手前の中に『普通』なんかあるのか? 手前だって全然、普通じゃねえだろ。普通にすんのは、手前にとっても特別じゃねえのかよ」
「何それ、勝手に……」
「手前が普通に話すんのは……妹たちと、門田と……。他に誰かいるか?」
指折り数えてみたが、中指より先に進まない。
どうだと臨也に視線を向けると、臨也はうつむき加減に酷く悔しそうな顔をしていて。
「……だからって、どうして化け物の君をそこに加えなきゃならないのさ」
苦々しくそんな言葉を重ねられて、それまではどうにか凪を保っていた静雄の気分も少しずつ波立ってくる。
「俺が加えてくれって言ってるわけじゃねえ。俺はどっちでもいいんだ。選ぶのは手前だって、さっきから何度言わせる?」
散々に繰り返すようだが、この話は本来、臨也の方から持ち出したものだ。
静雄とて、これまでの臨也との関係にはうんざりしているが、今は臨也が新宿に本拠を構えていることもあり、臨也が池袋の街に姿を現したり、誰かがその名前を口にしたりしない限りは、その存在を意識の隅に追いやっておける。
それでどうにかここまでやってきたのだから、この先もそれでやっていけないことはないのだ。
胸糞が悪いのは変わらないが、臨也の毒を含んだ言動で傷付くことも、この年齢になれば左程はない。
そういう意味では、今の臨也は許容範囲だった。姿を見れば問答無用で殴りかかる程度の許容範囲ではあるが。
だが、そんな静雄の心理をどこまで察しているのか、臨也は険悪な声で告げた。
「シズちゃんのそういうとこ、大っ嫌いだよ。自分がどんなに傲慢か、全然分かってないだろ」
「あ"ぁ!?」
思わずキレかけると、臨也は顔を上げ、静雄を正面から睨みつけてくる。
「シズちゃんの『特別』なんか要らないよ。俺は絶対に『普通』になんてならない。これまでも、これからも変わらない。今まで通りだよ。俺と君が、この街にいる限り、永久に」
「……そーかよ」
なるほど、と静雄は思う。
臨也がそういうつもりなら、こちらがこれ以上折れてやる必要などどこにもない。
「じゃあ、この話はここまでだな」
「そうして」
互いに言葉を吐き捨て、目を背け合い。
そうして、がし、と少し荒れた髪を右手で掻き揚げた時、ふと視界の隅を粥の入った器が掠めた。
気付けば、先程温めたそれは、もう湯気すら立っていない。
「……冷めちまったな」
せっかく出してやったのに手を付けられることなく冷えてしまったそれは、何となく自分の心にも似ている気がして、思わず低い呟きが零れる。
と、
「──食べるよ」
どこか溜息混じりの声で、臨也が言った。
NEXT >>
<< PREV
<< BACK